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曇り空の下で、熱いフォカッチャを

『海外留学』と聞くと、充実した素晴らしい思い出のできるキラキラしたイメージを思い浮かべるのかもしれない。
 ことに行き先が観光名所も多いヨーロッパとなれば、学業以外の文化歴史に触れ、友人たちと日本では不可能な現地ならではの余暇を楽しみ、第二の故郷とも呼べる場所を得て帰ってくる——少なくとも、巷にある留学プログラム紹介や体験者の声にはそういうものが多いのではないだろうか。広報にある写真を見ても画面からはみ出さんばかりの極上の笑顔が目立つ。

 確かに、そういう留学も多いだろう。
 しかし、必ずしもそうではないのも事実だろう。
 少なくとも、私はその「必ずしもそうではない」方だった部分がある。

 思い出してもギリギリの状態だった毎日。でも、乗り越えられたのは、今からお話しするような人たちに触れ合えたから。
 真冬に悴んだ手で包んだマグカップが、ひととき体をじんわり温めるように。

 ***

 留学と言えば一般的に事務手続き上の苦労は多い。大学事務とのやりとり、住居の確保、在留許可の獲得、銀行口座の開設、保険の手配、その他諸々。これら誰でも通る試練がいかに頭を悩ませるかは、留学経験や海外在住経験のある方なら頷いてくれるだろう。
 それに加えて、私の場合はプラスアルファの問題がいくつも重なった。それを全て書くことはできないが、最も大きなものは私的な事情だった(後述するが、この件に関してここで書くことはできない)。

 家族には頼れない。日本の先生にもどうにかできる問題ではない。現地に僅かのつてがあったのは幸いだったとはいえ、原則として自分でやるしかない。
 非難するような言葉を聞きながら、何故と思うような条件を課されながら、留学した。
 大学院生まで足を進めてしまった。ここまで進めた道を完遂するなら、研究留学はほぼ不可避だった。反対を唱える声があった中で、背中を押してくれた人がいた。
 諸事情で通常留学の五割増とも思える(いや、それ以上か?)面倒な書類作成を自分で行い、教授の推薦状と奨学生の書類を入れた鞄を命綱の如くにして、成田から飛んだ。

 渡航後は日本では予想もつかないことが次々に起こった。
 まずもって、渡航翌日に出くわした問題は宿舎である。奨学生として入ることになった寮は学期が始まらないと入寮できない。しかしまだ夏季休暇中に渡欧して事務的な手続きを済ませねばならない。それなら地の利を把握し寮の状況を見ておこう、と、入寮予定の寮が夏季に貸し出す一部屋を借りた。正規入寮の部屋はシャワーと簡易キッチン付き完全一人部屋。多少、値が張るが研究に集中するためには不可避である。その代わり、夏季の二週間はトイレとキッチンが共同の個人部屋をとった。ちなみに月の最後は週末に当たり、寮の出入りができなかったため、二日間だけホテルも予約した。

 ところが当該の寮に行ってみれば、いきなり「貴女の部屋、今から使えるから」と正規入寮の部屋に入れられ、予告なしに共同スペース利用の部屋より数十ユーロ高い家賃を求められる。
 驚愕しながらも断ろうとしたところで逆に面倒である。致し方ないと受け入れた。ホテルの部屋がまだキャンセル無料だったのには助かった。
 ところが、部屋に行ってみれば調理器具もなければシーツもきちんとした布団もない(薄いベットパッドほどの物が一枚)。荷物を運び込んですぐにトイレに行こうと思っても、トイレットペーパーもなければ、共同スペースには鍵がかかっていて個室部屋の者は入れず、寮内のトイレすら使えない。要するに入寮日に生活のものを買ってこないと寝食ままならないということだ。
 寮内の音楽室でピアノが弾けるというので、唯一の気休めになると期待したが、あると言われた音楽室は無期限貸出の鍵の予約者が戻さなければ使えない。申し込もうにも寮の事務は平日に三日、数時間しか空いていない。

 これだけでも日本基準では驚く気がするのだが、他にもあった。本当に色々と。
 学生保険を申し込めば、係が誕生日を間違えて記入し慌てて再度、事務所に駆け込むとか。
 実家から荷物が届くというので寮で待っていたら、勝手に不在にされて超重量の荷物を取りに行く羽目になるとか。
 クレジットカード(日本のもの)が立て続けに二枚、不正利用のせいで使えなくなり、届いた新たなカードを取りに来いと呼ばれたら、車道の真ん中で配達バイクに渡されるとか。

 ただ、最も辛かったのはやはり、先に書いた「私的事情」だった。
 感情なんてなければいいと、何度思ったかわからない。ロボットになれたら楽だろうかと何度も思った。どうして仕事もつかず役にも立っていない自分がここにいるのだろうと、川を見ながらうつろな気分になって、歩きながら泣いたのも一体、何度あったのか。
 でもその「私的事情」は、日本の教授などどうしても話さなければならない数人を除いては誰にも言わないと約束し合った。
 だからこそ辛さが増した。

 側から私のストレス度合いを見たら、皆が経験する「留学のあれやこれや」で過剰に苦しんでいるだけ、とも見えただろう。何を大袈裟な、と思われても仕方ない。それ以上の理由があるのだと言いたくても、約束を破ることはできなかった。
 日本人の知り合いに会って「元気そうだね」と言われれば、笑って応えた。顔で笑って心で泣くということが本当にあるんだなあと思った。演劇系の部活だったのはよかったのか悪かったのか。笑い顔を貼り付けておくのはそれほどのことでもない。
 だが、「言えない」「理解者がいない」という辛さはそれまで未経験のものだった。

 でも止まるわけにはいかない。
 送り出してくれた人がいて、「留学に行くんだろう」と言ってくれて、どうしたってやるしかない。
 自分のための娯楽は全て排して、贅沢などせずに論文を書き上げる。

 それに、ただ私がこの欧州の地でどうにかなった時、大学からの除籍や寮の引き払いなど、後に残った事務的なことを処理できる家族はいない。そんなことでお荷物になるのはまっぴらごめんだと思った。
 今思っても後ろ向きなヴァイタリティだが、当時は本当にそう思っていた。

 毎朝起床の後、朝食を食べながら欧語のニュースを聞く。その後、授業の復習やディクテーションを行う。身支度を整え図書館へ行き、資料を閲覧し、研究に従事。閉館後、夕方に遅いお昼を取っては店が閉まる前に買い出しを済ませる(閉店が六時〜八時の間と早かった)。それから再び勉強や研究。大学の講義がある時にはここに講義が加わり、さらに夜間の語学学校に通った。
 文字通り朝から晩まで心身がフル活動していた。八〜九時頃に夕食を作ろうと立ち上がり、そのままベッドに突っ伏して夜半まで寝てしまったことも何度もある。寮にはいつ何時、寮監が見回りに来るかわからないという緊張や、庭向きの一階になってセキュリティが不安だったことなどもあって、常に緊張していたのも本当だ(一度は外出中に寮監が来たらしく、部屋の鍵が開錠していた上に高窓が空いていた)。

 疲労は溜まるのに、精神状態のせいか不眠気味になった。

 躍起になっていたのだと思う。

生きることにぎりぎりだった毎日

 目的を完遂して日本に帰る。
 例の「事情」から、自分がこの地で楽しんではいけないと思っていた。
 また、奨学生という身分は恵まれていると同時に私には縛りにもなった。志願者の中から選んでもらった奨学生は、多数の学生の代表であり模範であるよう求められている(とあったように思う)。よく知らない地では、何が法的に正しく間違っているのかも曖昧なところがある。決して誤った行動をしてはいけない、小さな間違いも犯さないように、と緊張していた。

 毎日、学業と生活と研究に従事する傍ら、渡航初期に必要な諸々の手続きに走り、とりあえずは身の回りを整えていった。その最中、日々の生活を送るためにこたえたのは資金問題だった。

 家族の仕送りには頼らないと決めた。日本の貯金を使うのは、一時帰国の費用やクレジットカードで買わねばならないものに限り、いざという時にとっておく。何年かかるかわからないのだ。
 生活費は奨学金のみ。
 この奨学金は、学費がカヴァーされる面では実にありがたかったが、長期留学を見据えて家賃・物価の高い留学先の都市で一ヶ月、悠々生活するには厳しい額だった。寮と保険代を合わせれば約半分がなくなる。
 さらに渡航直後は何かとお金がかかった。語学学校の費用、大学の授業の参考書、研究で赴く公共図書館の利用料金、資料代、在留許可発行手数料、定期券、プリンターなどの電化製品、生活用品の購入費などなど。
 さらに、奨学金の一部は貯金しておく必要があった。当初の奨学金は延長できても一年半。次の奨学金が取れるかは分からない。しかし、収入や日本からの送金などが定期的にない限り、銀行に一定額の預金がなければ次年度に在留許可が延長できなかった。そのためには当初から貯金を増やしておかなければならなかった。

 携帯電話の契約などする余裕はない。プリペイドカードで乗り切ろうと決めた。毎月、最安値のプリペイドデポジットを購入すれば電話番号は引き継げる(これも後で購入をやめた)。

 他に削れるところは日々の生活費しかない。
 幸い、家事は一通りこなせた。生活費ならば切り詰められる。
 まずは洗濯代を削った。寮にランドリーはあったが、一回分の料金があれば一日の食費を賄えることが分かった。それなら洗濯など手でやれば良い。掃除をした後の部屋のシャワールームで自分で洗濯した。買ったシーツも伸縮性がよく、ベッドから剥がせば手で洗えるサイズだった。脱水は乾いた厚手のタオルで包んで圧をかければ十分にできる。なぜか乾燥機は無料で使えたので、脱水後は放っておけば良かった。
 掃除はモップを買ってきた。個人部屋には清掃サービスが入らないが、清潔に片付いているかのチェックが入る。水回りの清掃道具も購入し、こまめに拭き掃除を行った。

 食費は見切り品や材料をうまく活用すればかなり削れる。両親が共働きだったため、食事作りならキャリアが長い。中学校から夕飯作りに台所に立ち、学部時代は父と自分のお弁当を作っていた。
 街中には至る所で美味しそうなパンの香りがするし、店には一度試してみたいと思うような料理の材料がたくさんあった。しかし自分への贅沢などもってのほかである。
 パンや小麦粉、基礎調味料はスーパーブランドの最安値のもののみ。そうやって選べば、パンもパスタも一ユーロせずに一キロ買えたし、牛乳も一リットル五十セント出せば手に入った。味などこだわっている余裕はない。すぐそばに大型スーパーがあったため、安価な商品の品揃えがよく、見切り品も豊富だったのが幸運といえよう。
 野菜は特に葉物が高かった。しかし栄養バランスを崩しては後が怖い。常に安い人参と玉ねぎ、トマトをキロ単位で買い、少し距離のあるスーパーの週間安売りをチェックして他を補った。果物は林檎とオレンジなら同様にキロ買いできる。カリウムとビタミンCと食物繊維が摂れる。
 タンパク質は安い乳製品か、見切り品の肉を狙って冷凍するか、ひき肉または鶏のスープボーンに頼る。光熱費込みの寮なら煮込み時間を気にする必要もない。勉強する間、鍋を火にかけっぱなし、骨がほぐれるまで煮込んだ。

 それでもやはり限界はあったのだろう。もともと身体は細かったが、体重はさらに減る一方だった。ストレスや睡眠不足、そして恐らく寒さも手伝って、生理は止まった。

ずしりとした、熱いフォカッチャ

 渡航して一ヶ月半ほど。なんとか一日一日、少しずつこの地での暮らしを先へ進めていた。

 欧州の秋冬は寒い。単に気温だけの問題ではない。サマータイムを過ぎるとプラネタリウムの天井を早回しするかのように昼の明るい空はあっという間に真っ暗になり、精神をも冷やしてくる気がする。そんな季節である。
 渡航した晩夏にはまだ街中のアイスクリームショップが盛んに人を集めていたのに、十月ともなれば朝晩はずいぶん冷える。しかもその年は特に寒く、早々から大雪が降った。

