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超利己的『フェイクスピア』感想文

近頃はいろんな漫画映画演劇、
中でも特に映画をそこそこ見ていて、
あまりに情報が過多になってそろそろ、
自分の脳が爆散するんじゃないか。

そういうタイプの不安にかられ
久しぶりに何かを書こうと言う訳です。

何か最近のインプットに関係する…
と悩んでいたはずが
最初に思い浮かんだのは
2021年7月の『フェイクスピア』だった。

はじめに

ネタバレあり、
知らない方への気遣いなし、
脈絡一切なし、
自分以外のものを一切配慮しない
感想的文章になる予定。

伏線たらしめ力

伏線って張られた時点で、
鑑賞者がその事実に気が付かないと意味がない。
その場で伏線だと気づかなくとも
違和感として残っているからある時伏線になって、
見事に回収されるわけで。
違和感を持たなければ伏線にならない。
持っていない伏線に回収もへったくれもない。

だからといって、
「覚えていてくださいね!」と眼前に並べられたら、
それはそれで伏線でなく提起。
伏線は自分で気がつくところに感動があると思う。
精神に与える衝撃の大きさとして。

違和感が残るのと説明しないの間、
限られた上演時間の中で、
どういう手段で伏線を張るのか。

たぶん悩みどころなんだろうなあ。
私は伏線を張ったことがないから、
残念ながら想像しか出来ない。

見知らぬ山の中で物語が進む。
その隙間に突如として、
舞台の幅いっぱい広がる白い大きな坂道の上から
椅子がいっぺんに転がり落ちてくる。

見慣れてきた山の中で物語が進む。
その隙間に突如として、
舞台の幅いっぱい広がる白い大きな坂道の上から
キャリーバッグがいっぺんに転がり落ちてくる。

椅子もキャリーバッグも
転がりきる前にすぐに袖にはけて、
舞台は何もなかったかのように物語が進んでいく。

あれは何だったんだろう。
山に椅子やキャリーバッグが降ることはない。
それぞれ数秒のその出来事は、
私の中で違和感にならないわけがなかった。

物語は進み、
ある飛行機墜落事故へ集結していく。
舞台上で飛行機が墜落へ向かう時、
ああ、山に椅子もキャリーバッグも降ったんだ。
違和感は伏線に変わっていて、
他にも数多あった違和感共々、
たぶん心臓のあたりで溶解していった。

『フェイクスピア』のあの、
転がり落ちてくる椅子やキャリーバッグほど、
印象があざやかで深い伏線はない。
少なくとも今までの人生の中で。

二場面同居フェチ

同じ舞台上で、
同じ時間軸を生きる場面が同居するシーンが好き。
別に同じ時間軸である必要はない。

漫画ならコマを二つに割れば、
アニメやドラマなら画面を割れば、
あるいは画面と音声を別々にすればいい。
それをどうやったって物理的に1つの舞台上で作るのか。
演劇は演劇で様々なやり方があって楽しい。

その場の4人でやり取りをしている。
そこにいた謎の男は逃げるようにして、
もしかしたら追いかけていたかもしれない、
そこは全然定かではないがそういうようにして、
走って山道へ入っていく。

実際の舞台上で表現すると、
前述の幅いっぱいの坂道の先には、
中央に細くて黒い階段のようなものがあって、
やり取りをしていた高橋一生さんが駆け出して、
黒い階段の真ん中まで登っていく。

階段を上がった高橋一生さんは走る動きを続けていて、
そこにピンスポットがあてられる。
元いた場も照明で照らされていて、
照明の力で一つの舞台は二つの場面になる。

謎の男が立ち去ったあと、
そこに残っていた者たちは男が一体何者なのか、
想像し意見を交わしている。
謎の男はそれを知る由もない。
ひとり山道を走り続けるのだ。

舞台演劇を見ていると、
照明の力をひしひしと感じる。
光の色形動きだけで思ってもみないほどに、
想像力を掻き立てられるものだから。

それは天使か悪魔か

…そしていつの日かこのコトバの一群が、舞台にのれるような芝居を思いつきたいものだと不謹慎にも思った。隣りで、悪魔から「人間には、やっていい事と、やっちゃあいけない事があるとおもうけどなあ…」とアドバイスされた。…

『フェイクスピア』公式サイトより引用

別の日に鑑賞した友人と、
『フェイクスピア』の話をする機会があり、
公式サイトに掲載されていた、
脚本・演出・出演の野田秀樹さんのコメントの話題になった。

鑑賞して発覚することだけれどコトバというのは、
題材となった飛行機事故で実際に残された、
墜落当時のコックピット内の音声記録、
そのやり取りのことだった。

不謹慎なことをやっちゃあいけない事と言う存在は、
天使なんじゃないかと友人は言って、
自分がやりたいことに反対する存在は、
創作者にとっては悪魔なんじゃないかと私は言った。
それが記憶によく残っている。

どうしてアドバイスしてきたのは、
天使じゃなくて悪魔だったんだろう。
よくよく考えると不思議な気がしたので、
検討してみることにした。

以下、悪魔への固定観念で話をするのだけど、
悪魔は人間を堕落させるのを生業としていて、
だから怠けよ自分を甘やかせと、
意思の弱まった人間にささやきかけるのだろう。

その悪魔が創作を止めるってことは、
何か悪魔に対して不都合が起きてしまう。
そういう推測ができる。
遠回しな語り口から察するに、
創作者には感づかれたくないような、
重大なことに違いない

(割愛)

悪魔にはそれが人間に多大な、
それも堕落とは程遠い力を与えてしまう、
そういうコトバだと分かっていたのかも。

強いコトバがさらに力を持った演出によって、
よりいっそう多くの人間に届いていく。
コトバが届いた人間の精神力は強化される。
あの舞台を観た人間は、
一時的あるいは半永久的に、
怠惰に生きようなんて思えないだろうから。

コトバの一言一句は思い出せない、
ただあの舞台ごと与えられた力は思い出せる。
思い出すたびに精神力が強化される。
悪魔からしたらとんでもないもので、
だから懐柔してでも止めたかったのかもしれない。

この辺で…

思い出せるだけ思い出したら、
意外にも際限がなくなってしまう気がする。

俊敏にスライドするカーテンの後ろで、
死者の魂とイタコが入れ替わる演出がかっこよかった。
ポスターとか公式サイトのデザインが素敵。
冒頭の木々が倒れるシーンで心奪われた。
言葉の裏に膨大な連想の網が垣間見えた気がする。

みたいな断片断片を思い出したりもしているが、
どこかで機会があったときには、
言葉にすることもあるかもしれません。

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