課題のために『謎解きサリンジャー 自殺したのは誰なのか』を読んだ。ミステリー小説だった

サリンジャーを高校時代に読んでいない人は信頼されなかった。
女子一貫校だった母校における小さなコミュニティのなかでの出来事ではあるが、そこではサリンジャーを読み、さらに鈴木大拙を読むまで疎外感をあじわうことになるのである。

先日、不誠実なレポートを提出したら丁寧な添削がきて、少しだけ反省したことを書いた。
その授業の単位取得試験が、文学、歴史、文化、哲学などの本を読んで、それぞれ論旨をまとめ、疑問に思ったものを1000文字程度にまとめる、というものだったので、文学論の課題にこの『謎解きサリンジャー(以下略)』を選んだのである。

さて、わたしは読書が出来なくなってしまったのだが、本を読み通す秘訣を発見した。
読みながら歩き回ることである。
わたしはこの本をよみながら、さながら動物園の檻のなかの退屈したクマのように、家の中を歩き回った。ほとんど円を描く程度の移動距離なので、虎だったらバターになっているところだった。

ぐるぐると家の中で円を描きながら読んだこの本は、とても面白かった。
しかし、頭のいい人はなんでもこじつけて考えるのだなあとすこしだけ呆れもした。
例えば、芭蕉は英語で読むとバナナになるので、『ナインストーリーズ』の「テディー」が芭蕉の短歌を引用する。そのため、「バナナフィッシュのうってつけの日」のシーモアの自殺の意味をテディーから読み解くべきというあたりの展開は思わず笑ってしまったりもした。

もうなんの本で読んだのか忘れてしまったが、ミステリー小説の探偵が、
「犯人は考え抜いて殺人を行なっているはずだから、そんな些細なミスをしないと思って、単純な証拠を見て見ぬふりをする」
というようなことを言っていたのを思い出す。
なにか行動をおこすには、考え抜かれているべきだ。
ほんとにそうかしら?
深い意味もなくふらふらっとやっちゃうことってあんがいあると思うんだけど。
と探偵は言っているわけだが、作者の意図を超えて意味をもたされていることって案外あるんだろうなぁ、と感じたわけだ。

そんなふうにして理解したくなるような素晴らしい作品に出会えたことが読み手にとってラッキーだし、
読み手はどんな読み方をしてもいいわけだ。

それにしても、自殺したのは誰なのか。
シーモアであることに変わりはないわけなのだけど、バディの半分もそのとき一緒に死んでしまって、バディ=サリンジャーなのだから、サリンジャーも半分死んだまま生きて、でもアルプスの少女ハイジのおんじみたいにあんがい気ままに自由に楽しそうにやってたんだな、と思うと悪くない結末だと思うのだ。


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