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本所新古細工#08/米中関係を思わせる武蔵/下総の股肱の繋がり

鉄剣が出土して一時とても話題になった稲荷山古墳だけど、あの鉄剣に「多加披次獲居」と云う文字が書かれている。これは宮内省内膳司を仕えていた同地の有力者・高橋氏のことだと言われている。
その高橋氏がまとめた家伝が「高橋氏文」だ。その中に磐鹿六鴈命と景行天皇/八坂媛の話が出てくるのだが、こいつがなかなか面白い。高橋氏の始祖である磐鹿六鴈命が景行天皇夫妻に蛤など山野河海の産物を調理し献上したという話だ。・・出てくるものは「つゆはしらあんこう(そりゃ金馬の居酒屋)」というわけではなく安房近海で獲れた鰹/葛飾の浦蛤/葛野の猪や鹿である。
これを江戸時代の碩学・伴信友が「高橋氏文考註」として詳細にまとめているが、谷口栄先生が「古代東国の民衆と社会(1994)」という書の中で、背景にあったであろう无邪志(北武蔵の旧埼玉郡地方)/葛飾野(下総の旧葛飾郡地方)/安房(房総半島南部)間の交易について鋭い考察を加えている。とても素晴らしい。ぜひご一読ください。
家伝書「高橋氏文」は、香取の海が如何に深く内陸部まで繋がっていたかを窺わせる貴重な資料である。しかし家伝書というのは大事だね。「古事記」も記紀なんぞと大見得を張らずに家伝書であることを認めちまったほうが、よっぽどラクだろうに・・と思うのだが。これは余談。
それと。武蔵/常陸/上毛野/下毛野/上総/下総/相模に、実に総計1910基あるという前方後円(方)墳だが、これらの礎石には(相模以外)驚くほど多くの安房産の石が使用されているのだ。間違いなく古墳時代から広く交易がおこなわれていた・・ということだろう。

前述したように、墨田川以東・下総の海岸線は今よりも20km程度は奥まっていた。その陸の部分は、かなり早くから交易の中継点として、なおかつ立農の地として確立していたと考えていいだろう。
ちなみにだね。前回の牛骨の出土の話・・続きだが「浮嶋牛牧」があったであろうと云われている東京都墨田区から葛飾区に跨る地区で、どうやら鰹漁に使ったらしい牛骨で出来た仕掛けが幾つも発掘されている。これを鑑みても、武蔵の国北部/常陸/安房で支配者たちが繰り広げたドッタンバッタンなんぞ関係なく、関東経済圏が高機能に確立していたことは間違いないだろうな。
なので家康が江戸を「作る」と決めた時、その背景となる生産物の提供は充分これらの土地から調達できたと考えられる。

下総と武蔵江戸は、いまの中国と米国並みに深い絆で繋がっていたと見ていい。武家/町民/職人で構成されていた「江戸」には、それを支えるコモデティ・食を作ってくれる人々が必須だったのである。
振袖火事が起きるまで・・隅田川以東下総と武蔵江戸との関係は、まさにそれだった。
振袖火事が、いかに本所深川を激変させたか【深川新古細工#09/振袖火事】2月3日 でその話に触れている。本所・深川が「本所深川」と云える地になるのは、この振袖火事以降であると極論してもいいかもしれない。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました