emoという感覚
息子が先日、焼肉のタレで焼いたレタスの肉巻きを白飯の上にポンポンとバウンドさせて「味スタンプ!」などとのたまっていた。
素晴らしい発想力だと思った。「味」という言葉も「スタンプ」という言葉も、私はもう三〇年以上前から知っている。しかし、その二つを組み合わせて白飯に味をつけることを「味スタンプ」と表現したこともなければ、そもそも発想すらしたことがなかった。子どもならではの発想だなと感じた。
大人になると、無駄に生きていく上での知識を取り込み不測を敏感に察知する一方で、何かに鈍感になっていく。私は文章を書く仕事をしているのに、きっと最近やっと「こくご」という教科に触れた息子よりもずっと、言葉というものに関する感度が低くなってしまっているように思う。
大人になると、気付かぬうちにあらゆるものを忘れてしまう。それは単なる記憶のこともあるし、感情のこともある。大人になった私には、もうかつてのように湧き上がることがない感情、というものがあるのだ。
少し前のことだが、私はローソンにいた。なんのために入ったのかは覚えていないが、とりあえず、レジ横にあるからあげクンを購入しようと思い立つ。
お茶やアイスの入ったカゴをレジにおもむろに置いて、レジのお姉さんに私はこう言った。
「ファミチキください。」
たしかにそう言った。お姉さんは一瞬怪訝な表情をしたが、「Lチキですか?」とお茶目な表情で聞き返してくれた。違う。Lチキですらない。私はからあげクンが欲しいのだ。
とんでもない間違いをした。鶏肉で揚げ物という共通点だけを持った、形状すら似通っていない、しかもライバル企業の大人気商品の名を平気で口にしてしまうなんて。
しかし、私は挫けない。普通に「えへへ」なんて雰囲気を出して、
「すみません、からあげクンでした。チーズとレモンで。」
そう、お姉さんの茶目っ気ある表情とテンションを合わせるように、お茶目さを演出して言った。
「あ、そっち側から自分で取れます。」
お姉さんは、やはりお茶目な笑顔でそう返してきた。
なんてことだ。昨今のローソンは、客側からケースを開けてからあげクンを直接カゴの中に入れることができるらしい。それを知っていれば、私はわざわざ「ライバル企業の鶏肉商品があまりに偉大すぎる」ことをローソンのレジでうっかり示さずに済んだのだ。
「あ、そうなんですね! あ、へぇ〜!」
なんて感嘆の声を漏らしたくらいにして、私はにこやかにからあげクンをケースから取り出した。さて、蓋を閉じるには……ああ、テープはこれか、とケースの下の方にあったテープ台に手を伸ばした。
「あ、蓋はこっちでします。」
お姉さんが笑顔で、こちらによこしてくれとばかりに手を伸ばした。どうやら、客側ができるのはからあげクンを取り出すという工程だけらしい。あのテープ台の存在意義は?
商品がレジを通る様子を虚に眺めながら、考えていた。なんだか大切なものを私は失ってしまった気がする、と。
この「ローソンのレジで自信満々にファミチキ事件」を、中学生の時の私が起こしていたらどうしていただろう。きっと、いくらお姉さんがお茶目に笑ってフォローしてくれても、顔を真っ赤にして口数少なく口籠ってしまっていただろう。「Lチキですか?」と聞かれて、本当はからあげクンが欲しいのに、「はい」と返事をしていただろう。お茶目な反応など、しようもない。
今の私は、すでに何か大切なものを失ってしまった後の私なのだ。
私が思いつく限り、私にもう湧き上がることがなさそうな感情がもう一つある。
高校三年生の時、英検だとか漢検だとかそういった資格を一切取得していなかった私は、同じクラスの友達、Aちゃんとともに英検の二級を受けることにした。
Aちゃんと私は授業中にうんこがしたくなるタイミングがことごとく同じで、いつも二人で「先生、トイレ行ってきていいですか?」「私も」と挙手して、二人で職員用トイレに籠るということをやる仲だった。授業中なのだから、生徒用のトイレでも誰かがトイレに入ってくるなんてことはほとんどないのに、「やっぱ職員用トイレ、落ち着いてうんこできるね」「うっかりおなら出ても誰も聞いてないしね」などと、今思えば、お互いに排便音を聞かれるのはいいのか? という疑問が残る会話をしながらうんこをしていた。
そんな私とAちゃんは、晴れて二人とも英検の一次試験に合格した。二人で、当時担任だった英語教師のT先生から「受かってたわよ」と、極めて興味のなさそうな口調とともに通知を受け取った(T先生は我々の親くらいの年齢のおじさんだが、口調がオネエになることがあった)。
会場はどこだか一切覚えていないが、休日に二人で学校の制服を着て、二次試験に向かった。
英検の二次試験は、試験官と英語で会話したり、質問に対して受け応えしたりする試験だったと記憶している。一次試験はAちゃんと試験会場の部屋も一緒だったが、二次試験は当たり前に一人ずつの面接だ。
「どうする?」
面接を待つ間、私はおもむろにAちゃんに聞いた。
「ね。どうしよう。」
Aちゃんは私のおもむろな質問になんの疑問も持たず、言葉を反復する。私たちの間で、何についての問答なのかは明白だった。「全然対策してねぇ」「それな」そういうことだ。
「てかさぁ、先生も何もしてくれなかったし。担任なのに。」
「わかる。ちょっとくらい練習とかしてくれても良くない?」
私たちは、自分たちが試験対策をしなかったことをT先生に責任転嫁した。「私たちが二次試験対策を怠ったのは、一緒に練習してあげようと提案してくれなかったT先生のせいだ」そう、心の底から思っていた。女子高生の理不尽さは怖い。
「二次試験落ちるとかやばくない?」
「クラスで英検受けたのうちらだけじゃん、絶対バレる。」
私とAちゃんは、なぜかクラスの皆に「あの二人は英検の二次試験で落ちたらしい」と言われることをやけに懸念していた。大人になればどうでも良いことだが、当時の私たちには変なプライドがあった。別に、クラスで成績上位だったわけでもない、皆から「あの二人が今更の英検!? 屁でもないでしょ」なんて思われていたわけでもない。きっと落ちたところで皆、「へー残念じゃん!」と反応して終わりだ。私とAちゃんの中には、落ちる自信と中身のないプライドだけがあった。
そんな会話をしていると、受験番号が呼ばれる。先に呼ばれたのは私だった。「えーん、どうしよう〜」みたいな素振りをAちゃんに送りながら、面接の部屋のドアの前に立つ。
ドアは引き戸だった。ドアを開けて中に入る時、私は「失礼します」と日本語で挨拶した。心の中で、「日本語でいいのか? でも『失礼します』の英語知らない」と考えながら。
顔を上げて、試験官の座る長テーブルに目をやる。T先生が老眼鏡を下げて私の顔を見て、笑っていた。目つきで「サプライズよ」みたいな表情をしていた。
私は緊張の糸が切れてしまって、不覚にも私は泣きそうになってしまったのだ。
面接でT先生に対して、どんな受け応えをしたのかは覚えていない。しかし、思ったよりもずっと上手に喋ることができたことは覚えている。面接の部屋を出た瞬間、Aちゃんに向かって、私の顔を見た時のT先生と同じ表情をしたことも、覚えている。
たかが英検の二次試験で担任の先生に会ってうるっとするくらい、心細さを感じるほどだった私が今では、週に五日、それぞれ毎日初対面の人と仕事をすることがある。知り合いがいなくて心細いなんて微塵も思わない。図太くなった。もうあの時の、T先生の顔を見た瞬間の感情を湧き上がらせることは、人生においてないと思う。
ローソンから帰って、袋の中の商品を全てテーブルの上に出す。からあげクンのレモン味しか、袋には入っていなかった。あのケースの中から、チーズ味を取り出すことを忘れてしまったのだ。
私はどうも、わずかながらに、自分自身のファミチキ発言に動揺していたらしい。なぜか私はホッとしたのだった。
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