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ピエモンテ・ワイナリー紀行#8/イタリア南部は搾取され続けた

地誌的に見ると、イタリア半島はヨーロッパ大陸のアルプス山脈の南側から地中海に南東に延びた長い半島です。中央からアペニン山脈が南まで走る。この山塊がイタリア半島南側を分断します。アドリア海側は寒冷で、冬場はボラと呼ばれる冷たい季節風が吹き、長い間定住が難しい地帯でした。
イタリア中央部・南部の都市の大半がティレニア海側・西側にある理由はこれです。フェニキア人もギリシャ人も全て半島西側から入植しています。
比して北から下りてきたラテン人は、アペニン山脈より北側に定住し、ポー川流域・ポー平原に巨大な農業地帯を作り上げました。
これらを俯瞰的に見るならば。...
①北部イタリアの立農国家
➁南西イタリアの商業交易国家
③取り残された南東イタリア
いう構造でしょうか。
ローマ帝国崩落後、幾度も海外から侵略を受け続けたイタリアですが、③は視野から外れたままでした。

こうした構造が中世に入ると
①ゲルマン人の支配下にある北部
➁教皇の支配下にある中央部
③スペインの支配下にある南西部
④顧みられない南東部
という形になります。

①➁は、支配者と折り合いをつけた資本家が多数生まれました。
しかし③と④は、スペインの支配下にあり徹底的に搾取されるだけに終始しました。スペイン人たちは、イタリア南部を植民地としてしか見ていなかったのです。
・・余談ですが。このワイン紀行の話が終わった後で、イタリアパスタの歴史の話をするつもりですが、このスペイン人の支配が南イタリアに新世界の食材・トウモロコシ・トマト・唐辛子をもたらし、食文化を激変させてしまいます。

この支配者たちのスタンスの違いで、北・中央イタリアは支配されつつも大きく豊かになります。特に産業革命の時代がやってくると、北イタリアは早々に機械化を受け入れて、産業の拡大拡充化が行われました。さらに豊かになり、支配者以外の金持ちも多数生まれたのです。
しかし搾取されるだけの南イタリアは貧しいままでいました。実はこれがイタリアにおける大きな病巣として今だに残っているのです。

したがって散発的に起きていたイタリア統一運動リソルジメント(Risorgimento)もすべて北イタリアで起きたものであり、最終的に統一を果たした前出のカミッロ・カヴール伯爵も、トリノの出身です。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました