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齢八十八、指揮者にないもの

 身を包む空気には、風もなく、濁りもなく、熱もなく、湿気もなく。
 無駄なもののない空間だ。
 壁越しに耳に入ってくるのは一定の振動数を保つ長い弦の音、遊び吹かれる木管の音階、弾むような金管の鼓笛。それらが雑多に入り混じる、「まだ」混沌状態のものたち。

「マエストロ、そろそろです」

 瞼を開ける。
 私の前の鏡には、顔に深い皺が刻まれた老人が一人座って映っている。同じく皺だらけの手が、台の上に置かれたスコアと、細くまっすぐな棒を取る。

 膝に力を入れて立ち上がる。今年八十八年目になるこの体は、日に日に重くなるにつれ、いうことを聞かないことも増える。
 それでも地に着く杖の代わりにこの棒を宙に振れば、私の背筋は伸び、自らと共に他を統べる。

 これから私は混沌を、秩序ある統一体ひとつにしに行く。

 指揮者には「無い」ものがいくつかある。

 一つは定年。
 一定の年齢を境に指揮者業を辞める指揮者はいなかろう。そして指揮者は大抵、長生きだ。全身運動をしているからだろうか。歴史に名を残した指揮者たちを見ても長寿が多い。トスカニーニ八十九歳、カザルス九十六歳、朝比奈隆九十三歳、サヴァリッシュ八十九歳、ヴィンシャーマン一〇〇歳、その他大勢、八十代から百歳越えまでどれだけの数がいるか。またいま挙げた彼らだけでも国籍問わず長生きなのがわかるだろう。

 そして多くの指揮者が亡くなる間際まで指揮台に立っているという事実だ。

 ニコラウス・アーノンクールが享年八十八歳で息を引き取った時は、ちょうどベートーヴェンの交響曲全曲演奏会のシリーズが予定されていた最中だった。その演奏会シリーズの途中で引退を決意したのが実年齢八十六歳の誕生日前日。なんの偶然か、アーノンクールの得意とするモーツァルトの命日、十二月五日のことだ。その後間も無く、翌三月に没する。
 実年齢で言えばクルト・マズアも八十八歳で逝った。おっとネルロ・サンティもか。いずれも老いてなお魂を揺さぶる音楽を作り出す。コンサートを聞く予定だったアバドの急逝はショックが大きかったな。

 二つ目は国境。
 いや、あるという意見もなくは無いかもしれない。悲しいことに政治的な理由である国で演奏活動を制限される音楽家がいるのも確かだ。
 しかし多くの場合は国を跨ぎ、海を越え、世界中で指揮棒を振る。
 所属オーケストラだけではなく客演を務め、優れた指揮者に送られる賞もどこの国かを問わない。国籍はあるが、音楽という世界での国籍はないと言ってしまいたくなる。振る音楽だって得手不得手はあれど、基本的に一つの国の作曲家だけを振る指揮者はいまいし、それでは指揮者業などやっていられまい。
 これは昔も然りだ。ハイドンを見よ。イギリスへ赴きオックスフォード大学博士号を授与された。ドヴォルジャークを見よ。アメリカに渡りナショナル音楽院の長に就任せし。

 楽屋から出て廊下を抜け、階段を上がる。前方の扉が開けられた。舞台袖は薄暗い。人が動く気配がし、にわかに拍手の音が巻き起こる。

 三つ目は。

 空気を貫くオーボエのA音。針の如く乱れぬヴァイオリンが同調する。混沌が次第にまとまり、ひとつの大きな太いうねりへ、

 三つ目は、不和。

 オーケストラを統べるには、不和をなくすのが指揮者の役目だ。
 優れた音楽家、指揮も行ったヨーゼフ・ハイドンも、あのフランス革命の最中にそれをやってのけた。

 ナポレオン戦争真っ只中、ハイドンは没した。一七三二年に生まれ一八〇九年に没する。やはりこの時代にしては長寿ではなかろうか、七十七歳翁よ。フランス軍が攻め入った最中のウィーンだ。
 だが、ハイドンが弱った身体でいる時、ナポレオンその人がハイドンの家が攻撃を受けぬよう命じたという。老作曲家の最後の訪問者はフランス軍の士官だ。
 その死を悼んだのはオーストリアだけではない。死後の追悼式には占領軍だったフランス軍の兵までもが集った。敵対していたウィーンの市民とフランス軍が共に、巨匠を偲んだのである。

 ハイドン七十七、私は八十八になる。

 おお、フィレンツェ五月音楽祭ももう少しで八十八歳とは! イタリア最古の音楽祭、ヨーロッパの三大音楽祭のひとつだ。レパートリー広く取り上げ、新進気鋭の人材も採用する。未来を暗く塞ぐ火とは真逆だ。未来を開くような、限界の「無い」音楽祭と言えるかもしれない。
 
 そうだ、八十八といえば。ピアノの鍵盤は八十八鍵。ピアノを操る名指揮者も多いが、ピアノは一台でオーケストラだな。

 会場が全てひとつになるために、皆が私を待つ、舞台上に行こう。

 銃もない。剣もない。年老いた肉体には若者のような力もない。

 私が持つのはこの指揮棒タクトひとつだ。
 だが、それでも私は、一つにできる。

 音楽と皆のおかげで、争いなど介さず、ひとつになれる。

 ***Einsatz平和 fürのために Friede演奏開始***

 願いを込めて。

 以下を参考にしました。

 「フィレンツェ歌劇場 2006年日本公演」NBS財団法人日本舞台芸術振興会
 https://www.nbs.or.jp/stages/0609_firenze/opera.html

 「訃報新聞」
 https://fuhou-shinbun.com/job.html?career=conductor

 Interlude, Composers Anecdote
“Behind the Curtain Haydn’s Funeral Music”
 https://interlude.hk/behind-the-curtain-haydn-funeral-music/

「フィレンツェ発 〓 5月音楽祭が2023年の公演ラインナップを発表、ズービン・メータを前面に」月刊音楽祭 https://m-festival.biz/35579

 (他にも典拠はありますが、Webで読めるものを挙げておきます)
 Einsatzには「出撃」の意味もあります。2022年のあの日以来、強く願います。進むなら、平和に向かって。


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