見出し画像

「銀座の子」

銀座は小商いが集まる"村"だ。
この"村"の産業は小商いだった。一階に店舗を構え、二階以降に住むというのが普通だった。そんな商売屋の子が通う小学校があり中学がある。・・子らは独特の気風を持っていた。きっとそれは奉職者がほとんどいない学区だったからにちがいない。
それと、付き合いが親から続いている友達関係が多かった。だから大抵子供たちの通り名は「チョーシヤのたっちゃん」とか「あけぼのミチコ」だった。何かあると、女子はマメに母親へ言いつけるので、たいていのアクジは翌日に親の耳に入る。大目玉をくらうという仕掛けだ。
その分、友達関係は長く続く。大抵の子は成人すると親の商売を継ぎ「チョーシヤのたっちゃん」は「チョーシヤの達夫さん」に歩成りする。
子供時代の人間関係がそのまま続くという訳だ。

しかし・・だからと云って「銀座村の村民」が先祖代々なわけではない。老舗はむしろ少ない。先の大戦のドサクサや、震災のドサクサで移り住んできた人が大半だ。続いていても2代/3代というところだ。銀座の子は正統的な東京語を話すが、親たちには訛りがそこはかとなく残っていることがママあった。
そんな銀座"村"から、商売屋が姿を消し始めたのは、何時ごろからだろうか?初端は東京オリンピックだったに違いない。土橋/新幸橋/山下橋/城辺橋を貫いて高速道路が走ったころからだろう。学区から子供たちが消え、二階は自宅という商売屋も櫛の歯が抜けるように消えていった。震災/戦災で焼失した街の風景が、二階三階までの書き割りのような街並みになって、今度はそれがビルに建て替えられることで、銀座は"生活の場"でなくなっていったのだ。

学区外から通う子だけで出来ている銀座の小学校を見るたびに思う。子らは「銀座の子」という意識を持つんだろうか。卒業後も同級生は友達で居続けられるのか?そう思うと何となくほろ苦いものを感じてしまう。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました