心がしわしわなのは感情を認め始めたから
特に何かすごく嫌なことがあったわけじゃないけど、「あれ、心がしわしわだな」と今日ふと思った。
ちょっと仕事でうまくいかないことはいくつかあったけど、それくらいでへこたれる私ではない。
このところ毎日自分と向き合い続けて、ようやく「自分を生きてる」って感じがしてたのに、やっぱりあんまり色々考えすぎるのはよくないのかなぁ。
そんな風に思いつつ、なんだかよくわからない「しわしわ」という感覚を無かったことにしてしまおうかとしたとき、「あぁなるほど」と気づいた。
私はこれを恐れていたのだ。
嬉しいことがあったとき、私は喜びすぎないようにしていた。楽しい出来事があったときも、私はどこか俯瞰で見るように意識していた。悲しいことがあっても、「まぁそんなときもあるよね」となるべく時間をかけずに諦めては、浮かんでくる感情に急いで大きな布をかけていた。
布をかけてしまえば、喜びも悲しみも私の心を掻き乱さない。
大きな悲しみで傷つけられてしまうこともない。
全て自分を守るためだった。感情の存在を認めることは私にとって何よりも恐ろしいことなのだ。
それなのに
最近私は変わろうとしている。
コーチングを受けたり、毎日じゃないけどなるべくnoteを更新するようにしたり、ちゃんと浮かんだ感情の存在を認めるように、布をかけるのをやめた。
おかげでなんとなく今までと違う感覚、「自分を生きている」という実感を味わうことが少しずつできている感じがしている。
でも感情というのはポジティブなものばかりではないし、むしろポジティブな感情ほど認めてしまった場合の裏切られた際の傷つき度合いは大きい。
「あれ、心がしわしわだな」と今日ふと思ったのは、「特に何かすごく嫌なことがあったわけじゃない」からこそなのだろう。
今までだったらすぐさま覆い隠せる大きさの「ちょっと嬉しい」「ちょっと悔しい」「ちょっと困る」といった気持ちたちを、隠さないようになってきたから、私の心はしわしわになった。しわしわの対義語は、たぶんツルツル。今までの私だったら、今日は何も無かったなーとか虚無を感じてたかもしれないけど、ちゃんと隠さないようになってきたから、しわしわになっていることにも気づけたんだと思う。
感情を認めきった先に何があるのかと言われると、まだ達成できていないし正直わからない。でも漠然とした恐れみたいなものがなくなったら、本当の自分が姿をみせる気がする。
大きく傷ついたいつかの自分が用意してくれた布だけど、今は「ありがとう」と言ってそっと畳みたい。
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