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日記は、どこか写真に似ている。

今、これを聴いて、この窓枠を眺めてる。

https://www.youtube.com/watch?v=bOIFr7Wr_iE

実家の窓枠_

この景色を眺める生活を1ヶ月半続けている。

実家でのこの生活を始めた時、最初は雨ばかりだった。やや

遅い梅雨明け。

幼少の頃、見ていた夏らしい空が今年も見れるようになってきて、嬉しい。

学生の頃。思うところがある度に、ここから見える景色を眺めていた。

青い空、入道雲、夏風に揺れる青々とした木の葉…—。

確か毎年、秋になると、葉は全部散っていた。


僕は小さい頃から、夏が好きだった。

何かが起こるような興奮、高揚感。

人生で初めて観始めたドラマが、"ウォーターボーイズ2" だった。

当時、あんな毎日を自分も送れるかも知れないと思っていたことを今も覚えています。

夏休み。当時、MDプレイヤーで、sum41 - in too deepを聴きながら、

友達と毎日のようにプールに通って、何か近いものを

味わおうとしていたような気がする。

だから夏の終わりは今もどこか、少し哀しい。


日記は、写真に似ている。

日記は文字で、写真はフィルムや画像で、動画は映像で、

形こそ違えど、それぞれのやり方で、思い出を残す。

思い出だけは、人の記憶が漏れなく勝手に美化してくれるから、

いいですよね。

僕は、旅行や幸せな体験を何日か前から楽しみに待つ時間と

それを経験した後に、その記憶を思い返したり、

今までの思い出の個数を数える時間が、

人生で一番幸福な時間だと信じて止まない。

あとは、美味しい食事と睡眠くらいのもの。

正直、性欲は後から思い返してみれば、一時的なもので、

思い出や他の二大欲求と比べたら、大したことはない。

幼少の頃から、何かを思い出や記録に残すことを好き好んでやっていた。

小学生の頃、電波の繋がらないガラケーを親からおさがりで貰った。

旅先で、弟と観光先に訪れる度に、その時の景色を映像におさめ、

日時・次に行く場所・感じたことを言葉にして、吹き込み合って、

数分の動画にしたためた。

当時、Vlogやyoutuberという文化が、なかった頃。

単純に、観光地に降り立った瞬間のあの高揚感、

楽しかった記憶を形に残したかった。

思い出の残す方法として、記憶はとても良いんだけど、

思い出せる景色の細かさ、話した言葉の一字一句、

テンションが上がって思わず出た声のトーン…

細部まで憶えておくことは、難しい。

その細かなディテールを思い出したくなった時に、

当時と出来るだけ同じ再現性で思い出したい。

それが出来るものとして、当時の僕が思い付いたのは、

たまたま、ボーダフォンのムービー機能だった。

我ながら子供の頃の僕の創意工夫は、大したものだと、

今思い返すと感じます。

今の僕にはその全てがない、

どこかで落として来てしまった。

旅行が終わった後、旅行気分を味わいたくなる度に、

その後、何年にも渡って、携帯電話の小さな画面を

弟とひしめき合って、覗き込み、

記録を見返しながら「この時は、こうだったよね」、

「そうそう、こんなことがあって、楽しかったよね」

と言い合う、変わった趣味を持っていた。

けど、それが楽しかった。

実家に大切にとっておいたそのガラケーは、

こないだ両親に聞いたところ、ちょうど今年の4月に捨ててしまったそうです。

今同じ場所に、また行って、同じ場所でiPhoneや一眼レフで

撮影し直すことなら出来ます。

でもあの頃、生まれて初めて、観光地に降り立った僕等の

興奮した声・熱気・その楽しそうな様。

それは、今どんなに楽しそうに声真似をして、動画におさめためとしても

あの頃の思い出の輪郭には、もう二度と触れらない。

残念でならない。

実家の窓枠_


この写真は、決して美しさが洗練された写真ではありません。

