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分担とは、逃げである

 タイトルから仰々しい。
 この記事で私が言いたいことは
「家事分担は素敵なことのように見えて、欠点もあるよ。」である。

 まず断っておきたいのは、本記事そして私のスタンス全般として、何かを批判しようとか、喧嘩を売ろうとかそんな気持ちは一切持ち合わせていないことをご理解願いたい。

 私は、本記事のタイトルのような「○○とは、××である」という内容の記事や言い分、主張が好きではない。
 その理由は、そういうタイトルはなんか大層な事言った感じを出しているだけで、それは単純な一種の騙しの行為だからである。
 その、騙しというのも読者ではなく、自分に向けでの騙しのことを指す。
 そういうタイトルを使う輩(私も)はたいてい人の気を惹きたいが為に、文章の本質をおろそかにしているといっても過言ではないのだ。

 まず次の点を確認したい。
 主張や評論というのは、何によって構成されているのか。
・問題を提起する(序論)
・様々な情報を整理し、説明する(本論)
・本論を纏めて言えることを述べる(結論)
 大まかにいえば以上のようなプロセスを経る行為である。

 私が言いたいのは、この要素のうちどれが大切か、という話である。
 結論は確かに大切なものだ。
 しかし、それは本論の内容ありき、言い換えれば文脈に依存した言葉にのみ構成される箇所である。
 主張で大切なのは、何を話しているか、本論の内容である筈だ。
だのに、世の中の多くの輩は、人の興味を惹きたいタイトル付けたいといった欲求や、自分は人とは違う結論を導いたんだといった満足感を味わいたいがために、本来本論があってこその結論だけを先に書く。
 こうして、世の中に前後が不一致な表題がつけられた評論が産み落とされる。
 こういう行為は、文章に歪んだ先入観を持たせて簡単に読者の曲解を招く愚策であり、記事を内容が伴っていても体裁が不釣り合いなものに変容させてしまうのである。

 そして、そういう恥ずべき行為に手を染めたのが、何を隠そうこの私である。
 正直に白状すると、私にはこのタイトルにしなければならない理由がある。
 それは「#家事分担の気づき」というテーマでもって、全く何書けばいいかわからなかったためだ。
 そもそも本記事を書こうと思った動機が、noteの投稿企画のお題目に沿った記事をあげてみたかったというもので、その内容に合わせたタイトルにしないと流石に不味いのではないか?と私は考えたのである。
 blogを始めるにあたって、ネタ切れをしないように、日常の小さな気づきとかもメモしているから、特段書くことに困っているわけではないのだが。
 私も流行りに乗ってみたいというか、皆がやっていること私もやってみたいな、と思ってしまったものは仕様がないのである。

 さて、そういう訳で投稿企画に沿った内容を書こうと思い、どんな企画があるのかな、とざっと見てて思ったことがある。
 「#家事分担の気づき」の記事少なくね?
 当たり前である。
 私は新参者だから、今までのnote史でどんな投稿企画があったのか、その一切を存じ上げないが、noteの投稿企画は異常であると言う他ない。
 「#家事分担の気づき」とか「#会社員でよかったこと」だとか、そんなタグで企画は成立するのだろうか。
 そんなタグでどう集客するつもりなのだろう、と疑問符が止まらない。
 まるで興味がそそられなくないか?
 私はそう言いたい。

 誰が、人の会社員経験を、家事分担事情を好き好んで知りたいのであろうか。
 もっと良いタグ、たくさんあったのではないだろうか。
 「昔使ったことのあるタグは、企画として使いまわしている感あって嫌やな~」とか、noteの運営の会議で絶対交わされた会話である。
 そんな、邪推をしてしまう。
 使いまわしでも、いいじゃないか。
 定番って大切である。

 こんな毒にも薬にもならないような記事を、よくみんな書いてるなと思う。
 私、全然書きたい内容が思いつかない。
 1000文字程度は書くようにしようと、私は私の中で勝手に基準を引いているのだが、それを大きく下回る量しか書けないだろう。
 そういう意味では書き手にとっては毒である。