 その日もどんよりとした曇り空だったと思う。
 私の大学は、恐らく教授陣が多忙なのと招聘教授が多いのとで、集中講義が多かった。一日に四時間から六時間ほどの講義を数日間通しで行うか、一ヶ月に一度、同じ時間数を週二、三日行う。私もこの手の講義を多く受けていた。
 その日は夕方から夜までの集中講義だった。大抵、長時間講義は合間に食事を取れるだけのブレイクが入る。五時か六時か、その辺りでブレイクが入った。
 他の受講生は、銘々キャンパス内にあるスーパーで何か買ってきていたり、お弁当を持ってきていた。教室の外に出て行った受講生もいる。
 私はといえば、休み時間を使って復習か論文用の作業をしていたのだと思う。ともかくも机についたままだった。

 ところで、こちらの大学の学生には様々な年齢層の方がいる。現地の人であれば基本的に学費はほとんどかからない。そのためか、定年退職後だと思われるご高齢の方が何人も同窓生にいた。その日の講義も同様だった。
 休み時間になって間も無く、いくつかの講義で一緒になっていたお爺さんに声をかけられた。夕飯を食べにキャンパスそばのイタリアンに行かないか、と誘われたのである。

 友人もまだ少ない中でありがたい誘いだった。行きたい気持ちはあった。
 だが、外食のための出費が痛手だった。

 十ユーロくらい払えないわけでは無い。
 ただこの時は在留許可の受取が近日中にあり、手続き料金の支払いがあった。さらに夏季定期券を学期中定期券に買い替えたために高額出費があった(日本円でおよそ四万円弱くらいか)。合わせれば私の一ヶ月の家賃と保険代に近い額であり、その他にも何かと留学初期費用がかかっていたのだ。
 正直な話、可能ならば出費を抑える必要があった。

 かと言って、他の学生のようにお弁当を持っているわけでもなければ、今やらなければならない課題をやっているわけでもない。拙い語学力でうまい断り方も見つからない。
 確か、「節約しなければならない」と愚直に言ったのだろう。

 お爺さんと「一緒に行けたら良かったのに」「ごめんなさい」「残念だね」などと言いあった。短く言葉を交わし、彼は出ていった。

 その後、講義が再開する直前のことである。
 俯いていた私の机のノートの向こうに、どさりと大きなパンが二つ置かれた。ぴっちりとラップに包まれている。中に何かが挟まれているらしく、間から葉物野菜が見えた。
 顔を上げると、先のお爺さんがいた。何かと聞くと、彼はぶっきらぼうにこう答えた。

「君にだよ。フォカッチャだ」
「え?」
「お金がなくて来れない子がいるって言ったら、マスターが『そりゃ可哀想に』って作ってくれたんだ」

 信じられなかった。

 路上で物乞いをしている人のように日々食べられない生活なわけではない。ただ自分の生活を守るために戦っていただけで。
 それでも正直な話、異国ならではの食事やカフェでの歓談に大きな憧れがあったのは否めない。
 驚きと申し訳なさと感謝とがないまぜになって、どんな言葉を選べば解らない。
 ただただ、繰り返しありがとうと述べた。語彙が足りないのがもどかしかった。他になんと言ったらいいのか全く思い付かず、同じ言葉を何度も工夫なく繰り返した。
 お爺さんは先と同じくぶっきらぼうに、でも嬉しさか照れか、微笑んでいた。
 講義が始まり、それじゃ、と席を離れていった。

 フォカッチャは、比較的指の長い私の手をいっぱい広げたよりも大きかった。パンは分厚く、そしてつい、と生地を指で押せば、力強い弾力がある。片手で持つと「ずしり」という形容詞がこの上なく似合う、中を見なくても具がいっぱいであるのが分かる重量感。
 寮に持ち帰り、ラップを開けてみる。かぶりつくのも大変な幅の生地と具の層。案の定、二つ同時にはとても食べられないボリューム。 
 一つ一つ、別々の日に大事に食べた。中にはルッコラとチーズ、生ハムが入っていた。
 一口食べれば、生ハムの塩味が口いっぱいに広がり、二口食べれば、フォカッチャ生地の小麦が香ばしい。
 一つだけで、満腹になった。
 いっぱいになったのは、お腹だけではなかった。

 あの日のフォカッチャほどずっしりと重く温かいものは、今でもなかなか思い付かない。

 ***

 その後もそのお爺さんとはしばしば授業で一緒になり、大学で会えば挨拶を交わす仲になった。聞けば彼はクラリネット奏者だった方で、音楽が好きな私とよく話が合った。日本のとある有名なホールでも演奏したと、嬉しそうに話してくれた。

 留学生活の中には困難や驚愕が少なくなかったが、生活は多方面でいい方へ進んだ。幸い、知人のつてで一年後には家賃の手頃なアパートに引っ越すことができ、その大家さんとの季節の挨拶は今でも続いている。
 資金面でも、運よく留学を終えるまで、ほぼ間なくいくつかの給付奨学金を得ることができた。受給額の多い奨学金に切り替わったとき、初めてまともな豚肉を(見切り品以外で)スーパーで買った。お肉が買えたことに対して未経験の感動を味わった。

 現地の友人や教授陣にも恵まれた。どうしても語学に難があったが、友人たちは「日本語を学ぶ方が大変だよ」と笑ってサポートしてくれた。
 毎日通った図書館のおじさんや近所のスーパーの店員さんとも顔馴染みになり、訪れると挨拶を交わした。

 相変わらず驚きの出来事は多かったが、本当に運が良く、人にも状況にも恵まれた環境だったのである。

 アパートに引っ越してあまり経たない頃だったと思う。やはり寒い時期で、日本への一時帰国を終えた時だった。夜が訪れる時間に飛行機が着陸し、市鉄で空港から一時間強。やっとアパートの部屋に重いトランクを引きずりこんだ。

 長時間フライトで寝不足状態。荷物の重さや空港周辺の治安や人の少ない真っ暗な中を来た緊張もあって、疲弊しきっていた。部屋の電気もつけないまま、コートも脱がず、アパートの床に文字通り突っ伏した。

「着いたー……」

 独り言が口から漏れた。
 とてつもない安心感があった。

 そのことを自覚して、初めて思った。
 やっと、ここが私の『家』になったのだと。

「留学は楽しかったか」
「留学した都市は好きか」
 そう聞かれると、いまでも私は即答できない。

 だが「留学して良かったか」と言われたら、少しの間をおいて、「良かった」と答えるだろう。

 そして、「留学して」の後の言い尽くされた言葉は、やはり私にも当てはまる。

「かけがえのないものを得た」

 こんな答えが言えるのは、あのフォカッチャのような出来事をはじめとして、現地人、日本人を問わず、沢山の人に助けられたからである(そしてまた、日本にいる人々にも)。

 一つだけ、心残りがある。
 あのイタリアンのマスターにお礼を持って行けなかったこと。

 いつか再訪し、まだ店があることを願う。
 覚えていなかったらと思うと尻込みもするのだが、やはりお礼ができたらという希望がいまでも心に引っかかっている。

 単位も学位も全て取った後になお残る、留学時代以来の宿題である。

☆☆☆☆☆☆
 あの時のお爺さん、カフェのマスター、
 教会で泣いた私の手を握りしめてくれたお婆さん、
 いつも笑わせてくれた図書館のおじさん、顔を見ただけで資料を取ってきてくれた司書さん、
 CDを貸してくれた資料館の館長さん、
 おばあちゃんみたいだった大家さんご夫妻に、一生懸命描いた絵をくれたお孫さんやご家族、
 出産直後にも関わらず、いつも笑顔で支えてくれた指導教授の先生、
 たくさんドイツ語を見てくれた友達たち、
 今でもメールを交わし、会えば弾丸トークになるLiebe親愛なる Freundin友人 M、
 このエッセイは、さまざまな人々に感謝を込めて。


#創作大賞2024 #エッセイ部門

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