勝鬨橋と晴海通り#01
勝鬨橋は、1940年に開催予定だった万博のために作られた橋だった。
ではその橋が繋いだ道路は? いつ作られたのか? その話をしよう
添付したのは1884 年(明治17 年) に内務省が制作した「東京実測全図」から、該当する部分を拾ってみたた。青線で引いたのが、晴海通りになっていく部分である。
当時、銀座四丁目(尾張町)から三原橋を渡って東京湾へ向かう道は、現在の新大橋通りで、一度T字路になっていた。築地(小田原町)側に渡る道は左に曲がった少し先、本願寺の横を抜けて築地川を備前橋で渡るしかなかった。この時代はまだ築地が外国人居留地として機能してたので、無用に大通りを作るつもりは無かったのかも知れない。
添付図のとおり、この段階では、晴海通りと言うべきものは片鱗もない。
もちろん、小田原町のドン詰まりの先、隅田川の向こう側にも、未だ月島(最初の名前は築島)はない。
築地と築島(月島)は、時間差はあるが何れも首都の大動脈ともいうべき隅田川の浚渫によって出た残土を積み上げて作られた地だ。
江戸政府は隅田川の浚渫には不熱心だった。
江戸の中央部に大型船を入れるつもりはなかったからだ。せいぜい永代橋傍らへ軍用船を係留する地を作る位で留まっていた。後を継いだ薩長明治政府は海運に熱心だった。隅田川に大型船が通れるようになったのは明治も後半からである。
かくして隅田川を浚渫した残土は、先ず陸地側に"築地"として積み上げられ整地され、そして自然に出来上がっていた"中州"乃至"島"を整地し、おなじく残土を積み上げて「築島」としたのである。
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無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました