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ワインと地中海#21/ヒッタイトのワイン04

「僕らがつかうWine/Wein/Vin/Vino/виноの語源はWiyana。ヒッタイト語だ。この言葉を継承したフェニキア人たちが地中海世界で利用したからだ。ラテン語はvinumと書く。古典ギリシア語はoinosだ。ただし今のギリシャ語ではクラシΚρασίという。クラシは"混ぜる"という意味だ。もともとワインは生のまま飲まない。水で割って飲んだ。プラトンの「饗宴Symposion」・シンポジウムの中に、はっきりと書いてある。ワインを生のままで呑むのは野蛮な行為だったんだ」
「え~、だったらあなた、プラトンに毎晩怒られちゃうわよ」
「たしかにそうだ。饗宴Symposionじゃなくて説教malonondasになっちまうな。
地中海東海岸レヴァント地方へ伝わったワインを作るための葡萄Vitis viniferaは、南のエジプトへ、海を越えて地中海の島々へ、そして北のアナトリア地方へと伝番して行くんだ。だからヒッタイトの中にカレらの言葉が生まれるようになると、その古文書に中にもワインの話が度々出てくるようになる。彼らが作り上げた楔形文字の中にも象形文字の中にも、ワインについての言及が見つかるんだ。もっともエジプトみたいなリアルなヒエログラフとは違うから簡単なものだが、象形文字の場合は、はっきりと葡萄の形を示しているのがわかる」
ヒッタイト博物館で、これだ!とあなたが指さした、あの文字でしょ」
「ん。楔形文字で残された文書の中には、詳しくワインに関す芽色々な説明があるから面白い。ある意味、ヒッタイトはワイン文化の始祖だったんだと云える。それがギリシャへ継承された」
「古代ギリシャはビールは好まなかったんでしょ?」
「ん。ワインの方が歓迎されていた。ビールは・・どちらかというと侮られていた。実際問題、地中海北西・アナトリアの海岸は気温が高いし乾燥しているからブドウ栽培には向いていなかったんだが、大麦から作るビールは蛮族の呑む酒と蔑視されていたからね、それもあって自領の丘陵部には葡萄畑が熱心に作られていたんだ。
たとえば・・現トルコ。南西部にオエノアンダ遺跡Oenoanda(Ceylan, 48850 Seydikemer/Muğla)というのがある。リュキアLyciaにクサントス川Xanthosがあって、その谷にインセアリエルIncearielという村がある。その北西部だ。ここに見事な葡萄畑があった」
「いまは?」
「今は遺跡でしかない」
「私たち、行ってないわよね」
「行ってない。メチャクチャ不便なんだ。地図的にはムーラ県のフェティエ地区なんだがな。イスタンブルからは飛行機でアンタルヤまで飛んで、そこから150kmくらいTAXIに乗ることになる。そのうえ村からも孤立した小高い丘のところに有るから、そうそう簡単には行けない。とても二人で行く所じゃない」
「でも独りでは行った?わけよね」
「ん。行った。どうしてもアナトリアの古代の葡萄畑を見たくてな。ところが近在の村はとっても貧しくてな。ホテルも無いしレストランも無い。だから朝早くアンタルヤを出て、帰りは暗い中を戻ってくるしかなかった。飲み物持ってピタパン持って出かけたよ」

「それでも行ったの?」
「樽のディオゲネスの出身地でもある。彼の残した碑文がある。それも見たかったんだ」
ディオゲネスって貧乏で、樽を服代わりにしてた人でしょ?」
「はは。プラトンが嫌いでね、それなんで当てつけで樽の中に住んでいたんだ。そうとう変な奴だったと思う」
「あら。あなたの遠い親戚なんじゃないの?」
「ん~そうかもしれないな。それと実は・・どうしても見に行きたかった理由の一つが、ヒッタイトなんだよ。あの辺りはヒッタイト隆盛時、彼らの支配地だったんだ。だからOenoandaの畑は、ヒッタイトの史料にも出てくるんだよ。彼らはウィヤナワンダWiyanawandaと呼んでいた。ワインの生産地として、此処の名前を挙げている」
「え~ということは3000年くらい前からワインを生産していた場所だったの?」
「ん。だから行くしかないと思っていった」
「どうだった?」
「もう行かない」


無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました