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性の境界線とは

「自分が男だったら」と思うときがある。
別に今のこの姿かたちも嫌いじゃないし、むしろ好きだけど
定期的にこの感覚に苛まれる。

「男」になりたいわけではなくて
「女」という固定したものを求められることが嫌だ。

男だろうが女だろうが
どちらも同じ痛みがあるよね、と思うのだけれど
せっかくなので私が思うことをまとめてみた。

◆性に対する違和感のはじまり

「女のくせに」

そう近所のおじさんが母に言っていたことを聞いて
とても不快な想いをしたことを覚えている。

何に対してなのか、幼い私に具体的なことは分からなかったのだが、
当時の田舎としては珍しく、産後すぐに職場復帰するくらい
しっかり働いていた母に対しての言葉だったのではないか思う。

―どうやら、「男」と「女」は違うみたい。

性別によって、やっていいことと悪いことがある、といった
そんなイメージが私の中にこびりついた。

そんな経験があり女性の方が立場が弱いと思ったのからなのか、
幼少期の私は、「男の子」に憧れていた。

自分が男の子だったらなあと何度も夢想したし、
一人称が「僕」の期間もあった。

だが成長するにつれ、「女」であることを嫌でも意識するようになる。
自分の身体の変化もさることながら、一番気になったのは目線だった。
自身が性の対象と見られる立場になることを知り、なんとも言えない嫌悪感があった。

まず「女」であることを求められるような感覚。
わけもわからない本能的欲求のはけ口になるような
その感覚が漠然と怖かった。

◆まず性別を見られている感覚


性別というものは根深いアイデンティティで
自分の名前より先立っているのでは?と思うほど。

「塩田みかりという人間である」と思われるよりも前に
「この人は女である」と決めつけられているような感覚。

『この人は女性である、という認識以前に
 ただ人間である私を見てほしい』

人間は視覚情報が優位だし、姿かたちから判断されるのはしょうがない。
それでも、ずっと違和感があった。

自分が女であることで怖い想いをしたこともあるし
そんなつもりじゃなかったのに、と思うこともがあると
なんとも言えない罪悪感があったり。

こんな女性の姿かたちじゃなかったら違ったのだろうか?などと
ずっとどこかで思ってしまっていた。

「ただの私の心と出会って、関係を築いてほしい。」
そんなことを願いながらも言葉にすることはなく、
私自身が壁をつくってしまって
勝手に相手に期待して、勝手に裏切られたように感じていた。

◆求められる性

女であることを一番に求められたらどうしよう。

誤解されるのが怖くて
自分の思っていることを素直に相手に伝えることができない。

ただでさえ人と人とのコミュニケーションはズレるのに、
男女というだけで更に壁をつくらなければいけないと思うようになった。

そうやって力が入れば入るほど
私自信が男女の境界線を意識し、決めつけが強くなっていく。

「男の人はこうに違いない」
「どうせこう思って接しているに違いない」

そんなふうにパッと目で見た瞬間に決めつけて
性別で相手をジャッジする。

自分がされて嫌だったことを
私自身がやってしまっていることに気付いて
さらにどうしたらいいのか分からなくなっていった。

ただ単純に、目の前の人を大切にして愛したいだけのはずなのに。
なんでこんなにシンプルなことがこんなにも難しいのだろう。

私こそ性という境界線に囚われてがんじがらめになっていた。

◆境界線がないところから

本当にたまたまなのだけれど、
私は10年以上前からトランスジェンダーの方などLGBTの知人・友人が多かった。

そんなこともあって「性ってなんなのだろう?」と考えさせられていたなかで
令和哲学に出会い、性の境界線のイメージが変わっていった。

境界線がない世界から観たら、性の境界線自体も人間が決めた概念にすぎず、
本来は「男」「女」というふたつに分けられるものではなく
グレーなものだということ。

私がそれまで感じていた違和感は、
性を二文法的に分けられていたことだと気付けたのだ。

【1人ひとり性別が違う】

本来は性はカテゴライズされるものではなく、
個性と同じように1人ひとり違っていて
自分で性を決められるということ。

そんな概念を取り入れられるようになって
自分がつくっていた「女であることへの抑圧」から解放されるようになり、私はとても楽になった。


現実世界は相対世界で、人間の脳は相対のものしか理解できない。
でも本来は性を決めつけることはできないから、その矛盾に苦しんでいる人は多いと思う。

「どっちなの?」
と聞かれても困ったり、
「どっちか選択しなきゃいけないの?」
と悩んでいる人は増えてきているように思う。

でも、大丈夫。
本当に境界線が一切ない心そのものから観たら、あらゆるものは自由に自分で規定することができる。
好きなように彩っていいし、決めつけても決めつけなくてもどっちでもいいし、
本当に自由だから。

◆変化した関係性

望む関係性を結べなかったのはガチガチになっていた私がいたからであって
自分の在り方が変わったら、関係性は変えられる。

そのことが分かり、
自分自身も性別以前にその人の心とちゃんと向き合って観れるようになった。

もちろん性別はその人の重要な個性のひとつだから
無視することはできないのだけれど、
性別も相手を構成する要素のひとつだということが、腹落ちしたというか。

性別をまず気にしてしまっていたところから、
相手がどんな判断基準を持っていて
どんな観点で物事を認識していて
どんな世界を観ているのか、といった
そういうことを重要視するようになった。

そんな自分の認識になったことが本当に嬉しい。
純粋に目の前の人を愛してもいいんだなあ、という感覚。

まず性別ありきで人を見ているときはどこかずっと怖かった。
相手に好かれても困るし、かといって好かれないのも嫌だし、
ちょうどよい距離を築くことに注力していた。

そのことを手放せて
性別とか年齢とか立場も関係なく
大事だなあ、好きだなあ、すてきだなあって思う人がたくさんできた。

だいぶひねくれた表現スタイルの私だったけれど
以前より自分の愛情をストレートに伝えられるようになってきて、
表現しても大丈夫という安心の経験を蓄積していく中で

ものすごく、力が抜けた。

…とはいえ、まだまだ反射的に壁をつくってしまうことはよくあるし
これとは未だに向き合っているところがあるのだけれど、
それでも、そういう関係性が1人ひとりと広げられていることが本当に幸せだなと思う。

最近は、「この身体のアバターも楽しむかー」という感覚で、
ゆるりと性別のこともひとつの個性として楽しめるようになっている。

***

終わりに、ちょっと紹介。

特に、私はトランスジェンダーの荒牧明楽さん(あっきー)の話を聞いて性の概念のイメージが変わりました。
どの動画をシェアしたらいいか迷う‥

もし性で悩んでいる方がいたら、一度彼と出会ってほしい。
とても柔らかくて熱い想いがある素敵な仲間です。

ちなみに、NR出版で本も出されているので、
良ければぜひこちらもチェックしてみてください。


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