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僕の青春/僕のベトナム戦争/マンハッタン

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#ベトナム戦争

LAST FRIGHT OF SAIGON#08/ニクソンドクトリン

LAST FRIGHT OF SAIGON#08/ニクソンドクトリン

和平交渉は続けても、戦争は終わらなかった。
明らかにアメリカ内部に戦争が終わらないことを望む勢力があったのだ。
戦争で儲ける人々は厳然として存在する。そしてそんな人々は政府決定機関に隠然としたチカラを持っているのも事実だ。いまウクライナ戦争を煽っている輩(TV新聞を含め)も、それで膨大な利益を得ていることを忘れてはならない。

1969年1月20日、僅差でリチャード・ニクソンが大統領に就任した。同

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LAST FRIGHT OF SAIGON#07/最初の全面戦争

LAST FRIGHT OF SAIGON#07/最初の全面戦争

"ベトナムの京都"フエに、北ベトナム軍とベトコンの混合部隊が突入したのは1968年1月31日未明。2月24日まで25日間、古都は血に塗れた。これが北と南の最初の全面戦争だった。このとき、南の兵士たちはフエ市内に在住していたアメリカ人/ドイツ人/親米ベトナム人そして地方官吏/豪商らを血祭りにあげた。その数は300と言われるが実数は分からない。ひとつの町にいた外国人がそんなに少ないわけがない。しかしこ

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LAST FRIGHT OF SAIGON#06/古くて新しいゲリラ戦法

LAST FRIGHT OF SAIGON#06/古くて新しいゲリラ戦法

アメリカ軍は対地上用戦闘部隊を派兵する前に、お約束の爆撃機からの集中投擲を始めた。1965年2月7日からである。先の大戦中に成立したアメリカの戦争の仕方である。これは日本でもドイツでもイタリアでも極めて効果的だった。・・しかし・・しかしだね。ベトナムは国土の大半はジャングルである。空爆による打撃は都市部にしか加えられない。たしかに都市部は灰塵と化したが、ジャングルに水田に投擲しても驚くのはカエルと

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LAST FRIGHT OF SAIGON#05/胡志明Hồ Chí Minh

LAST FRIGHT OF SAIGON#05/胡志明Hồ Chí Minh

アメリカは二つの共産国家に次いで新しい共産国(小国)が台頭することを嫌った。
越南は、その名の通り古くから中華圏だった。気質的にも文化的にも華人のそれに近いと言い切ってよいと思う。越南は/ベトナムは、東南アジアというより華国文化圏内の東アジアだ。だからこそ越南ベトナムに、アメリカは中国を覆ったような親共産主義になり得る資質を見たのかもしれない。

胡志明Hồ Chí Minhという男がいた。ベトナ

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LAST FRIGHT OF SAIGON#04/お定まりの民族の自由と尊厳を守る戦いについて

LAST FRIGHT OF SAIGON#04/お定まりの民族の自由と尊厳を守る戦いについて

小国の内紛は、いつもすべて本質は同じだ。
一つの土地(国)を巡って、二つの拮抗する勢力が互いに覇権を目指して争う。そして拮抗する武力に圧倒的な差をつけるために、どちらかが大国と取引をする。それを知った対抗勢力がすぐさま、相手側が手を結んだ大国に対立する大国と手を結ぶ・・だ。先の大戦以降、その利用される大国は、共産大国と非共産大国になった。東西の代理戦争になった。
過去にもあった代理戦争との決定的な

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LAST FRIGHT OF SAIGON#03/千切られるような別れについて

LAST FRIGHT OF SAIGON#03/千切られるような別れについて

基地廻りのバンド家業は屋根アゴつきどころかPXが使い放題だったから、いきおい着るものは官制のものばかりになった。シャツもスボンもベルトも靴も何もかもそれになった。デニムもリーバイはあったけど、大体はUNICOR製だった。これって連邦刑務所で服役囚がMILスペックで作ってるやつ。格段に安くて格段に丈夫だった。しかし、上から下まで官制で、その上ワンショルダーのバッグを肩にかけてると、ウチのオフクロが見

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LAST FRIGHT OF SAIGON#02/変貌したyokota

LAST FRIGHT OF SAIGON#02/変貌したyokota

僕が知っている横田は、すでに爆撃航空団の基地ではなくなっていた。F-105Dサンダーチーフ戦闘爆撃機の姿を横田で見ることはなかった。
サンダーチーフが縦横に飛び回る横田を知っているのは、僕のマネージャだった三舟さんの世代だ。その三舟さんがトンキン湾事件のことを屡々口にした。よほど痛烈な印象だったに違いない。
1964年8月2日にトンキン湾でアメリカの駆逐艦マドックスUSS Maddoxが北ベトナム

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LAST FRIGHT OF SAIGON#01/兵士の値段

LAST FRIGHT OF SAIGON#01/兵士の値段

1973年1月27日、キッシンジャーは(アメリカ合衆国の代表として)パリに、(北)ベトナム民主共和国/南ベトナム共和臨時革命政(南べトナム解放民族戦線のこと)/(南)ベトナム共和国(南ベトナム)を集合させた。そしてこの四者による会談によってアメリカ軍のベトナムからの撤収が決定された。これによって1968年から始まってきた「ベトナム戦争の和平会議」は一応の終結を迎えることになった。
同年3月、北爆停

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he United Service Organizations Inc

he United Service Organizations Inc

デマジオと新婚旅行で来日したマリリンモンローが、そのまま朝鮮戦争の最前線へ慰問に行った話は有名だ。
ディマジオは帝国ホテルでマリリンの帰りを待っていた。朝鮮慰問から戻ったマリリンはディマジオに言った。
「何万人もの歓声だったのよ。すごかったわ!」
ディマジオは憂鬱そうに言った。
「知ってるよ」
何万人何十万の歓声を彼は球場でいつも浴びていたのだ。
新婚旅行から帰国した2人は、ほどなくして別れた。小

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龍山基地で見たニクソン退任のTV放送

龍山基地で見たニクソン退任のTV放送

1974年8月9日未明。僕は韓国・龍山にある米軍基地にいた。
龍山基地は元々日本軍の駐屯地だった。ソウルに隣接する広大な米軍基地である。その朝、僕はその下士官クラブEMにあるピアノの前に座っていた。仕事ではない。時間つぶしにピアノを弾いていたんだ。
このEMは、龍山基地に幾つかあったクラブの中でも一番広い施設だった。カウンターの上に、当時はまだ珍しかった大きなテレビが設置されている。まだ夜明け

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アジアの奇跡の真っただ中を歩いて思ったこと

アジアの奇跡の真っただ中を歩いて思ったこと

僕が官制ワンショルダーバックを担いで、環太平洋の米軍基地を渡り歩いてピアノを弾いていた時期。
1970年から1970年代半ばまで・・米軍基地のあるアジア主要国は、大きく経済発展を遂げた。
僕は基地から出て、色々な町を歩くたびに、それを肌で感じていた。
特に地元のプロモーターに頼み込んで、町ばのクラブやホテルで仕事をさせてもらうと、観客の服装や質がどんどんと良くなっていくのを実感した。
アジ

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