丁寧なタッチやハンドリング、勘違いしてませんか?
タッチと言えば、もうかの有名な双子の野球漫画しか思い浮かばない。ちなみに僕はあの双子の区別がつかないくらいしか見たことはない。
私の奥さんは下に双子妹がいる。結婚10年目にしてようやく見分けがついてきた。
もちろん双子の義妹は10年で見分けがつきやすく顔立ちが変化した訳ではない。
多少の年齢の増加と体重の増減はあるだろうが、まぁ同じだ。
ではなぜ見分けがついてきたのだろうか?
それは、双子の違うポイントに気づけるようになったからだ。
患者に触れ、介入するためのタッチやハンドリングも同じことが言える。
触診なんて分かりやすい例だろう。
大腿四頭筋なんて赤ん坊の頃からあった。
自分の太ももなんて飽きるほど見たり触ったり、動かしているし、
高校時代には同級生女子の太ももを飽きるほど触ったり
したいという欲求を抑える毎日でしかなかっただろう。
きっと思春期の男児は。
僕は違うけど。
筋肉はずっと太ももはそこにあった。小学生の時には名前も知らない大腿四頭筋もずっとそこにあった。
気づいた時に初めて
太ももの中から大腿四頭筋の存在が生まれる。
私は大腿四頭筋という名前は中学の時に筋トレをする際に初めて気づいた。スクワットをしてる時だ。
カチカチになって盛り上がってるアイツに。
大腿四頭筋という名前はちゃんと知らなかったように思う。ただアイツがいる辺りに力を込めると、いつもアイツはカチカチになってくれた。
初めはカチカチになって盛り上げるアイツを見たり触ったりして楽しんでた。
次第に見なくとも意識を込めればいつでもアソコはカチカチになり、スクワットやジャンプをする際にいつも助けてくれた。
ボディイメージや運動イメージはそうゆうものだと思う。
別に動き、使うためには正式名称なんて要らないのだ。太ももの前にあるカチカチになるアイツ、で十分役目は果たしてくれる。言語はあとづけでしかないし、そもそも身体感覚としてのカチカチやアソコが存在しなければ、名前をつけるはずの場所の存在すらないのだ。
洗練、細分化とは
何かに境界や意味づけを作ることで生まれる。
何かと何かの間の違い、境界を明確にすることで初めてその境界から作られる新たな何かの存在が生まれるということだ。
太ももを太ももとしてしか触ろうとしない限り、それは太もものままである。
そこに様々な筋肉や筋膜のつながり、といった視点が加わって初めて筋肉の集合体としての太ももが生み出される。
先日のデモセミナーで、脳卒中の当事者の方へ参加したセラピストに介入してもらった。
私の担当しているAさんは、ほとんどの参加者のタッチに対して、
「弱すぎます」
と言っていた。
もちろん、Aさんが極度に痛みに強かったり、痛いほど押してくれなきゃ嫌★みたいなアブノーマルな方ではなく、やる気のあるセラピストがいるのならどんどん協力して、脳卒中に立ち向かえるセラピストが増えて欲しい!を願っている方だということは付け加えておくこととする。
私もセラピスト1年目の時に、先輩から患者さんの身体の触れ方、持ち方を教えてもらったことがある。
その時、先輩の教えを忠実に守り(自分の思い上がり、かつ見た目を真似しただけ)、介入したにも関わらず、先輩のような変化が出ず、
「ちくしょぉぉぉぉぉぉおおおお、あやつ(注意:先輩です)め。嘘を教えおったなーーーーーぁぁぁ!!!いつもあやつが仕事で履いている靴にセラプラスト(指の訓練に使う、粘土的なもの)を指先に詰め込んで27cmの靴を25.5cmにしてやるぞぉぉぉぉ」
と、デーモン小松が囁いた案を却下して、
冷静に何が違うのか試行錯誤し続けた。
んでなんやかんやあって、今はそれなりにハンドリングで相手の変化を出せるようになってきた。
そんな中で気づいたことを書いておこうと思う。
丁寧 = 弱い、優しくゆっくり、ということではない。
みんな、ソフトタッチ過ぎる。ソフトタッチが悪いという訳ではない。Aさんにとってはそのタッチは「弱い」という感じしか経験できないことが問題だ。
そこに「太ももがある感じがする」「そこがあるとしっかりする」といった身体や動作を感じ取るための手がかりになっていないことが問題だ。
立ち、歩くために必要な感覚をセラピストのタッチで提供できていないことになる。じゃあそのタッチは要らないどころか、「弱い」と感じさせるという無駄な情報を入れることになり、本来必要な情報へとより注意を向けにくくさせているという可能性すらある。
丁寧とはソフトタッチのことではない。確かにソフトな方が優しい気がするし、温かみがある。見かけ上は。
しかし上記のようにそれが患者さんにとって、何の価値もなく、むしろ邪魔な情報だけ入れているのであればそれは違うと私は思っている。
私たちのタッチやハンドリングは、患者さんをより良い方向へと導くことが目的のはずだ。
その目的が叶い、患者さんの喜ぶべき方向へと導けるなら強かろうと、指先で秘孔を押すようにして触ろうと、もしくは表面を擦るだけであろうと、良い。
患者さんに良い反応が何ら出ないソフト過ぎるタッチよりはよほど良い。
ハンドリングという言葉に馴染みのない方に私なりのハンドリングを説明します。
ハンドリング (handling)とは
私はハンドリングを
手(というよりは自分の身体全体を使うけど)を用いて、患者さんの身体認識や動作を変えるための手がかりを提供する
ことだと考えている。
ウィキペディア先生によると
処理、運用、取り扱い。
ハンドル (ステアリング)の操作。
のことらしい。
私のニュアンスでは「操作」が1番近い。
しかし患者さんを支配するというよりは
セラピストの手を介して、
患者さんに身体の認識や
動作パターンを変化するために
必要な「(感覚)情報を操作」している
というイメージ。
これが私の考えるハンドリングの定義だ。ちなみに私はタッチもハンドリングと説明することが多い。
別に用語は何でも良いと思っている。
もちろん、雑に持っても良いよ(^o^)、ということではない
丁寧=ソフト、弱い
ではない。
じゃあ雑だったり、力任せにやれば良いのか?と思う人もいるかもしれないが、もちろんそうではない。
「痛い」ことで身体を認識する場合もあるが、痛みはあくまでもネガティブな側面を持っていることを理解しておくべきだし、そもそも何の痛みかを評価し、害のあるものであってはいけない。
患者さんが変化を実感できるために必要な情報を提供でき、かつ最終的には患者さん自身でその情報を拾い上げることを定着できなければいけない。
だから援助が足らなくても、多すぎてもいけない。
できることは助けない
足りない部分は足りない分だけ提供する。
この塩梅を常に探り、感じ取りながら提供し続けられることが大事だと思う。
筋肉を分けて触ること
筋膜のつながりを感じながら触ること
自分の影響を与えている組織を感じながら触ること
自分の与えている刺激は何なのかを考えながら触ること
その時に患者さんはどう認識し、身体反応として現れているかを見逃さないこと
こういったことが大事だと思う。
優しいだけじゃダメなんです。
優しさに惹かれて付き合った彼氏を、数ヶ月で「頼りない」とか言って別れちゃうじゃないですか。
優しく見えるだけの優しさは、患者さんを幸せにはしません。
達人のハンドリングが丁寧で繊細なのは、
何を触っているのか、
どんな情報を提供しているのか、
という要素が細分化している結果だと思う。
見かけ上は丁寧でも、太ももを太ももとしてしか見ていない限りはただのソフトタッチでしかない。
あなたはまだ太ももに介入しているんですか?
太ももを触れる、ということを入り口に何に介入しているんですか?
終わり。