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「良かれ」が「良かれ」じゃないことに気づく

「良かれ」で生きてきたみかんです。

きっとこの人にとって良いだろうと思うから、やってあげる、声をかける。

だけどそれはその人にとって良いとは限らない。

だから良い反応のときもあれば、微妙なときもある。

それなのに、相手に良い反応がなかったことに、私はいつしか落ち込んでしまうようになりました。

良かれと思ったけど、良くなかったという現実を受けとめられなくなっていました。

それは多分、承認欲求が強まっているからで、自分をありのままオッケーできてないときだったりします。


だから「良かれ」、簡単に手放せません。

が、手放したいと思っていると、手放せるタイミングがいつかやってくるんですね。

そのままにしてしまうと、フワーっと浮いて、消えてしまうので、記録しておきます。


「良かれ」はその人の価値観

私ね、母の「良かれ」を受けとめて生きてきました。

だから母と同じ世代や、祖母世代の「良かれ」がわかるし、「良かれ」交換もスムーズにできます。

だからかな、仕事でもあんまりコミュニケーションに困ることはありません。

お互いに良かれと思って過ごし、そこに不一致感が少ないんです。

一般常識とか、世間的とかで括ってしまえば、考えなくてもコミュニケーションって取れるんですよね。


人の「良かれ」を受けとめることに、母との生活ですっかり免疫がつきました。

そこに「私」という人間は必要なくて、素直にありがたがるとwin-winだったりします。

そう思うと意外と社交的なコミュニケーションって薄っぺらですよね。

だけど、その薄っぺらな中にその人らしさがちゃんとあって、それが伝わってくる、それが楽しいなぁと思います。

決まったやりとりの中にその人らしさがある、それが程よくて、心地よいんですね。


私はその心地よさが好きなので、あえて強い自分は必要ないって思ってました。

自分をしっかり持たなくても、いやむしろちょっと流されるくらいが平和で、執着も起こらず、フワッと程よい関係でいられる気がしてました。

うん、だから、私は今の私なんです。

そんな価値観。


ところが、夫とはいろんな感性が近くて、気兼ねなく一緒にいられて、話すのも楽しくて、性質は真逆だけどお互いの価値観を尊重できるのだけど、「良かれ」の感覚は全然違っていて。

お互いにお互いを思いやっていたのに、全く通じない。

でね、つい最近、夫が教えてくれました。


夫「『良かれ』は良くないって実感したのは、みかんちゃんと付き合い初めの頃だったかな。

 オレの『良かれ』が全然『良かれ』にならなくてね。

 あはは。

 今となってはいい思い出だけど、それなりに悩んだよね。

 で、『良かれ』は押し付けなのかもしれないなって思ったから、もうしないことにしたよね。」


なんと!

「良かれ」卒業に関与していたのは若かりし頃の私でした(笑)


今は価値観も多様化しているのだから、「良かれ」ってもう通じないんですよね。

ただ、「良かれ」と思ってすることは、相手のことを想ってのことだから、その気持ちは受けとめたいなぁって思います。

うん、それくらいの程よい感覚でいいんじゃないかなぁ。

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反応することも「良かれ」だった

例えば、子どもの時にプレゼントをもらうとするでしょう?

嬉しくても、無表情だったら伝わらない。

それどころか、大人たちはいい反応がないことを残念がったり、ショックを受けたり、逆ギレしたりします。

今思うと勝手なもんだなぁと思うけれど、親になった今の私も、やっぱり表現の少なかった長男には不安になることが多かったです。

長男に気持ちを知ったり、理解したり、したかったからなんだけれどね。


話は戻って、子どもの頃、そうね、幼少期かな、大人の反応を見ていて、ちゃんと素直に反応した方がいいんだな、ネガティブな反応は避けた方が良さそうだな、と学びました。

で、私はどんどん反応上手になりました。

ややオーバーめに喜ぶと大人も安心したり喜んだりしてくれます。

そう思うと、結構気を遣ってた子どもだったのね、私。

「反応することが良いこと」つまり、それが「良かれ」だと思ってきた私はそのまま大人になり、子どもが産まれて、それが「良かれ」では全然ないことに気づきました。

私のややオーバーめなリアクションが、繊細だったり、刺激に弱い息子たちには強すぎたんですよね。


それでもなかなか素直なリアクションを手放さずにいた私。

やっぱりね、社会に出ているとリアクションが素直な方がコミュニケーションが上手くいくんですもん。

この方には刺激が少ない方がいい、という方もいらっしゃって、それは話せばすぐにわかるので、初対面の方には静かに丁寧に話し始めて、相手に合わせて少しずつ話し方を変えていくことで対応できました。


仕事はね、人にそこまで執着しないのでいいのだけれど、子どもとなると違いますね。

どうしても「良かれ」がバンバン発動されます。

話しやすい雰囲気がいいんじゃないか、

笑顔はあるだけいいんじゃないか、

とグイグイ私が距離を詰めると、あっという間にひかれてしまってね、人によって「良かれ」はホントに違う、と実感している毎日です。


でね、ふとInstagramでこんな言葉に出会いました。


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安易に共感し、気持ちを煽ってくるような人…ああ、それ、私じゃないか、と。

私は共感されると嬉しいし、一緒にテンション上がってくるとつい興奮してしまうけど、それも楽しいし、スッキリするからいいかなって思ってました。

私がいいから、他の人もいいだろうと単純に思い込む、私の昔からのクセです。

そうか、愚痴大会で負の感情が増幅するって、スッキリにつながらない人もいるんだな、と。


まぁ、そうやって考えていくと、私が今まで人と関わろうと思うときって、「良かれ」なんですよね。

「良かれ」がなくなったら、私、あえて自分から人と関わろうとなんて思わないなぁ、という自分の心の中を知れた気がしました。

子どもたちとも、親が積極的に関わるのが「良かれ」と思うからで、それがなかったらもっと私は静かな親なのかもしれません。

で、静かな母親はダメだって思ってるから(←なぜ?)、私はうるさくてうざったい母親になっちゃうのかもしれないですね。

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「良かれ」からの卒業宣言

以前、「一生懸命からの卒業」をnoteでしたことがありました。

これ、結構反応が良かったんです。

そして、私も何度か読み返すことで、だいぶ卒業できてきました。


で、今日は「良かれ」からの卒業ですね。

今まで私の行動のキッカケをつくってくれた「良かれ」に感謝しています。

この気持ちがなかったら、私はもっと一人の世界で生きていて、人との関わりをここまで楽しめなかったです。

だから「良かれ」は決して悪者じゃない、心からそう思います。


だけど、多様性が大切にされ、いろんな価値観や考え方があっていいという世の中に「良かれ」は時として人と信頼関係を築く上でマイナスになることもきっと多いんじゃないかな、と思います。

先日、同じ3人の男の子ママが離婚をして、そこまで仲良くなかったけれど、飲みに行こう!なんて誘っていろいろお喋りして…結局アレも「良かれ」であって、余計なことじゃなかっただろうか、と思う気持ちが手放せません。

「良かれ」から動くと、相手の喜ぶ姿や感謝の気持ちを期待してしまうんですよね。

だから「良かれ」を行動のキッカケにしていると、行動後に悩んでしまう…良かったのだろうかって。

だからね、「良かれ」を卒業したあとは、「私がこうしたいから」で行動しようと思います。

私の気持ちを大切にするんです。

そうすれば、行動後の相手がどうであろうと、私がそうしたかったから、で済むし、相手の気持ちと自分を切り離して考えられる気がします。

それは相手の気持ちを軽視するってことではなくて、自分を尊重し、相手も尊重する、つまり「そのままを受けとめる」ということにつながるんじゃないかしら。


相手ありきの自分では、もうやっていけない、限界だってところまで、私はきているなぁって思います。

良くぞここまで頑張ったね、私!

本当のことは相手にしかわからない、そんな相手ありきの行動をするのは卒業。

自分ありきな行動にシフトしましょう。


子育てだって、母親としてこうでありたいから、こうあってほしいから、で動けばいいんですよね。

仕事でも同じ。

こうありたいから、で行動する。

結果、うまくいかなかったり、温度差が生まれたら、そこで向き合うようにすればいいわけで。


私はいつでも心地よい時間を過ごしたいし、心穏やかでいたいです。

「良かれ」をすることでそういう時間を得るのではなく、そのままの自分で、その感覚を大切にする方向に舵を切ろうと思います。

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