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「幸せになってはいけない」と信じていた、ちょっと前の自分へ


「自分は幸せになってはいけない」

過去にこう思っていたことは確実なのだが、ここ1、2ヶ月でそう感じることがめっきり減った。減っただけなので、もしかしたらまた思ってしまう時期が来るかもしれないけれど、今のところ、昔とは違う捉え方をしている感覚はある。

過去の私のように「幸せになってはいけない」「楽しんではいけない」と苦しんでいる人がもしいたら、どんな理由であれ、「私はそんなことないと思うけどなぁ」と伝えたい。(自戒を込めて)

かくいう私も、かなり長い間この思い込みに悩まされていて、「幸せになってはいけない_過去」とか「幸せになってはいけない_罪悪感」とか、ひたすら検索していた時期があった。心療内科で相談したこともある。

幸せになってはいけない

一言で言っても、そう思うに至るきっかけは人それぞれだと思う。

きっかけによってだいぶ考え方が変わる問題だと思うので、ここから先はあくまでも私の場合、として考えていきたい。

私の場合、自分がこれまで人を傷つけてきてしまったという罪悪感が一番大きな原因だと推測している。(法に触れたとかではないけど)

何気なく言ってしまった一言

深く考えずにとってしまった行動

それらによって多くの人を傷つけ、辛い思いをさせてしまったと思っている。その人たちが今でも苦しんでいるとしたら、自分が幸せになっていていいのだろうか、いや、いいはずがない、と反芻していた。

とはいえ、逆に私を傷つけた人たちに今、不幸でいてほしいかというと全くそんなことはない。
むしろ、どれだけ傷つけたかを本当の意味とサイズで知ることはできないと思うし、できたと言ってほしくもない。
仮にその人なりのサイズで認識したとして、謝罪してほしいとかもないし、強いていうならもう二度とそのようなことをせず、世界のどこかで幸せに過ごしてほしいと思う。

その人がその人自身を責め出すのは一番違う。

イメージで表すなら、その人がナイフを持ってその人自身に向け、「悪かった」「自分が間違っていた」と繰り返すような状態。それは最も望んでいない。


どこかの記事でも書いたのだが、私の仮説として

自分を責めているナイフを持っている人は、他者にもそのナイフが向く。その逆も然り。

というものがある。

その人が自分を責めるナイフを持ち続ける限り、どこかのタイミングで同じような人に出会ったとき許せなかったり、関係のない誰かに向けて振り回したり、誰にとってもいいことはない。ナイフはとっとと捨ててしまった方がいい。



心療内科の先生に、一通り私の罪悪感を吐き出したとき、

先生からは

それはあなたが不幸になっていい理由としては十分ではないね

世のため、人のために頑張ってください!」

と言われた。


まぁそうか、と思った。

(それでもまだ言ってない悪いこともあるしな…とも思った。)


この時点で「幸せになってはいけない」という信念は100から75くらいにはなったが、ゼロには程遠かった。今は20くらいだと思う。

こうなるために何をしたか、ということなのだけど、正直意識していないので明確に書けない、というのが本当のところ。

とにかくこの数ヶ月で自分に向き合い続けたら、気づいたら気にならなくなっていた、というのが近いかもしれない。

ではなぜこの記事を書こうと思ったのか。約1ヶ月半前に書いた記事を先日読み返していたのだが、半分くらい共感できなかったからだ。

自分で書いておきながら、所々意味がわからなかった。

大きな発見をしたかのように書いていることについても、「うん、そうだよ」としか思わなかった。成長した?ということなのかもしれない。



読み返して感じたこととしては、当時私は「自分が幸せになる」ということと、「誰かが不幸になる」ということをセットとして考えていた、ということだ。

逆に「誰かが幸せになる」ためには「自分が不幸である」必要がある、とも思っていた。

世の中の幸せの総量は決まっていると思っていたのかもしれない。


最近だとあまりその考えはなくて、「自分が幸せになる」ことによって「誰かも幸せになる」という現象も起こっているし、「自分が不幸である」状態が「誰かを不幸にする」場合もあると、身をもってわかってきた。


そして、思っていたよりも幸せの形は人それぞれだということもわかった。私にとっての幸せは私にしかわからないし、Aさんの幸せはAさんにしかわからない。

自分がAさんを不幸にしてしまった!なんてもし自己判断で思うとしたら、それはかなり身勝手というか、Aさんが幸せかどうかはAさんが感じることだし、人の幸せってそんなに簡単に他者が奪えるものではないし、たとえ脅かされそうになったとして、そこからどう幸せになっていくのかは、本当に本当に厳しい言い方になるかもしれないけれど、Aさん次第だったりもすると思う。(かなり表現が難しい…)

もちろん、自分の好き勝手やって迷惑かけまくってもいいじゃん!と言いたいわけではない。ただ、自分が思っているほど他者の幸せなんて操作できないし、できると思うのはおこがましいし、それを自分が幸せになってはいけない理由にされようものなら、言い訳に使わないでくれ!と逆だったら感じるんだろうと思う。(本当に場合によるが)


「幸せになってはいけない」かどうかについては、答えはないと思う。そもそもなっていいとか悪いとか、マルバツで答えられる問いではない。

たぶん、こう思っている人は、世界中の人に

「あなたはもう幸せになっていいですよ」

と言われたとして、

「よし!なっていんだ!なるぞ!」

とはならないはずだ。

なぜなら自分自身で幸せになっていいと許していないから。

幸せになろうとするのは怖いから。

この気持ちは今の私でもわかる。

幸せでない状態の方が安心する。これでいいと思える。

自分はそれくらいの人間なのだ、と納得する。

でも突然その事実に耐えられなくなるときがくる。

幸せになりたいような気がしてくる。

でもなってはいけない。その理由を掘り起こす。

そして納得させる。



その繰り返しにうんざりしたとき、幸せになってみるかと思い、重い腰を上げる。


それは思っていたより大きな行動とかではなかったりする。

なんなら行動としては何も変わっていない。

同じ行動一つとっても、それを「幸せだ」と感じていることに気づく。認める。

簡単なようで、意外と難しく、時に孤独を感じる。


自分の感情を認めることを「自分を幸せにすること」の一歩とするならば、自分を幸せにすることが、いかにパワーが必要なことなのか、初めて気づく。

自分が幸せになっているだけで、誰かを幸せにしているわけではない自分の価値を疑い始めたり

自分が幸せな分、誰かが不幸になっている可能性に思いを巡らせたり

でもそんなものは全て、自分が幸せになる責任を自分で持つ、という覚悟ができていないから言い訳を探しているとも考えられる。

どんな感情も自分のものとして味わうという覚悟ができたとき、幸せになっていいかどうか考える前に、幸せを感じてしまって、それに感謝している瞬間に出会うのかもしれない。


偉そうに長々と書いてしまったけれど、まだちゃんとした答えは出ていない。そして繰り返しになるが、かなり状況によるので、あくまでも私の場合として書いたことを主張しておきたい。(たとえば凶悪な事件を起こした人が幸せになっていいのか、という問いについても様々な意見があるだろう。私なりの意見はあるけどまたどこかで…)
私の場合、こんな感じでとりあえずこの問いで悩むことは減った。他のことを考える時間が増えた分、相対的に減ったとも言えるかもしれない。とはいえ小学生くらいのときから「幸せになることへの罪悪感」みたいなものはずっと抱えてきたので、また悩むことになるかもしれないし、もう手放せたのかもしれないし、今はまだわからない。

わからなくてもいいかなと思う。全部わかるのは難しい。わかった気になって全然違うこともいくらでもある。来月読み返したら、あの記事みたいに全く理解できないかもしれない。
それでもいい。今ここにある思いを残しておくことで、ヘンゼルとグレーテルのパンみたいに、あぁここを辿ってきたんだなぁと振り返れると思う。もしこれが推奨ルートではないと後々判明した場合でも、その例として数がある分にはいいだろう。

あえて問いに答える形を取るのなら、

なっていい

そして、なると決めて、なるための選択をしていく責任を自分でとっていこう

これが今の答えだろう。



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