けど、半分掛かったカーテンも、映り込んだ内装も、余計な雑貨も、

窓ガラスの網々も込みで、僕の撮りたかった光景であり、

最も撮りたかった写真。僕の生活の時間の一部。

映える空を撮ったんじゃなく、僕の視点から見えるもの全てと

その時間を切り取りたかった。

綺麗に撮りたければ、余計なものをどければいいんだけどね。

何も飾らない。

綺麗な写真は、プロとインフルエンサーに任せよう。

この光景を僕の眼が眺める時、僕だけは、この視覚情報以外に、

自身の思い出が、乗る。

高校生くらいの頃から、そういう構図が、好きになり始めた。

皆さんにも、見る人によって、同じ街並み・景色・写真を眺めるにも、

周りの人の何倍も思い出深い感動が付与されているな、と

感じた機会が、あると思います。

この光景は、僕にとってのそれだ。


実家に戻って、この景色を眺めるのは、7年半振り。  

9月末まで実家にいる予定。

実家にいる期間は、計2ヶ月半程になるんじゃないか、と思います。

この2ヶ月半は、人生の夏休みでした。

まるで、短い夢を見ている様だった。

心の休息時間を、与えてもらえた気がします。

この時間がなかったら、僕は本当に、人生、這い上がって来れない状態に、

なってしまっていたような気がする。

心も、自分を取り巻く環境も、浄化してもらえた2ヶ月半だった。

7年半、大晦日と元旦含め、年末年始や国民の祝日も働き詰めでした。

心に、年々、自分でも見えないほど、細かな負の感情の塵が溜まっていって、

気付けば、荒んだ考え方しか出来なくなっていた。

それが、この2ヶ月半、仕事から離れて、新しく見えて来た価値観もありました。

だから僕には、もう要らない。

豪華な食事も、派手な遊びも、

モテる為なんてくだらない理由で揃える高価な洋服も、

余計な欲やTVやネットに擦り込まれた造られた価値観もすべて、

今は手放したい気持ち。  

周りと持ってるものを比べて、自分も欲しくなったりしてしまって。

他人の目が、そうさせるのか。 

本当は僕、これだけで充分なはずなのに。

本心では、もう要らないって思ってるのに。

これだけじゃダメですか?

その物欲は、僕が穏やかに生活する上で、どうしても必要不可欠で、

本当に、自分の中から溢れ出た物欲なのか。

それとも他人に触発されて「これを持っていることが、価値でなる」と

外部からのノイズに、定義付けられた価値観なのか。

本当に人生で必要なものは、本当はとても少ない。  

余計なものは、要らないはずなのに、物欲とか欲求とか、余計な雑念を

植え付けられているような気がして。

南青山に、女の子を迎えに走らせても恥ずかしくない

車高の低いスポーツカー?

自分じゃ何故それほど高額なのか、どの部分がどう恰好良いのか、

説明すら出来ないのに、なぜか欲しがる高価なブランドの洋服?

くだらない。


僕は平凡だけど、自分の家族や日々の生活の中で、会話をさせてもらえる周りの人々と「今日も暑いですね」と笑顔で会話を交わしたり、人の為に一生懸命仕事に打ち込める環境と最低限のご飯を食べられて、細やかな幸せを「幸せだなぁ」と感じられることさえできれば、慎ましく、穏やかな暮らしがしたい。

刺激は、20代でもう僕には十分だったよ。

正直、キャバクラも風俗も行ったことないし、

豪華なマンションに暮らしたこともないけど、

それって本当に、僕の人生に必要なんでしょうか。

人を殺す経験をしないまま、人生の幕を閉じる人だっているし、

別になにも、全てを経験して、人生の幕を閉じなきゃいけないわけじゃない。

知らないままの人生があったって、いい。


「驕った欲望はいらないから、それと同じような幸せさえつかめれば、それでいいのに」と苦しんでいる人がいるなら、僕はそういう人々を誰一人として見捨てない人間になりたいと思って、これを書いています。

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