 というかそもそも割と書く人を限定しているのもよくないポイントである。
 家事を分担したことがある人、会社員である人、これでも多少絞られるが、まあ大半の人がそうであるだろうから、これはまだ許せる。
 問題は、「#家事分担の気づき」「#会社員でよかったこと」というタグである以上、分担したこと、会社員の経験で何かしらのメリットを享受していないといけないのである。
 富士山からヒマラヤ山脈ばりの驚きのハードルの上がり具合である。

 「#映画にまつわる思い出」これ、非常に人気である。
 「#家事分担の気づき」からトリプルスコアを付けた数の記事が投稿されている。
 とっつきやすさが段違いなのだ、「#映画にまつわる思い出」はその名が体現している通り、映画に関することならなんでもいいという懐の広さが素敵である。
 企画担当者の寛容さの部分とされている、noteの良心である。
 それに対して「#家事分担の気づき」「#会社員でよかったこと」はなんなのだ。
 メリットを前提で物事を語らないでほしい。

 怒涛の勢いで文句を垂れてしまったが、まあ家事分担で思うことを話せと言われて、書く持ち合わせがないほど、私は物書きとして落ちぶれている訳ではないのである。
 書こうと思えばギリ書ける、そういう感じの難易度だ。

 家事分担がまず人間にとって非常に合理的な要素であることは言うまでもない。
 ホモ・サピエンスが他の生物と大きく異なる点の一つとして、他者への業務委託、即ちアウトソーシングが得意であるという話を聞いたことがある。
 要は、人間もともと業務を専門化させるのは得意分野であり、その方が効率的であるということだ。
 特に家事というこなさなければ家が回らない業務であり、家庭単位で人材の替えが効かないシステムになっていると猶更より強力に、責任感というものが生じる機構になっているのも素晴らしい点である。
 私が服畳まなければ、皆の押し入れに新鮮な服が届けられないわ!
 これである。

 あと、更にメリットを書くとすれば、それぞれの家事を生活の一部としてルーチン化することが出来ることであろうか。
 誰が当該家事をするか定まっていない状態だと、家庭の中に互いに職務を押し付けあう空気感が充満することになり、結果として全体の過程業務の停滞を招くのは明白である。
 それぞれ、きっかりと仕事が一対一対応していることこそ、理想の職場環境と言えるのではないだろうか。

 しかし、なんだ。
 ここまで良い点ばかりを述べてきたが、私は分担することに懐疑的な人間のうちの一人である。
 分担にめちゃくちゃ消極的なのは、タイトルを見て貰えれば分かると思う。
 これが、本論と結論伴っていないやつの典型例である。

 初めに勿体付けたが、結論は以下だ。
 「家事くらい、人間だれでもできることではないだろうか?」である。
 分担して専門性を高めることは、その仕事ばかり上達して、他の仕事できない人が誕生する結果を生む。
 もし洗い物ばっかり担当する人がいれば、その人はいずれ「めっちゃ洗い物できるけど、服も畳めんし、掃除機もかけれんし、料理もできんし、家計にも関与せん人」というモンスターになってしまうことだろう。
 その他の人も悲しいが同様の結果になる。
 一家総モンスター化だ。
 真っ当な人間として家事くらい当たり前にできて然るべきだが、家事を分担して専門性を高めたら、結果こんな化け物が家庭からたくさん排出されてしまう。
 これは非常に困る展開となる。
 転職(進学や就職、結婚や転勤のこと)するときに強みを聞かれたときとかピンチである。
 強みが一能力突出型のめっちゃ尖った人になってしまう。
 だから、あなたもちゃんと家事は平等に出来るようにすべきだ。
 辛いけど頑張ろう。
 私は、これからも家事を分担することになる人生だろうけれど、と一言申し添えておく。

 以上、あなたも私も家事頑張ろうという記事でした。
 読んでいただきありがとうございます。
 次回もまた楽しみにしていてください。


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