マガジンのカバー画像

私と祖父とクレッセントハウス

23
「古き良き時代」の面影を、現代までそのままに残したクレッセントハウス。2020年、ついにその歴史が幕を閉じます。様々な想いを胸に、作家として大きな影響を受けたこの場所についてを、… もっと読む
運営しているクリエイター

#クレッセントハウス

クレッセントハウス存続を求めて。

クレッセントハウスの保存活用をもとめて。 本当にこれでいいのか、という想いが強く、FBページを立ち上げる事にしました。 解体の可能性が高いのにFBを立ち上げる意味を聞かれても、具体的に答えるのは難しい。ただ祖父の関連で思い入れがあるから、というのともちょっと違う。 ただ,言えるのは、どんな結果に終わろうとも、この件を通して同じように、このコロナの時代にあって、古くからの文化や物語、環境が失われていること、その流れは加速している、と言うことくらいは伝えられる。失われる前に未

「古く美しきもの」石黒孝次郎氏遺贈品展によせて

「古く美しきもの」石黒孝次郎氏遺贈品展によせて 三笠宮崇仁 今から数年前のこと、あの赤煉瓦造りのクレッセントハウス4階にあるお部屋で、石黒孝次郎氏と雑談をしていたとき、同氏が蒐集された美術品を(財)中近東文化センターに寄贈するつもりで選んでいるというお話を伺いました。私は、望外の幸せと感激しましたが、そのごまもなく同氏は体調を崩され、悲しいかな、1992年3月2日、ついに不帰の客となられました。もはや、あのスポーツマンらしい凛々しさと美術愛好家らしい温情を兼ね揃えた石黒氏

クレッセントハウス完成パーティーの冊子より(1968年)

開館にあたって  1947年の秋、長かった戦地の生活つから帰ってきた私は古美術商になってみようと「三日月」を商号として出発しました。  翌年戦災で砂漠の様になって居た芝公園に些かな店舗を建築して西洋古美術の専門店を開きましたが、10年経った1957年の秋にはその建物を改築して年来望んでいた仏蘭西洋料理「レストラン・クレッセント 」を開いて古美術商は京橋宝町に移しました。   このことは常々「美しいもの」と「美味しいもの」との深い関係について考えていた私の大きな実験でもありま

18世紀の晩餐会・料理の復刻、「鹿鳴館の夜」(15)

怒涛の2020年が終わり、2021年を迎えました。時代が大きく移り変わる中、私たちは、何を得て、何を喪失し、何に立ち上がり、何を守っていくのだろう。そうして、どんな新しい時代を、未来を作っていくのだろう。 年内に室内の整理が終わったと思われる今のクレッセントでは、しばらくの間、静けさの中、運命の成り行きを待ちながら佇んでいます。 昨年のコロナの影響では、このクレッセントハウスのように、伝統ある事業、歴史ある建物等多くの価値あるものが失われていったと思います。コロナ問題と経

欧州と日本の建築物に対する価値観の違い

秋〜冬にかけて少したてこんでしまい、ストップしてしまっていましたが、まだ、まとめていくのですが、その前に・・・ 今回の資料まとめの件で勉強になったことがあります。それは、日本の土地建物と、欧州やアメリカ等の土地建物に対する考え方とが、真逆だということ。 向こうでは、建物が古くなるほど、価値が出る、という考え方で、アンティークにちかいような感覚で、価値が出るそうです。(特別な建物というだけのことではなく)その考え方からいえば、クレッセントや、そのほか歴史ある、あるいは主人の

「鹿鳴館の夜」昭和から平成へ。 案内と食器、メニューで見るレストランクレッセントの歴史(12)(13)(14)

芝公園に63年間の歴史を刻んだレストランクレッセント が、静かにその幕をとじる。このnoteは、そのことをきっかけとして、創立者であった石黒孝次郎が、クレッセントハウス内で展開していた様々な事を、手元にあるわずかな資料をもとにまとめるようになりました。 本日、閉店の日。投稿しはじめた当初は、閉店のその時までに、これらの資料をまとめようと思って取り組み始めたもののなかなか追いつかず、すくなくとも、年内いっぱいはまだ建物も残っているということで、引き続きまとめて行きたいと思いま

「鹿鳴館の夜」 メニューで見るレストランクレッセントの歴史(10)(11)

レストランクレッセント閉店を知ってから、家にわずかに残された資料をまとめることが、不思議と私にとっての小さな使命感になっていました。それは、同じ様にクレッセントでの想い出を大切にされている方々にとっても、改めてこんな側面があったのかということを、なくなってしまう前に少しでも知っていただいてお楽しみいただける様な内容になれば、という思いからであると同時に、この昔の資料の中には、古く美しき時代を大切にしつつ、新しい時代へとそれをつなげていく…所々に見え隠れするそんな内容を、現代に

「鹿鳴館の夜」〜洋風御懐石の夕べ〜 案内と食器、メニューで見るレストランクレッセントの歴史(7)(8)(9)

秋深く、菊花も美しく咲き乱れるこの頃、皆様方には益々御清祥のことと御慶申し上げます。クレッセントハウスの年中行事「鹿鳴館の夜」も回を重ね、今年は第7回を迎えることとなりました。 近年フランスでは「ムニュ・デギュスタシオン」という調理形式が注目されております。これは日本料理の影響を多分に受け、合せて19世紀末の数多いメニューを現代人の嗜好に会うようにアレンジして少量づつ味わう、いわば、フランス風の懐石料理とも言えるものであります。 当館は昨年からこの晩餐会をより愉しくするた

「鹿鳴館の夜」〜コンサートディナーの夕べ〜 案内と食器、メニューで見るレストランクレッセントの歴史(6)

日一日と秋深まり、爽やかな紅葉の季節となりました。クレッセントハウスの年中行事「鹿鳴館の夜会」も回を重ねて、今年は6回目を迎える事となりました。昨年迄のメニューは、明治時代の宴席の献立を基調とし、現代の嗜好に叶った料理を味わっていただこうと心がけました。 又、この会では毎回、北村維章とそのトリオが演奏いたしますが、今回は、19世紀ヨーロッパで流行致しましたコンサートディナーの様式を取り入れ、曲目の選定に意を用いて、前回以上に音楽もお楽しみ頂ける様、配慮致しました。 何卒、

クレッセントハウス、レストランのおもてなしの心に通じる骨董品たち(後)

いつの時代でもオリジナルなものが美しい。つまり、うんと古いものには、手をかけて、心を通わせて丹念に作り出された美しさがあり、うんと新しいものには、必要に応じて、型抜きをすること自体に美の要素があります。飛行機や、ライター等がそれです。だから、職人が手をかけた忠実なリプロダクションは良くても、流れ作業で量産されたものは粗末です。 クラシックな邸宅にクラシックな家具調度を置き、召使を数十人という生活は今は英国にもないのです。古き良きものだけがいいとは言えません。いま、若い人が洋

クレッセントハウス、レストランのおもてなしの心に通じる骨董品たち(前)

下記は、昭和50年に発行された「小さな蕾」2月号より引用しています。 石黒孝次郎が骨董品にかけた想いはそのまま、レストランクレッセント のおもてなしの空間につうじていることがわかります。置物、食器、人、か会話・・・全てが調和されてはじめて、ほんとうのおもてなしの空間が生まれる。そんな空間で生まれた人間関係は、その先もきっとかけがえのないものになる。 このnoteでは、レストランクレッセント の歴史を、古美術商としての側面と、レストランとしての側面とを両方まとめています。

港区議会にて、クレッセントのことが紹介されました。

10月6日の港区議会決算委員会の総括質問の中で、石渡ゆきこ先生が、クレッセントについてと、石黒孝次郎夫妻のことまで触れてくださいました。 42;00辺りから、地域の文化的風景を記憶に残すという内容で、104;00辺りから、それに対して荒井雅昭港区長が触れられています。 https://gikai2.city.minato.tokyo.jp/g07_Video_View.asp?SrchID=2527 どんどん失われていく文化的風景、風情のある風景を、形はなくなっても、記

古代美術商としてのクレッセントハウス 〜西洋古美術の魅力〜 <後編>

前編 中編 次に、このケースの中が今のペルセポリスなどにつながった時代で、こっちの半分にあるのがスキタイ芸術と言って、イランの北部から南ロシア、中国の北の方までにかけたいわゆる騎馬民族のものです。 これは西北イランのアゼルバイジャンから、この銅製打ち出しの動物が40個ばかり飾りに打ち付けられた大きな棺が出てきて、その棺の中に骨と一緒にこの首飾りが出土したのです。これは350瓦ある純金です。 Q じゃあ、王侯貴族のお棺ですね。 石黒 おそらくそうですね。それからあの下

古代美術商としてのクレッセントハウス 〜西洋古美術の魅力〜 <中編>

(前編) 後編 Q これは中国の古いものですね。 石黒 そうです。中国の隋だと思います。こういうメダリオン、貼り付け模様、これは完全にイランあたりの銅器の打ち出し模様を陶器で真似したものなんです。ですから、唐三彩なんかのこういう貼り付けもようといったものも、こういったものから発展しているし、そういうような意味で面白いですね。イランと中国との交流という意味でこのコレクションに入っているわけです。 ここにあるのは、ガラスのビーズなんですけれども、古代ガラスで、上の段が紀元