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自己肯定感を得たわたしがほしかったのは、自己受容感だった。

これは、自己肯定感と同じようでちがった自己受容感を手にし始めている、ここ数年から最近までのわたしの変化の話。

自信を失う

地元の公立学校で小中を過ごしたわたしは、私立高校に入学して衝撃を受ける。それは「世界にはこんなに賢い人がたくさんいるんだ...」という、進学校に進んだ人にありがちなショックである。

そのくらい大丈夫だよと言いたいところだが、「勉強がよくできる自分」が一種のアイデンティティだった高校入学当時のわたしにとっては大問題だった。特に「得意科目は英語です!」と言い切っていたわたしには、帰国子女のクラスメイトの存在は、脅威と言っても過言ではなかった。

高校に入学して、初めてこんなにたくさんの賢い人たちに出会って、私は自分の価値がわからなくなりました。英語はもちろん、国語でも数学でも叶わない帰国生。そんな彼らに対して劣等感を覚えたこともあります。」
(※下記noteから)

自己肯定感を得る

そんな苦しさの中でスタートした高校生活。

けれど、ライバルであると同時に憧れでもあるクラスメイトの存在や、「英語や勉強が武器じゃなくなった自分には何が残るの?」という問いは、徐々に新たな気づきをもたらした。

・人見知りをしないこと
・いつもご機嫌でいられること
・ほかの人よりも古典が得意で好きなこと
・人に教えることが上手なこと
・バイオリンが弾けること

このような、英語や勉強以外の自分の強みがあることを発見したのだ。

自分の中にあるきらっとした部分を探して、それを大切に過ごす。

つまり、わたしにとっての高校3年間は、数値化される自信という鎧を着た中学生までの自分を脱ぎ捨てて、それ以外の自分の良いところを少しずつ見つけて、その芽に水をやるような旅路だった。

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異変に気づく

大学生になりしばらく経った頃、ご縁があったZaPASSというコーチング会社でわたしはインターンを始める。そして、日々の生活と、自分もコーチングを受ける中で、少しずつ気が付いてしまったのだ。

「あれ? わたしは自己肯定感が高いと信じていたけれど、思っていたよりも自分の中の愛せない部分や、蓋をしている部分が多いんじゃない?」、と。

たとえば、「いつもご機嫌でいられること」が自分のきらっとした部分だと思っているせいか、ご機嫌じゃない時の自分がどんどん嫌いになっていったのだ。

「ご機嫌でない状態の自分は、あってはならない。」

こうした自分に対する自己否定が、いろんな場面で起こり始めていることを感じた。

自己受容感を手にし始める

違和感を覚え始めたちょうどその頃、ZaPASSが提供する「コーチ養成講座」を受講することになった。

講座の詳細等はHPをご覧いただくとして、この講座(特にStep Up編)を通して、自分の使命・生まれてきた意味や、ミッション・ビジョン・バリューについてとことん向き合う機会があった。

そんな時間を通して、今までは目を背けていたような自分の内面に向き合い始める。

・周囲の人に「使えない」と思われないかビクビクしている自分
・ネガティブな感情を出すのが怖い自分
・泣き虫な自分

そして、講座の数々のプロセスのなかで、こうした部分も大切な自分の一部だと、少しずつ認めて受け入れることができた。

ちょうどその頃、「自己受容感」という言葉に出会い、「あぁ、今のわたしが求めていたのは、まさに自己肯定感ではなく自己受容感だったのだな」と気が付いた(※わたしが今もっている自己受容感の定義が、そのまま自己肯定感の定義である人はいるかもしれない)。

きらっとした部分をさがす自己肯定感から、
ありのままの自分を受けとめる自己受容感へ。

今の自分は、まさにその変化の最中だなと思う。

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