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選択したテーマ:1)自分が変わるきっかけになった出来事    A Little Princess  

 アポイント先の担当者の名前をど忘れした上司が外出先から電話をかけてきて、パソコンのメールを確認して担当者の名前を調べて教えてほしいと頼まれた。
 この上司のそういう適当な仕事ぶりには慣れっこだったので、あきれながらも受話器を顎に挟んで上司の席に移動し、マウスを動かしてスリープ状態で暗くなっていたパソコン画面が付くと、ちょうど表示されたままになっていた送信メールには、こう書かれていた。
「むかつくおばさんのつくった見積送ります」 
 私の作成したお見積書で、メールの宛先は、私も親しく付き合っていると思っていた取引先の担当者だった。 
 ふうん、と思った。 
 どうやら上司と取引先との間で、私の悪口を言って楽しんでいるらしい。 
 なんて傲慢で馬鹿で身勝手な男なんだろう。
 部下を小間使いのようにこき使い、見積のひとつも自分で作りもせず、いつも深夜まで飲み歩いているせいで、毎朝のように遅刻か遅刻ぎりぎりで、しかもにおいだけでこちらも酔っぱらいそうなくらい口が臭いうえに、常に二日酔いで不機嫌で、朝の挨拶をするとうなりながらにらみつけてくるような男で、外出してくれるとほっとする、つまり私にとってもむかつくおじさんだったわけだが、それを口にしない程度の分別の持ち合わせが私のほうにはあったし、自分の裁量でどうにでもできる部下の悪口を社外の担当者に言って楽しみ、それを本人に見せつけるような真似をするほど私はみじめな人間ではないのだ。 
 とりあえず騒ぎ出しそうになる心をシャットダウンし、何も見なかったことにして、上司には担当者の名前を教えて電話を切り、そして考えた。これは転職するしかないな、と。
 こんなあほな男にここまで馬鹿にされるくらいなら転職するしかない。
 けれど、転職も面倒くさいんだよなぁ。転職活動のことを考えるとぎゅっと胃が引き締まるように痛んだ。
 そのとき、この会社に中途採用されて半年も経っていなかったし、何を早まったのか新卒で入社した旧財閥系一部上場企業は寿退社したのに婚約者と別れたばかりだった。しかも、ちょうどリーマンショックと呼ばれる世界的な金融恐慌が起きたばかりのころで、その中小企業に就職するまでにも、我ながらとてつもない苦労を乗り越えたのだ。たった半年であの苦しい就職活動にまた乗り出すのか? 就職活動ほど、自尊心を傷つけられ、自分の市場価値の低さと自己認識の甘さを突き付けられることはそうそうない。もう一度転職活動をするのと、あの上司を恨みながらいやいや仕事を続けるのと、どちらが楽だろうか。やっと退会したばかりの人材紹介会社に登録をし直す作業をし、仕事の合間を見て採用面接のアポイントを取り、職歴証明書を更新しながら、ぐずぐずと悩み続けていたときに、ふと思いついたのだった。
 あの上司、攻略してやろう、と。 
 仕事内容は面白く、給料もまあまあ、問題は上司だけなのだ。あの男の傲慢で男尊女卑、わがままな性格を変えることは出来ないだろう。けれど、私は私自身を変えることが出来る。乙女ゲームの主人公になったつもりで、あの上司を攻略してやる。根っからだらしのない男で、私が管理しないと見積提出期限も納品検収の〆も守れず、客先提案資料も用意できないのだ。現時点ですでに私がいないことには仕事が立ち行かなくなるような状態なのだから、上司からみたら「口うるさい部下が嫌そうに馬鹿にしながら仕事をやらせようとする」という状態を、「なんでも任せておいて安心な部下がいるので自分は新規開拓営業などやりたい仕事に集中できる」という認識に置き換えてやるのだ。そうすることによって、上司もハッピー、私も上司からの評価が上がり、転職もしないで済み、経済状態が安定してラッキー、いわゆるウインウィン、という状態になるのだから。
 さて、その上司、仮にクラヴィスと呼ぶことにした。 クラヴィスとは女性恋愛シミュレーションゲーム『アンジェリーク』の登場人物で、闇の守護聖様である。『アンジェリーク』は、学生のころにはまって毎日のようにやりこんだスーパーファミコン用のゲームで、正反対の性格をした二人の女王候補が、宇宙を司る時期女王の座を目指すという内容なのだが、大陸を育成して発展させ、女王試験に合格するためにはそれぞれ光、闇、緑、水、風、知恵、鋼、夢、地を司る九人の守護聖の協力が欠かせず、どの力が欠けても大陸は育たないうえに、嫌われると妨害されてしまうし、好かれると大陸に依頼をしなくても力を与えてくれたりするので、女王候補はまんべんなく守護聖に好かれなくてはならないのだ。
 そのため、女王候補は守護聖の部屋を訪ね、会話を重ね、それぞれが好きなものを覚え、何をすれば喜ぶかを見極め、手際よく好感度を上げる必要がある。 そのゲームに実際にはまっていたときは、私は闇の守護聖クラヴィスが大好きだったので、ひたすらクラヴィスの部屋に通いつめ、ゲーム内で使えるポイントをクラヴィスにすべて注ぎ込み、甘い言葉を引き出し、好感度が最高になった相手としか見られないスチル(ミニ特典動画のようなもの)を収集し、ついには女王候補から脱落し守護聖との駆け落ち恋愛エンド、というのを楽しんでいた。大陸を育成して発展させ、女王試験に合格するよりも、女王として宇宙を護るよりも恋愛のほうが楽しいお年頃であったのだ。しかしその結果、好感度上げを怠ったほかの守護聖たちとの好感度はこれ以上もないほど下がっており、好感度ゼロの守護聖と話すと、仮にも世界を護る力を与えられている聖人ともあろうものが、よくもまあそんな人を貶めるような暴言を吐くなあとびっくりするような、現実世界でもそうお目にかかれないような汚い言葉と嫌な表情を向けられるのである。そう、まるで、あの上司のように。
 あの上司をクラヴィス(仮)として攻略することに決めたが、当初からそこには恋愛エンドだけは含まれていなかった。上司は私の一回りほど年上で独身だったので、上司のさらに上の取締役専務や、親しい取引先など、まわりの人々に適齢期の独身同士お付き合いしなよ、と強要されてきた。そういう強要を激しく拒絶したことでなおさらクラヴィス(仮)は私を恨んでいたのかもしれないが、失敗したばかりの結婚になんの夢もなく、しかも取締役専務から「クラヴィス(仮)は独身だから寝坊も多いし、結婚して支えてあげてよ」と公然と押し付けられるような男、願い下げである。なんで仕事をするために入社して、適齢期の独身の女であるというだけで、営業成績はいいが日常生活がままならない男の面倒まで押し付けられないといけないのだろうか? 
 結局のところ、私は大企業をスピンアウトして中小企業に転落した自分を憐れんで、ようやく就職させてくれた会社とその会社にいる人たちと、辞めたばかりの会社との文化の違いを、程度の低さと受け止めて蔑んでいたのだと思う。だっていままで付き合ってきたひとたちと、全然違うのだ。口にすること、ちょっとした習慣、コミュニケーション方法など、なにもかもが違うし、会社の発展のために有望な社員と結婚しろ、と強要されて、こんなちいさな会社でなにをえらそうに、と思っていたし、そもそもそんなプライベートに踏み込むような下世話なことは、大企業ならパワーハラスメントで処罰されてもおかしくないことだ。
 だが、環境も周りの人たちも自分の思った通りには変えられないが、私自身の考え方は変えることが出来る。私が『小公女』のセーラなら、突然貧乏になっても気高く暮らしてさえすればいつか報われるのかもしれないが、私にそんなハッピーエンディングは来ないだろう。でも、報われようが、報われなかろうが、嫌なことは嫌と突っぱねることだけは私の自由でできることなのだ。
 ところで、クラヴィス(仮)は、その要望を先回りして常に準備しておくという仕事の進め方と、日常においては褒めるところが無い日は靴下の柄まで褒めるという私の乙女ゲームの手管によってすっかり骨抜きになり、いままで客先や社内の飲み会でも私の悪口を言って笑いを取っていたところを、「あいつのおかげで楽ができる」というまでの段階まで攻略が進んでいる。
 あの時、「むかつくおばさんのつくった見積送ります」というメールを見なかったら、私は自分を不憫がり、自分が今過ごしている環境を見下して不満をまき散らし、上司を恨んで常に不機嫌な、それこそ「むかつくおばさん」になっていたと思う。でも、そこから自分を変えようとして、周りはどうあれ自分は楽しく過ごす、楽しく過ごすための環境を整える努力をしてきた。 
 とはいえ、きっかけをくれた上司に、感謝するべきなのかもしれないが、なかなかそうはいかないのが現状だ。いまだに頑迷で女性蔑視の発言が多く、歳をとって少しも丸くならない性格にうんざりして、たまに後ろ頭を叩きたくなるが、そろそろふざけて、ぽん、と叩くくらいなら許される程度には信頼関係を築けているのだから、これでもすこしは成長出来ているのかもしれない。

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