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本所新古細工#10/おわりに#01

洋行帰りの荷風は自著「すみだ川」の序にこう書いた「新しき時代は遂に全く破壊の事業を完成し得たのである。さらばやがてはまた幾年の後に及んで、いそがしき世は製造所の煙筒叢立つ都市の一隅に当ってかつては時鳥鳴き蘆の葉ささやき白魚閃めき桜花雪と散りたる美しき流のあった事をも忘れ果ててしまう時、せめてはわが小さきこの著作をして、傷ましき時代が産みたる薄倖の詩人がいにしえの名所を弔らう最後の中の最後の声たらしめよ。」大正2年(1921)荷風41歳である。
「深川新古細工の「おわりに」に引用した芥川龍之介の「本所深川」はこうある。
「明治二三十年代の本所は今日のやうな工業地ではない。江戸二百年の文明に疲れた生活上の落伍者が比較的大勢住んでゐた町である。従つて何処を歩いてみても、日本橋や京橋しのやうに大商店の並んだ往来などはなかつた。」大正6年(1927)龍之介は35歳だった。
ほぼ同時期に、ほぼ同世帯の作家が、本所深川に同じ今昔之感を受ける。
二人が見た「明治の本所深川」はどんな土地だったのか?

僕は足元に墨田川が滔々と流れる両国橋の上に立ちながら、国技館を見つめた。橋の向こう、うなぎ屋「神田川」へ行こうと、銀座から浜町を抜けて家内と歩いた時である。
家内が目敏く「イノシシ」の看板を見つけた。「両国ももんじや」である。
店の入り口の上に大きなイノシシの立体的な看板がある。
「ン~。オレがガキの頃ぁ、ホンモノがブル下がってたんだけどな。今時はエーセーがなんのとか言ってダメなのかなぁ」
お目当ての「神田川」はそのちょいと先だから前を通った。家内が不審そうに「え~ホントにブル下がってたの?ブル下がってたら、私入れないわ」と言った。
「大川も領国橋を渡れば、大江戸八百八町の外だったからな。この辺は下総・千葉の一番外れだ。イノシシの店ぐらいあったって不思議はない。古い店だよ。天保年間からあったという話を聞いたことある。
領国橋が架かったのは貞享のころ(1686年)だから、それから50年間くらい経ってからの創業だ」
「190年前?江戸時代って肉は食べちゃダメだったんじゃないの?」
「ん。建前はな。でも薬として食べられることは割とあった。イノシシは牡丹。馬は桜。鹿は紅葉ってた。全部、花だ。桜鍋の有名なのは森下に有るよ。やっぱり隅田川のこっち側だ。花じゃないとこでは、鳥は柏。色が柏の葉に似てるからだろうな。兎は月夜。見て跳ねるからだろ。
上方落語に"池田の猪買い"という噺がある。東京は談志が"猪買い"という演題でやってた」
両国の「神田川」は乙な店で、素見だと入り難い。僕らは2階の奥へ通された。
「タマにゃ、すっぽん行くか?」と僕が言ったら「イヤ!」で一蹴された。
「あなただけいけばいいじゃないの」
「ダメダメ、二人前からなんだよ。」
「でもイヤ!」
はいはい。大人しく鰻重定食にした。ただ鰻だからね、出てくるには相応の時間がかかる。ムカシゃお新香つまみながら無沙汰を過ごしたんだが、最近は突出しは出てくるわ、お刺身は出るわで、世の中変わったもんだ。
鰻重が出た後も口変り、茶碗むし、酢の物、小鉢物が続く。

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無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました