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ものかきものがたり・7行め:「接近」

いつもと同じように、印刷工場でのアルバイトに出て。確か、季節は5月頃の週末。
夏と冬の繁忙期の端境で、大きな仕事は宗教のそれだけ。暇ではないが、余裕のある工場で。いつものように、倉庫から搬出した紙を積み上げ、宗教の事務所に納入する封筒を箱詰めしていた青年のもとに、
「菅沼くん、ちょっと配達を頼むよ。君は、初めてのところになるけど――」
印刷工場の受付をしていた社員に呼ばれた青年は、小口注文を配達するための窓口で……ひとつの、小ぶりな梱包と、手書きの地図を渡された。
「自転車で行けるかな。阿佐ヶ谷の方なんだけどね。夕方、5時に来てくれって言われててねえ」
「わかりました。……? 1000枚もないですね。それに……なんすか、この紙のサイズ?」
青年に渡されたその梱包には、発注主の姓名が書かれ、そして……中身のサンプルが貼り付けられていた。

「A4より少し大きいだろ。菊倍っていう、楽譜専用のサイズだよ」
「楽譜? ああ、本当だ。サンプル。……何処かの音楽教室か何かですか?」
私の問いに、受付の社員は……隠す気のない、うんざりした、嘲るような顔と声で。
「大先生、らしいよ。ギョーカイのさあ。作曲家の先生。……だけどねえ、小口注文ばっかりのくせに、やれ線がかすれてる、やれ記号が見えないとか。時間通りに配達しても、自分の狂ってる腕時計の盤見せつけてさあ。時計自慢しながら、配達遅れてるとかごちゃごちゃ、うっせーんだよねえ。その先生」
「ああ、そういうお客の」
「毎回、急ぎの仕事だってねじ込んできて。楽譜がなくて仕事が止まったらどうするんだって、もうね。ごちゃごちゃ言われたら、無視して帰っていいよ」

……はあ、なるほど。
と。面倒な配達仕事を押し付けられたアルバイトの青年は。その梱包と地図を受け取って。
……面倒な相手なら、中野に住んでいた頃。あのバックレた違法ポーカーの喫茶でも、そのあとの倉庫日雇いでも相手にするのが慣れっこになっていた青年は、とくに深くも、難しくも考えず。
夕方5時の配達なら、その日はそのまま直帰になる。
工場の業務を続けた青年は、そして。夕方の4時過ぎ、配達する楽譜の梱包を自転車の荷台にくくりつけ、阿佐ヶ谷方面へ。夕暮れの渋滞、混雑をくぐり抜け――初めて立ち入る住宅街、その奥へ。古い家屋が塀を並べる地区へ。
……印刷物の配達で、こういう場所は珍しかった。
そして、地図にあったその配達先は……塀のある古い家屋、お屋敷、と言ってしまってもいい建物だった。
到着したのは、5時少し前だった。青年は、聞かされていたその顧客の情報を頭に……門戸にあった呼び鈴を押した。

そこで……青年は、配達する楽譜の梱包を手に、その敷地へ。屋敷の中、玄関へ。
エントランス、といった趣のその玄関で私を待っていたのは――

「きみのところは、いつも配達が遅れるねえ。ぼくの業界じゃありえないよ。まったく」

……と。開口一番、ぐちぐちと。自分の高級腕時計を見ながら青年を睨めつけたその依頼主は。
……後ろになでつけた髪に白いものが混じった、中肉中背、小太りの初老の紳士。
……作曲家の先生。口やかましい、神経質な業界人。そして――

これは、青年にとって運命の出会いの一つとなった。

だが。その時の青年に、それがわかるはずもなく。そして気にするわけもなく。
青年はただ……。
受付の社員から言われていた、厄介客の前から早く立ち去りたい、早く仕事上がりで飯食いたい、どこか遊びに行きたいと――注文の楽譜の梱包を、洋風の玄関の上がりかまちに相当する場所に置きながら押し黙っていた。印刷料金は、伝票だけ渡して後日、別の担当が回収するので青年には無関係だった。
無言で梱包をおいて、伝票を差し出した青年に……その紳士は。

「君は、新しく入ったアルバイトの子かね」
「……。もう1年くらい、印刷で働いてます。ここが、今日初めてで」

伝票を受け取った紳士は、さっきの小言とは別の口調で。なにか楽しそうな、世間話でもするような口調で青年に話しかけてきていた。
だが、青年の方は……。ああ、長話とかするタイプのおっさんかな、と――この紳士に貼った、やっかい客の印象をそのままにそっけなく答えていた。

「まあ。今日は時間通りのほうだよ、このあいだ楽譜を持ってきた爺は1時間遅れで詫びもなかったよ」
「……すみません」
「きみ、腕時計は持ってないのかね。どうやって配達を間に合わせるんだい?」
「……駅とかの。時計を見られますし。自転車なんで、少し早めに出ればたいてい間に合います」

ふうむ。と。
東京都内で、お屋敷のような家に住んでいる作曲家、だというその紳士は。
紙を運ぶ小汚いアルバイトの青年をなじるでもなく、小馬鹿にするでもなく。そして青年の差し出した伝票を受け取っても、なお……青年を帰らせるでもなく、その場で。どこか、愉快そうに。

「月末の集金も、君がするのかね」
「いえ、それは社員の人がまた、来ますから――」
「ふうん。……君、東京の子じゃあ、ないね。どこの出身だい」

……いきなり。初めてあった人物に、客とはいえ初見の……しかも、厄介客と聞かされていたその初老の紳士に聞かれて――青年は、警戒と言うか、少しイラッとしながらも。

「……三河、愛知のほうです」
「ふうむ。こっちに出てきて何年くらいかね、きみは」
「……そろそろ二年です。……もう、行っていいですか」
「ああ、忙しいのかい。それは失敬。……そうか、じゃあ二十歳くらいか、きみは」
「…………。それくらいです―― 失礼します」

青年は、いかにもお屋敷の主として振る舞い愉快そうな笑みを浮かべる紳士に苛立ちすら感じて。雑にお辞儀だけして、玄関から出ていこうとした。
そこに、

「君は、なんというか。気持ちの良い青年だね――」

その紳士は、やはり笑いながら……言って。
意味がわからないままの青年は、それに何も応えずに……玄関から外へ、屋敷の外へ。暗くなりつある東京の街並みへと、逃げ出すように出て。
東京に屋敷を構えて暮らしている業界人、作曲家の先生様が……小汚いバイトの若造相手になぜあんなに楽しそうだったか、なぜいろいろ聞いてきたのか――青年は、わけがわからないまま。
だが。
アルバイトと、東京の空虚な娯楽に没頭し、失ってしまった夢と希望を、絶望しかない自分を見ないふりをし続けていた青年にとっては――その紳士との出会いも、会話も。
よくある、面倒な厄介客、でしかなく……その夕暮れのことも、すぐに忘れてしまって……いた。

だが――
翌週の週末、金曜日に。工場で、裁断された同人誌を箱詰めしていた青年は、受付の社員に呼び出されて。

「先週さあ、作曲家の先生のとこに楽譜、届けたのって……菅沼くんだったか」
「……はい。自分が、届けましたが。……なにか、ミスでもありましたか」
「いや。その先生がさあ、また楽譜、注文してきたんだけど。届けるのを、同じ人間にしてくれって注文してきてさあ。菅沼くん、悪いけど配達、出てくれるかい。……その先生、ごねると電話が長くてさあ」
――正直、青年は先週のことを。あの先生のことを忘れていた。
「ええ、梱包終わったら、自分が出ます。配達するものは……」
受付の人が出してきたのは、二百枚の小ぶりな梱包、一つだけだった。その梱包の上にも、サンプルの楽譜が貼り付けられて、いて。
「また、楽譜ですね。……今度のは小さいですね、B5ですか」
「いろいろあるらしいよ、業界にはさあ。センセイ、また5時にお届け希望だから。菅沼くん、それ届けたら直帰でいいよ」
……直帰だと、いつもより早上がりできるし配達用の自転車で帰ってもいいので楽だった。
青年は、自分が指名されたことについて深く考えず――
箱詰めの仕事を済ますと、その梱包と伝票を預かって夕暮れの市街へと配達に出た。

二度目の配達では道に迷うこともなく。作曲家のお屋敷には、夕方5時の5分ほど前について。

「君だと、配達が遅れなくていいねえ。ああ、その楽譜はそこに置いてくれたまえ」

相変わらず、その初老の紳士は。作曲家の先生は、どこか愉快そうで――聞かされていた厄介客のイメージとだいぶ違うその紳士を前に、青年は。届けた楽譜の梱包を、前回のときと同じ、玄関の上がりに……。
……? そこには――先週、青年が届けた菊倍の楽譜の梱包が、そのままに置かれていた。急ぎの仕事でねじ込まれたはずの楽譜は、梱包もそのままで使われた形跡もなく……不審に思いながらも、青年は配達してきた小ぶりな楽譜の梱包を、その横に置き――
……そして。釣られた、というべきだろうか。つい、楽譜に目を向けたまま青年は声を。
……畑違いではあるが、業界人の。作曲家の先生――抱えた絶望から目を背けることしかできていない青年からすれば、雲の上の人物――に、青年は尋ねてしまっていた。

「今度の楽譜、小さいですね。B5ですよね、前回のは菊倍で――」
「ふうむ。覚えていたかね、そう。前回のは菊倍、ピアノの作曲とかで使うんだ。今度のはね、フェアリー社とかが出しているサイズで、ギターの楽譜は大抵これなんだよ」
「……。楽器で、使う楽譜が違うんですか。……へえ、すごいな」
「オーケストラとか、ピアノだと演奏者の前に大きい楽譜を置けるだろう。ギターだと、ねえ。合唱につかうスコアだともっと横に長いんだ」
「……そうなんですか。俺、音楽とかさっぱりわからなくて」
「――君、中部の出身だったね。東京は、何をしにきたんだい」

……別世界の、星や月の裏側のような世界、音楽の世界から、いきなり現実に――いくら目を背けても、重く、冷たく、暗くのしかかってくる絶望に、不意に顔を向けさせられた青年は。

「……とくに、なにも――」
「アルバイトするために、トヨタ自動車のある三河から上京する若者なんてめずらしいねえ。……何かを目指して、印刷で働いているのかい」

……正直、イラッとして。
……だが、喧嘩腰になったり嘲罵を返したりするだけの気力は、絶望を覗き込んでしまった青年には無く。黙っていたり、嘘を言ったりする知恵すら無いままの青年は。
……その紳士に。
……赤の他人。そして自分とは住む世界の違う業界人、そして富豪と言っていいレベルの資産家であろう、その紳士に――自分の恥を、絶望を。……力なく。声にしていた。

「……物書きに。作家に、なりたくって」
「ほう、文筆のほうかい。ふうむ」
「……アニメを、作ってみたくって。でも、学校に行ってもなんにもならなくって、アニメ業界の働き口なんて無くて。作家になんて、なれっこなくって。…………それが、どうかしましたか」
「作家になれない? どうしてだい」
「……俺、大学も行ってないですし。こんなバイトで食ってるだけですし」
「ん? 作家になるのに学歴? まあ、そういう界隈もあるだろうけど――僕の知り合いに、小卒の作家がいるよ。まあ、僕は慶応だけど」
「……。俺の好きな開高健も、野坂昭如も安岡章太郎も、みんな大学に……」
「そういうのが好きなんだね、君は。まあ、学歴はあっても困らないだろうが――きみ、赤川次郎君、知ってるだろう。超売れっ子の。彼は桐朋の高卒だよ」
「……!! そう、なんですか――知らなかった」
「ふふふ。まあ、若いうちはね。あきらめて絶望するスタイル、それに酔うことって多いね。僕もそうだったからわかるよ。きみ、名前は……何ていうのか、教えてもらってもいいかね」
「……菅沼、です。草かんむりのほうの」
「スガヌマくんか。きみは気持ちの良い若者だね、面白い。ああ、僕はねえ――」

作曲家の紳士は、面白そうに青年の名前を呼んだあと。青年は、配達でもう知ってはいたが――紳士は、自分の姓も名乗って。

「きみ、小説を書いて――何かの賞に公募したりはしているのかい」
「賞……? って?」
「芥川賞とか、聞いたことあるだろう。そんな大手以外にも、たくさんあるんだよ。その様子だと、どこにも応募していない、そしてまだ自分の作品をものにしていないな、きみは――」

……ぐうの音も出ない、とはまさに――
青年は、紳士から知らなかった世界のことを聞かされ、羞恥を掻き立てられつつも。

「その賞に応募すると……賞を取れたら、なれるんですか、作家に??」
「絶対、じゃないけどね。道の一つであるのは間違いない。大賞をとれなくても、編集の目に留まって……そこから何作も書いて、やっとデビューする作家もいる」
「……その賞って、どこで――」
「本屋に、新潮とか読物とかの、小説の月刊誌が置いてあるのを見たことがないかね。あれを買ったことがない? そこに賞の公募が乗るんだよ」
「……しらなかった……です。……そうすれば、小説家に――」
「ああ。もちろん、しっかりした作品があって。それが評価されての話だがね」
「…………」

再び、絶望が青年の首の根を捕まえて自分のほうに向けさせる。……が。
その絶望の黒い顔には、今まで気づかなかった、知らなかった、閃光じみた煌めきが差していて――

「菅沼くんは、小説より、アニメのほうがやりたいのかね」
「……はい。アニメの学校に通うために上京して。でも何にもならなくって……」
「そっちは、僕も門外漢だが――TV業界なら……。おっと――」

作曲家の先生は、何かに気づいたようなそぶりで――高級そうな腕時計を見て、その盤面を青年に見せて。やはり、楽しそうに笑みを見せて。

「きみと話していたら、もうこんな時間だ。菅沼くん、工場に戻らないとまずいかね」
「……いえ、今日は俺。配達済ませたら直帰なんで」
「ふうむ。だったら……何処かで、食事でもしないかね。きみ、菅沼くんは何が好きかね」
「……牛丼とか―― あ、でも、俺。給料日前で、かね、もってなくって」
「ははは。僕が奢るにきまっているだろう。牛丼か。どうだい、肉でも食いに行かないか」

……奢り。肉。
久々に聞くそのワードに、夕食がまだの青年の胃袋と、唾液腺は……ほぼ初対面に等しい男からの申し出に、警戒はしていても……反応を止められず。

「……俺、先生が行くような店とか無理ですよ。こんなンですし――」

工場から、出たままの。薄汚れたシャツに、インクじみのジーンズ、ボロボロのズック靴。食欲に、怖気が勝った青年が自分の身形なりを先生に見せると。
だが、先生は愉快そうな顔、声のまま。

「待っていたまえ。ズボンは仕方ないが、僕の上着と靴を貸してあげよう」
「靴? 服だけじゃ駄目なんですか」
「靴は男の顔だよ。高級たかいだけじゃ駄目だね、場にあっているか、手入れがされているか。趣味はどうか。真っ先に見られる」

先生は、玄関からひどく長く見える、暗い廊下の奥へ――しばらくたってから、一着の上着を持って戻り、靴箱から黒い、スエードの革靴も出して。

「僕が痩せていた頃の上着だから、服はいいだろう。ああ、ボタンは留めなくていい。きみ、靴のサイズは? 26、それなら大丈夫。これを履きたまえよ。……よし、いい男ぶりだ。じゃ、行こうか。」

ひどく楽しそうな先生に、ジーンズに合わせた紺色の麻の上着を着せてもらい、靴を履き替えて……青年は、もう暗くなっている街に、東京の夜へと――連れ出されていた。

「きみ、菅沼くんは。ステーキと焼き肉、どっちが好きだい」
「……俺、ステーキとか食ったこと無いです。漫画で見たことしか無い」
「じゃあ、きまりだ。経験は、どんな栄養よりも大切だ」

青年を連れた先生は、通りに出ると――
慣れた手つきで、タクシーを停めて青年とともに乗り込んだ。
「新宿。野村ビルの乗り場まで」
……青年は、東京でタクシーに乗るのが初めてで。
……借り物の上着と靴で。
……全く、知らなかった世界へと、見ず知らずの男に連れられて――

青年は、運命の出会いの中に自分がいることにすら気付けないまま。
この世界でも稀有な『純粋なる善意』にくるまれたまま。
暗く、冷たく、重い絶望に顔を向き合わされて、なお。
餌を与えられて鳴き、口を開けるひな鳥のように……上を、向かされていた。


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