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ワインと地中海#44/マグナ・グラエキア#01

「マグナ・グラエキアMagna Graeciaって、いまいち場所がわからないわ」
「イタリア半島南側だ。アドリア海側はプーリアの州境あたり。ティレニア海側だとサレルノSalerno辺りまでだ。アドリア海側は全体にLongobardiaと呼ばれてる。ティレニア海側は四つに分かれていてSalerno/Lucania/CalabriaそしてSiclly島だ。
Magna Graeciaという呼称はローマ人のものだ。移植してきたギリシャ人たちはMegalê Hellasと呼んでいたそうだ。ギリシャ人たちは自分をヘラスHellasと言ってたからな。いまでも正式国名はHellenic Republicだ。
ローマ人がマグナ・グラエキアMagna Graeciaと呼んだのは、此処に渡ってきたのがペロポネソス半島のGraecia族だからだとしたからだ」
「そうだったの?」
「いや・・もうすこし広範囲からの移植だったろう。サントリーニの大爆発が有って海の民ルウィ族による侵略殲滅が有ってペロポネソス半島の都市は何れも暗黒時代に入っていた。BD900年というのが大きなキーワードだ。そこから200年ほどかけて、ドリア人とイオニアが二大勢力として台頭する時代になる」
「ギリシャの人たちが移植したのはそのころなの?」
「おそらくBC800年から700年代だろうな。つい最近、ナポリ湾の中に有るイスキア島で、アテネの東側エウボイア島レフカンディ遺跡で見つかった墓所と酷似した埋蔵品が見つかった。エウボイアの人々が、イタリア・イスキア島に住んでいたことは間違いない」
「イスキア島は判るけど、エレトリア島ってどこだかわからないわ」
「現代での呼び名はエウボイア島Euboea Islandだ。アテネとの間はエウリポス海峡を挟んで東隣にある。割と大きな島で四国程度くらいはある。中央にレーラントス平野という大きな穀物地帯がある。この平野の覇権をめぐって、隣接する二つの町レトリアとカルキスが戦ったことがある。ペロポネーソス戦争の端緒だよ。アテナイの史家トゥキュディデスがこの戦争について書いている」

「ペロポネーソス戦争って、ドーリア人とイオニア人の戦争でしょ?」
「ん。エウボイア島レフカンディ遺跡はイオニア人の都市址だ」
「ということはイオニア人がイタリアに渡った・・ということ?」
「ん。実は、イオニア人はかなり早い時期からイタリア半島南側と交易関係を持っていた。イタリア側を構成していたのは北アフリカから渡ってきたフェニキア人だ。イオニア人たちは、ペロポネソス半島から遥々広大な海を渡って、彼ら相手に商いの路を繫いでいたんだ」
「でもカルタゴから渡ってきたフェニキア人はとても豊かだったんでしょ?ギリシャ人からなにを買ったのかしら?」
「鉄や銅。鉱物資源は輸入に頼っていた。おそらくメインはそれだろう」
「それを船で運んだわけね」
「ん。かなりたくさんの難破事故があった。その遺された難破船に載っている積載物を見ると鉱物塊がとても多い。きわめて重い。当時の船では少量しか運べなかった。だからイタリア半島側に交易用のストックヤードを起こしたんだろうな。それが移植の始まりだろう。それもあって初期のギリシャ人の移植地点はフェニキア人が在住していたところにはない。少し離れた至り本土や島を利用しているんだよ」
「なるほどねぇ、間借りという感じから始まったのね」
「移植が始まったのはBC750年ころと考古学者は言っている。シチリアに入ったのはBC734年ころだ。
古代アテナイの歴史家トゥキュディデスThukydidesは彼の歴史書で、アテネは暗黒時代にイオニアへ植民地を興したと書いている。BC750 年頃にクマエ(ピテクサイ島の集落から派生したイタリア本土)が設立された。それが734年と733年になってシチリアのナクソス島とシラキュースに設立されたという。20年ほどかけて交易のための仮宿から本格的な移住へシフトしたんだろうな。BC730以降は急激にシチリア全土へ移植範囲は広がっている」
「・・そう。でもイオニア海を当時の船で渡るのは命がけだったんでしょ?」
「ん。アメリカ新大陸への移民という訳にはいかなかった。損耗率は高かっただろう」
「それでも植民?」
「なぜ植民が起きたのか?ということについて、それがいつでも歴史上の大きな問題になる。従来の古代史家たちは、ギリシャ古代都市が充実拡大したために、その余剰要因を移植として外へ出したという。しかし・・たとえばイタリア半島だが、都市化するには相当時間がかかった。たとえば7シチリアのシラクサへ植民したコリント人が都市というべき形にシラクサを作り上げたのはAC700年以降だ。彼らは都市化に1400年かけた」
「1400年!」
「ん。その間に幾つも抗争を重ねた。イタリア半島で始まったギリシャ人の移植は、実はどこもかしこも始まりが寒村状態からだった。どう考えてもそれが都市化拡大ための移植政策とは思えないところばかりなんだ。古代史家たちが言うように。ギリシャ人の移植が拡大化によって起きたと僕には思えない」
「なるほどねぇ」
「それと・・ギリシャ大好き英国系歴史家どもは、フェニキア人の持つ力を過小評価している。セム族から受けた営業力を、まま無視する傾向にある」
「あらあら」
「シチリアは、このとき既にカルタゴから渡ってきたフェニキア人たちの植民地になっていた。ギリシャ人たちは彼らを相手に商いをしていたんだよ。彼らとのコミュニティで移植先を維持していたはずだ」
「いってみれば・・間借りしている、というかんじね」
「そのとおりだ」


無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました