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幸せは不幸で落札するもの? -不幸でなければ幸せになってはいけないという思い込みについて-

幸せはオークションで落札して手に入れるもの。
ついこの前まで大真面目にそう思っていた。

厳密に言えば、「幸せを手に入れるなら、誰よりもそれに見合うだけの不幸が必要だ」と本気で思っていたので、ふと「オークション制ってことか」と気づいた。

「オークション」と調べると、次のような説明がある。

競売(きょうばい、けいばい、せりうり)あるいは競り(せり)、オークション (auction) とは、販売目的で何らかの場に出された物品を、最も良い購入条件を提示した買い手(入札希望者)に売却するために、各々の買い手が提示できる購入条件を競わせることである。

Wikipediaより

ここに当てはめるのならば、私にとって幸せとは「販売目的で何らかの場に出された物品」ということになり、我々人間はその「購入条件を競」っている。

「落札」については以下のような説明が。

入札とは、欲しい商品を購入するための予算(支払ってもいい金額)を「現在の価格」以上の金額で提示することです。

入札の結果、オークション終了時点で最も高い金額で入札をしていた人が、商品を購入する権利を得ることができ、これを落札といいます。

入札する - Yahoo!オークション ご利用ガイドより

「商品を購入する権利を得ることができ」という文言が、めちゃくちゃしっくりくる。

幸せという欲しい商品があって、「最も高い金額で入札する」ことによって、商品=幸せ を購入するという権利を得ることができる。
こういうイメージの中で、私は幸せを捉えていた。



不幸でなければ幸せになってはいけないか


私のイメージするオークション会場では、なぜだか「不幸であること」がお金の代わりだった。これまでの不幸が多い人ほど、大金持ちというわけだ。

「不幸」の捉え方も色々あると思うし、さまざまな意見があると思うが、ここでは「他者から見てかわいそう」とか、「本人のせいではないのに傷つけられた」とか、「欲しいものがもらえていない」とか、他者の場合は実際のところどうかはわからないが、「なんとなく辛そう」ということだ。
よく考えれば(よく考えなくても)他者の幸せを判断するなんて大変失礼な話だが、よく言われる「世の中にはもっと辛い思いしてる人いるんだから!」的なアレである。


辛い思いをした主人公が、最終的に幸せになれるドラマを見すぎたせいなのか

いつか誰かに言われた「こんなに嫌な思いしたんだから、きっと今度は良いことあるよ」という言葉の影響なのか

一見大した苦労もなく人生を楽しんでいるように見える人への強烈な嫉妬心なのか


どうしてそうなってしまったのかはよくわからないが、

不幸である自分こそが幸せになる権利がある

と信じた私は、いつしか不幸であることを選び続けていた。

ここで一つ問題がある。
オークションなので、幸せを欲しがっている人間は私一人ではない。私が欲しい幸せを、数多くの人が取り合っている。

とびっきりの不幸を両手に抱えた私は、これでどうだと言わんばかりにオークション会場に乗り込む。でも、私が用意できた不幸なんて、いつもたかが知れていた。

私の何倍もの不幸を持ってきた人は山ほどいる。私の欲しかった幸せは、目の前であっけなく落札されていった。

そんなことを繰り返すうちに、そもそも自分は所詮幸せを手に入れることができる人間ではないのだという認識になる。なろうとする。
毎回こんなに不幸を用意しているのに、私の欲しい幸せは手に入らない。なんのために不幸をかき集めているのだろうか。どうすれば幸せは手に入るのだろうか。


とはいえ、ある日思いもよらぬタイミングで落札できてしまうのがオークションだ。自分にはそんな権利があるとも思っていないので、入札しておいておかしな話だが、自分が手に入れていいのだろうかと不安になる。

落札とは「商品を購入する権利を得ること」とあったように、せっかく「この商品はあなたのものですよ」と言われて権利を得たのにも関わらず、「自分の不幸では見合っていないんじゃないでしょうか」とその権利を譲ろうとしてしまう。
自分よりも多くの不幸を持っている人が現れると、この幸せは本来その人が手にするべきだったのではないかと恐れに似た感情が生まれる。

たいした不幸も持っていないのに、こんな幸せを手にしていいはずがない

こうして私は幸せになってしまいそうになるたびに、その権利をどこかの誰かに手放しては、またせっせと不幸をかき集めていた。


幸せはどこにあったのか


幸せを不幸で落札する、というのはおそらく間違った考えなのだと今は思っている。なぜならそう考えて生きてきた結果、幸せになっていないからだ。このままではいつまで経っても幸せが手に入らない。自分より辛い思いをしている人は数えきれないほどいる。その事実が私を悔しくさせ、絶望させる。幸せになりたくて不幸を積み重ねても、その先に幸せは用意されていない。どこかで何かを間違えた。

落札するためのツールが、不幸ではなかったのかもしれないと思った。例えば努力とか。
努力すればするほど幸せになる権利があるのだとしたら?
でもそれでも結局同じ気がした。自分より努力している人なんていくらでもいるだろう。努力してやっと手に入ったとしても、もっと努力している人が現れたとしたら、私はどうせ幸せを譲ってしまう。

じゃあ幸せはどこにあるのか。
それはきっと自分の中だ。

「幸せは自分の手の中にある」

何度聞いたか、どこで聞いたかもわからない言葉だが、これまでしっくりきていなかった。「ないですけど?」と思っていた。だってオークション会場にあるんだから。

でも、今ならほんの少しだけ理解できる気がする。

幸せとはそもそも商品ではない。
誰かと競い合って勝ち取るものではない。
「幸せになる権利」なんてものは存在しない。
幸せがオークション会場にあると信じていた私は、誰が出品したと思っていたのだろうか。

私の心の中に私だけの幸せがある。
ずっと欲しかったものは、自分の一番近いところで、私がそれに気づくのを静かに待っていた。


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