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ポリマーとファイバーグラスで作られた「懐かしさ」はいらない

日本昨今50年の激変は世界の500年に準ずる。
500年は言い過ぎだろうか・・しかしそういいたくなるほど隔世の感があるのは、僕の幼少期の風景が殆ど完膚なまでに消え去っているからだ。
日本文化は堆積しない。それが欧州文化との決定的な差だ。根こそぎ消えてしまう。人々の営みの跡、苦悩と歓喜のあとを訪ねて出かけても、有るのは行政が作ったプレート看板一つだったりする。何も往時の人々の心の動きをまさぐる手立てもないことが多い。その潔さが、おそらく日本の文化の特性なんだろう・・と僕は思う。しかし・・この50年である。この50年は、それがよりディフォルメされ列島を席巻した・・少なくとも東京では・・下町では・・僕の原風景の大半が消えた。
もちろん、無理くり残すものではない。だから僕は、とくに他所から流れ込んできた者が「おためごかし」に歴史保存を声高にしゃべるのを聞くとヘキヘキする。消えるものには消えることで生まれる"意味"があるからだ。消えるものに惜情をもって哀しむのは、それと共に時間と思い出を共有した者の特権だ。ぜひあなたはあなたの原風景を見つめてください・・といいたくなる。

たしかに共通項としての「懐かしさ」は原風景としてある。でもその大半は、ステロタイプ化した出来合いの・・まるでディズニーランドにあるようなポリマーとファイバーグラスで作られた「懐かしさ」だ。そんな出来合いの「懐かしさ」は、その原風景を幼児のときから共有する者にとっては、濁りでしかない。夾雑物でしかない。

30年ほど前、ドイツの会社で「機械で出来た花嫁」のメンテナンスに傅いていた時、東欧のある村へ出かけたことがある。その村はアルプスの崩れた崖が作ったなだらかな坂の途中に有った。真ん中を川が流れていた。川は雪解けの時期になると屡々氾濫し、村と村の畑を押し流していた。政府はこの川の上流にダムを造った。氾濫を治水し発電の為である。たしかに氾濫はなくなった。しかし川は死んだ。川魚は殆どいなくなった。川に流される水流はダムの底の水であり水温が極端に低いからだ。
僕はこの話を、同行した上司から聞いた。「われわれは機械の花嫁の従者だ。だからこそ心しないといけない。良かれと思って自然を動かすことは、かほど瑕疵を伴う」

前職、インキュベーター時代。僕はこの話をウチのスタッフによくした。「風力発電所の足元をみろ。いかに無数の渡り鳥の屍骸が転がっているか。マイクロ水力発電機がいかに生態系を破壊するか。安易な良かれは、善かれではない」と・・

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました