見出し画像

コリョサラムGoryeo saram#07/アゼルバイジャンのバクーにて#07

いまさら言うまでもないが、ロシア/ソ連邦/ロシアはスラブ人だけの国ではない。東へ行けば行くほど、その多民族性は際立っている。
1932年初頭のデータを見ると‥極東地方におけるロシア人は103万3000人(全人口の58.2%)ウクライナ人36万5000人(20.6%)朝鮮人19万人(0.7%)ベラルーシ人6万人、中国人5万人、ユダヤ人1万3000人、先住民は6万3000人とある。非ロシア人の文盲率は際立って高く、支配者であるロシア人の言葉は他民族に伝わらなかった。・・多くの悲劇はここからはじまった。
1926年1月、ソ連邦人民委員部審議会は「中国人と朝鮮人のソ連領への流入を阻止するため、あらゆる可能な措置をとる」と決定した。
「まず第一に内陸諸県からの植民を行うことが不可欠」であり、「朝鮮人の移住の調整は別個に問題にしなければならない」としていた。
ソ連の土地はソ連人民のものである・・という決定だ。ソ連共産主義者たちは、ロシア人によるロシア人の国家形成を念頭に置いたわけである。

1927年2月、極東地方執行委員会幹部会は極東地方土地管理局に命じて、ソ連連邦欧州西側地区からの移民をウラジオストク管区に強制的に入植させる計画を実施した。入植は朝鮮人が開墾したハバロフスク管区のクル・ダルギ地区とビジャン・ビラ地区、およびアムール管区のウルミ地区にだった。最初の措置は1929年10月18日からである。同時にハバロフスク市周辺に居た朝鮮人は遥か北方へ移転させた。・・この強制移住計画によって、最終的に8万7759人をハバロフスク管区のクル・ダルギ地区とシンダ地区に移転。1929年には1229人。そ30年に5000人。31年に約2万人、32年と33年にはそれぞれ3万人近い人間が移転させられたという。
・・ここに多くの悲劇が起きた。朝鮮人たちが追いやられた北方移住先は、極寒地で稲作はほぼ不可能だったのだ。住宅が不足し、狭い家屋に5、6家族が押し込まれた。劣悪な土地で婦女子から次々と死んでいった。こうした問題は、第2回極東地方ソビエト大会(1927)で朝鮮人代議員によってとりあげられているが、大きな変革はないままだった。

ソ連の30年代は、スターリンの「粛清と追放の時代」だ。
スターリンは、ロシアがもつ民族の多様性を一気にぶち切った。
まさに共産主義は「ゴルディアスの結び目」だったわけだ。
コルホーズ・ソホーズという悪夢のしたで、工業/農業は一元管理化され均一の方法で管理統合され、そこに多様性も民族的個性もなかった。国家を育てるための新しい「奴隷」として、共産主義の理想の下に人々を傅かせたのである。すべては「クラーク」の烙印を押された共産主義に逆らう人々である。・・本音は誰でもいい。スターリンは人頭が欲しかっただけだ。人々はロシア北部、シベリア、ウラル、カザフスタンなどへ移住させられていった。
40年代に入ると「国家的作戦に従って」強制的に移住させられた人々は301万1108人あったという。チェチェン人、イングーシ人、カラチャイ人、バルカル人、カルムイク人、クリミア・タタール人、ギリシャ人、ドイツ人、メスヘチア・トルコ人、クルド人のほか、エストニア人、ラトヴィア人、リトアニア人などがそうだ。朝鮮人の強制移住はその一環としてみなされたのである。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました