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米軍キャンプ回りの青春06/ピーとパー子の夫婦善哉#01

門前仲町のお縁日は月に3回、1日15日28日である。今はあまり元気じゃなくなったけれど、僕の子供の頃は通れないほどの混みようだった。小さい時は、よく母か叔母に連れられて、このお縁日のときにお参りへ出た。
お縁日の時は、道路沿いに沢山の露天商が出る。僕のお目当ては、いつだってコレで、ベビーカステラや駄菓子が、買ってもらうものの定番だった。
以前に書いたことがあるけど、ヒヨコにスプレーしたカラーヒヨコなるものを売っている露店があって、そのヒヨコが欲しくてたまらなかった。同級生で買ってもらったのがいたからだ。だからヒヨコ屋の前を通るたびに「買って、買って」を連発した。でも母の返事はいつも「ダメ」それだけだった。ところがある日、こう言った。
「ヒヨコはだめよ。すぐ死んじゃうし、もし死なないと、みんな雄鶏だから、トンでもないことになるのよ。」...
僕はその時、母が言う「雄鶏だから、トンでもないことになる」というのが、どんなことだか判らなかった。・・後で友だちのヒヨコが巨大な雄鶏になり、猛々しく近所の猫を襲うようになって、母が言う「トンでもないこと」が何だかわかるのだが、その時は分からなかった。
「でもどうしても欲しいなら、セキセイインコのヒナを買ってあげるわよ。その代り、面倒を見るのはあなたよ。」母がそう言った。僕はビックリして何度も何度も頷いた。
これって、僕にとって、とっても重要な原体験なのだ。「熱心に欲しがれば、大抵のものは手に入る」という僕の信念の原点はここに有るのです。
あきらめずに熱心に欲しがれば。大抵のものは手に入るのです。

その日、母は成田山の朱門のちょっと先にある小鳥屋「湯原」で、僕にセキセイインコのヒナと保育用の虫篭。粟玉・すり潰す皿。ちいさな保温用電球、そして鳥籠を買ってくれた。
買うときに湯原のオヤジさんから、ヒナの育て方について細々なことを色々と教わった。
「命を預かるんだよ。ハンパな気持ちじゃダメだぞ。」湯原の親父さんは笑いながら言った。でも目は厳しいままだった。

虫篭の中で幼児期を過ごしたセキセイインコは、お腹がすくと幼い声でピィーピィと鳴いた。だからピーちゃんという名前を付けた。程なくして鳥籠の中の止まり木に掴まれるようになると、鳥籠の中の止まり木の横に据えた皿状の巣へ引っ越しをした。それでも僕が家に居るときは、大半鳥籠の外に居た。鳥籠の出入り口は洗濯ばさみで挟まれて開きっ放しだった。
どうも自分のことを家人だと思っているようで、まったく怖じ気ずに何にでも興味を示した。僕が飲んでいるものを飲みたがったり、食べてるものを横から摘まんだりした。とくにティッシュが好きで、咥えて細かく食いちぎっていた。
すっかり若鳥らしくなった頃、母がもう一羽のセキセイインコを買ってきた。
「独りじゃ可哀そうだからね。女の子だよ」母はそう言った。「ピーちゃんの連れ添いだから、パー子だね。この子は」...
パー子は、小さな紙の箱から出されると、鳥籠の止まり木の一番端っこに止まった。
「おや、はじめての家なのに、ずいぶん物もの怖じしない子だねぇ」母が言った。
たしかにパー子は、キョロキョロもオドオドもせずに、どっしりと止まり木に居た。まるでそこが昔からの自分の場所のように。
僕はピーちゃんが、どんな反応をするかが心配だった。しかし鳥籠に戻ったピーちゃんは、最初は警戒をしていたが、すぐにパー子の隣に並んで止まった。パー子は目を閉じて動かない。
「あらあら、姉さん女房なんだね。パー子は」母が笑った。
ピーちゃんが、時々思い出したように突っつくと、パー子は面倒くさそうに返していた。
こうして鳥籠の住人は二人になった。籠の中の二人は大抵くっ付いていた。だけどピーちゃんが籠の外を探索するのは前と同じだった。籠の外で遊ぶのをピーちゃんは、パー子が来てからも止めなかった。
そんな時、パー子は籠の中で外を駆け回るピーちゃんを、時々見るだけで大抵静かに目をつぶっていた。
それでも二・三度は自分も籠から出ようという気になったことがあったが、すぐにそそくさと戻って、いつもの止まり木のいつもの場所に、デン!とした。
ピーちゃんは、そんなパー子に関係なく、籠の外で悪戯放題して、飽きると鳥籠へ戻ってパー子の隣に止まっていた。
そんなパー子が何回か、皿状の巣に卵を産んだが、一度も孵らなかった。
2人は、子供のいないままの夫婦だった。

