LAST FRIGHT OF SAIGON#08/ニクソンドクトリン
和平交渉は続けても、戦争は終わらなかった。
明らかにアメリカ内部に戦争が終わらないことを望む勢力があったのだ。
戦争で儲ける人々は厳然として存在する。そしてそんな人々は政府決定機関に隠然としたチカラを持っているのも事実だ。いまウクライナ戦争を煽っている輩(TV新聞を含め)も、それで膨大な利益を得ていることを忘れてはならない。
1969年1月20日、僅差でリチャード・ニクソンが大統領に就任した。同年7月25日に「ニクソン・ドクトリン」を発表。ベトナム戦争の縮小と終結を模索するが、彼のチャーチル式の交渉術は却って戦線を拡大する方向へ向いてしまった。特に中共からの軍事支援ハブになっていたカンボジアへ侵攻したことで事態は火に油を注ぐ状態になってしまった。
そして1972年3月30日「イースター攻勢」である。ソ連製の最新鋭兵器で固められた3万名の北ベトナム軍が南北の国境を越えた。北部のクアンチ市は4年前の古都フエの悪夢を繰り返した。これに対してアメリカ軍は地上部隊を導入せずに徹底的な空爆を行った。地上戦を行ったのは南ベトナム軍だった。地上戦は凄惨を極めた。
当時、既にアメリカ兵は1万人程度に減っていた。地上戦なおける連合軍側からの派兵は、韓国などの「傭兵」ともいうべき兵士に取って代われていた。戦闘機も1968年に比べて1969年は半分近くまで減っていた。1972年の初頭でみると、南ベトナム内に駐留していたF-4戦闘機3個飛行隊およびA-37攻撃機は76機。隣国タイに114機。83機のB-52がタイのU-TAPAOとグアムのアンダーセン空軍基地に駐留。航空母艦4隻がトンキン湾に配置されており、これが140機の空母艦載機を擁していた。
なぜ、ニクソンは徹底抗戦を指示できなかったか?それはキッシンジャーを窓口としてソ連と軍縮会談を進めていたからである。なのでどうしてももう一歩踏み込んだ決断は不可能だったのだ。
そして金の流出である。これが最重要問題だった。
アメリカは戦争遂行のために膨大なドルを発行した。これを受け取った欧州各国はアメリカの防共を指示し支えたが、ドルそのものは信用しなかった。それなので手に入れたドルはすぐさま金との交換をアメリカに迫った。アメリカは急速に保有している金を失っていった。1971年8月15日、ニクソンは唐突に米ドル紙幣と金の兌換を停止を宣言。ドル兌換紙幣時代が終息していたのである。
その状態でさらに軍費を投入しなければならない拡大戦略は取りようもなかったのである。そして輸入課徴金制度の設立、物価、賃金の凍結によってニクソンはアメリカ経済の立て直しを図ったのだが、成果として現れるのはレーガンの時代になってからだった。
1972年、ニクソンは再選を果たした。しかしこの再選は民主党全国委員会本部への不法侵入および盗聴事件、いわゆる「ウォーターゲート事件」を孕んでいた。なぜニクソンはババを掴まされたか?その話はいずれしたい。
そして1974年8月8日夜、TVで大統領を辞任することを表明、ウォーターゲート事件の責任をとる形で8月9日に正式に辞任している。