僕は中学生になった。そしてオリンピックの年、佃から勝どきへ越した。
母が念願の自分の店を持ったからだ。その店の二階が新しい住居だった。
僕はその家が嫌いだった。細い飲み屋横丁の中ほどに有って、夜は酔客が徘徊する処だったからだ。
高校に入ると、僕はあまり家に帰らなくなった。そして高校三年の時に、銀座のウルワシのホステスのアパートへ転がり込み、そのまま家に帰らなくなってしまった。そして大学が受かると、学校の傍にアパートを借りて、そっちへ移った。母の所へ帰るのは年に何度もない。そんな生活になってしまった。
それでも、家に戻るとピーちゃんが家の中を飛び回り、パー子が籠の中から、そんなピーちゃんを見つめている。そんな光景は、そのままだった。


せわしくなく落ち着きのないピーちゃんと、いつも同じ場所に悠然と止まっているパー子とは、正反対の性格だった。
ピーちゃんがハイなとき、パー子に色々とちょっかいを出すが、パー子は適当にあしらって殆んど相手にしなかった。それでもピーちゃんが止めないと、パー子は怒って一撃を喰らわす。そうするとピーちゃんは、止まり木の端っこに行ってしばらく大人しくしている。そんな二羽の夫婦関係が、鳥籠の外から見ていると何とも面白かった。
決して仲が悪いわけではない。しばらくすると、また一緒に並んでお互いの毛繕いをしている。
...
あるとき。ピーちゃんが鳥籠の下で蹲ってしまったことがある。母と僕はビックリして、ピーちゃんを新富町の動物病院へ連れて行った。「はい嚢腫ですね、結石がある。手術しましょう。何日か入院してください。大丈夫ですよ、治ります」と先生に言われた。母と僕はぐったりとしているピーちゃんを預けて帰宅した。
帰宅すると、母と僕の姿を見てパー子が鳥籠の中で「ピーッ!ピーッ!」と鳴いた。いつものドテッと落ち着いた様子は消えて、止まり木を行ったり来たりして籠の外を仕切りに見回している。
「パー子、大丈夫よ。ピーちゃんはすぐ帰ってくるからね。大丈夫よ。」母が鳥籠に手を当てて言った。パー子は、その母の手に摺り寄ると口ばしをしきりにこすり付けた。
僕は驚いた。いつも悠然に構えているパー子にとって、チャラチャラと籠の外で遊んでいるピーちゃんが、実はどれほど心の支えになっていたのか、僕は見たような気がした。
母は鳥籠の中に手を入れると、パー子を撫ぜた。絶対にそんなことはさせないパー子が、母に身体を預けていた。

何日かしてピーちゃんが戻った。ピーちゃんは戻ると、すぐにパー子に身体を寄せた。パー子は別段大喜びをするわけでもなく、ピーちゃんの毛繕いをした。二羽の様子は、いつもの慣れた日常に戻った感が有った。
「よかったね。パー子。もう安心だね。」母が言った。
しばらくすると、ピーちゃんはまた鳥籠から出てしまう。そして色々と悪さをする。パー子はそんなピーちゃんを、時々チラチラと見ながらも、いつもの場所で悠然としている日々に戻った。


無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました