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捉えている視点が高くなっていく感覚

一般のレールからはみ出てしまう我が子たちと日々過ごしながら考えていること。

どんなふうに自分と向き合いながら、世の中に自分の居場所を見つけ、自立した生活をしていくんだろう。

それを親としてどう見守っていくか。

親がサポートした方がいいところと、自分で試行錯誤しながら乗り越えていくところがあるから、何でも親がやればいいってもんじゃない。

だけど親だもの、子どものために何か役に立ちたいとも思う。


今、親の私ができること。

自分の中の古い価値観の自覚し、意識を変えること。

今の世の中を感じ、未来を考えること。

子どもたちが気持ちや考えを伝えたいと思える親でいること。


そんな意識をしながら日々過ごしていると、そんな私を高めてくれるような情報が入ってきたり、教えてもらえたりする。

自分の見ている世界を越える視点をもらえると、今の自分からもう少し進める感覚が得られて、世界の捉え方が変わる。

この捉え方の変化が、自分を軽くし、生きるエネルギーにも変わっていく。

そんな感覚を言葉にしたい。


自分の想いや感覚の代弁者

子育てしながら感じるのは、誰も自分の思うようには動かないということ。

当たり前なのに、とても違和感があったのね。

何でだろう?と自分に向き合うと、私は母親の言うことをよく聞いて、母親の理想に沿う形で生きてきていたからだった。

そうすべきなんだと思い込んでたのね、なぜか。

先生や親の言うことをよく聞いてまじめに取り組むことが、生活の安定や幸せな人生につながるって。


自分の考えをしっかり持って生まれてきた、私の3人の息子たち。

私の言う「これがいい」なんて、誰も賛成してくれないのね。

まぁ、いいのよ、それは。

ちょっとさみしく感じるけど、それだけ子どもたちはそれぞれが自分を大切に生きてるんだって思うから。

それでも、私が考えてることを時々言葉にしてるんだ、子どもたちに。

私はこう考えて生きてるって。


私「ママはね、ばぁばや先生の言うことをよく聞いて、勉強を頑張って、いい点数を取って、自分で高校や専門を選んで、資格を取ったのね。

 良かったのは、やりたい仕事を選んだからずっと楽しく続けてこられたこと。

 だけど、勉強するのが大事!って思いすぎて、自分の気持ちを置いてけぼりにしちゃったから、今でも自分の気持ちのバランスを取るのが難しかったりする。

 上手くいかないとイライラしちゃったり、落ち込んだときにどうしたら自分を保てるか、なんてことが苦手でね。

 あとは好きなことがよくわからないなぁ。

 もっと好きなことをする時間を作ってこられたら良かったと思うよ。

 生きていくために必要ことっていっぱいあって、学校の勉強だけじゃないよね。

 自分の気持ちと向き合うことだったり、生活をしていくために必要なご飯や睡眠、運動を適度にやれていたり、自分が生きていくためのお金を稼いだり、好きなことを続けることだったり。

 ママはそういうことあんまり考えずに大人になっちゃったんだけど、今、やっといろいろ考えるようになってね、一緒に勉強させてもらってるんだよ。」


そうやって話しながら出てくる言葉って、私のあり方がにじみ出てくるものなんだなぁと感じてる。

大切に思ってることや価値観、生き方。

ママのようにはなりたくないなぁと思うのもひとつの価値観だから、そういう部分を感じてもらってもいいのだけど、この人はこんなことを考えてこんなふうに生きてるのか、と、ひとりの人間の生き方として感じてもらえたらなぁ、なんて。

こうすべきで、こうしたら幸せな生活が送れる、っていう価値観の押し付けじゃなくて、私はこうして生きてるっていうね。

それを聞いて、自分はどう生きていこうかなって考えたりするかな。

素通りしちゃうかな。

いいのいいの、人は必要としているタイミングじゃないと、言葉って沁みていかないものね。

私は私で人生のアップデート、楽しもう。


でね、こうしてnoteに自分の想いを言葉にしてるでしょう?

それを読み返すとね、自分の言葉に自分で励まされることもあるんだけど、ちょっと自分固いよね…なんて思ったりもしてね。

固いんだよね、ホント。

私の両親もおカタイけどね、ゆるんでるところはとーってもゆるんでたりするの。

私もゆるいところいっぱいあるんだけどさ、仕事とか子育てってなると、なんか責任を感じるからか、お固いスイッチが入っちゃうのよね。

丁寧とか、誠実に向き合うとか、その辺は大事だと思うんだけど、こうした方がいいかな?とかどうしたらいいのかな?とか考えちゃうところがマジメなんだよねぇ。

なんかそんなことを考えてた折に、いつも私にピッタリの言葉や動画を選んでくれる、定年のおっちゃんねるさんが、またまたピッタリの動画を紹介してくれましたー!!

それがコチラ↓




東大の中邑(なかむら)先生。

私は数年前に長男の主治医から紹介してもらったことがあったんだけど、何て読むかわからなくて検索に戸惑ったから、一応読み方も(え?読めちゃう?)。

はみ出しっ子のひとつの居場所として、中邑先生はいろんなチャレンジを企画してくれてるのね。

そもそも人が苦手な長男にはこのチャレンジへのハードルは高いけど、うちだと「きのこと危険生物と爬虫類と細菌の博士」な次男には合うかもしれないなぁ、と思いながら数年。

(息子はギフテッドではありません、念のため。中邑先生も動画でおっしゃっているけれど、何かの期待を込めてギフテッドという言葉になっているような感覚が私にもあるので、この記事でははみ出しっ子と表現します)

中邑先生が気になりつつもYouTubeで探すとか話を聞いてみるという視点がなかった私。

それがおっちゃんねるさんの紹介で、ついにご対面!(画面越しで一方通行だけれど)


もうね、感動!!

それに尽きる。

はみ出しっ子を育てているママたちならわかる。

頭の隅にはあるんだけれど、社会のルールや常識に負けて、なかなか言葉にできないたくさんこと。

それを代弁してくれていてね、うんうん、そうなの!と頷いちゃうと思うし、背中を押された気持ちにもなると思う。

また、気づかなかった視点にも気づけたりね。


私は「あ、もっと私がゆるく考えて、子どもたちのやることや考えることを一緒に楽しんじゃえばいいのか」と気が抜けたかな。

メッセージの受け取り方はたくさんあると思う。

私は自分がイエスマンだったから、こんなふうにぶち破ってくれる人の言葉がないと、つい自分の子どもにも私の生きてきたレールに乗せようとしてしまう。

だからすごく心強かったし、私もイエスマンを卒業したいなって感じたし、こんなふうに自然と考えられるようになりたいなって思ったよ。


子どもたちとは、こうしたらいいんじゃないか、じゃなくって、どう考える?って一緒に考える姿勢、大事よね。

あとは、一緒に楽しんじゃうとかね。

それに、何事もなるようにしかならない。

でも見えない力が働いて、思ってもみない方向に引っ張られていくことだってあるだろうし。

正解とか着地点を決めないって必要ね。


特別にしない

あと、この動画で印象的だったのが「期待しすぎない」ってやつ。

ホント、そうだなぁって思う。

親ってどうしても子どもに期待しちゃうから、例えば人より劣っている部分があったとしたら、人よりも優ってるところを探して過剰評価してしまいやすかったり。

私も長男のことを「人より苦手が多くある分、得意な部分で輝いてくれ!」って勝手に期待してるところがあったと思う。

そういう想いこそ、長男にプレッシャーを与えたり、生きづらさにつながるんじゃないかな。

何者かにならなきゃいけないような焦りとか。


光り輝きそうなところを見つけると、そこで輝いてほしいって思ってしまうのが親心であり、つい抱いてしまう期待感。

輝いたとしても、輝かなかったとしても、原石を磨く過程を本人も家族も楽しめたらいいのだよね。

期待を手放し、そのままを楽しみたいね。


見守る人間の頭が固かったり、環境から感じるストライクゾーンが狭いなぁと感じるとき、本人はやりにくいし発揮しにくいよね。

社会ってそんなもんだし、こっちだって社会のニーズを感じてそれなりに満たす義務がある、なんて私は考えてきちゃってたけど、それと子どもの成長は別ものよね。

可能性は無限大。

狭めるのは周りの環境なんだよね。


実は私、最初に就職した職場で革命を起こしたことがある。

つい最近まで、その革命によって悲しんだ人の気持ちを思うと、やりきれない気持ちと若かりし自分への後悔の念が湧いてた。

でも現実は、私の行動と組織の上の人たちの決断があったから、その職場は大きく舵を切って今があったりする。

上手く使われたんだと考えたこともあったけど、必要不可欠なタイミングだったんだと思う。

その口火を私が灯しただけだったんだって、今は思い直すようになった。

いくら私が思って動いても、タイミングでなかったらそう簡単に現実は動かないと思うもの。


今、教育は大きく変わるときに来てるよね。

定年のおっちゃんねるさんの言葉からも、それはヒシヒシと伝わってくるし、そこへの期待も大きく感じる。

この情報社会だから、そのタイミングがきたら一気にくつがえるような、そんな気さえする。

なんかワクワクするね。

私もそういうウェーブを起こすひとりの人間でありたいな。

なんかそんな気持ちが湧いてきたよ。

私だってさ、親がガッチリ教育しなかったら、今頃はみ出しまくりだったと思うし。

だから今からは、

「はみ出さないような人生を続ける」

んじゃなくて、

「どうせはみ出るなら子どもの未来にいい影響力」

を与えるひとりでいたいなぁ。


新たな気づき

以前ね、はみ出しっ子の子どもを支援するコミュニティにいたことがあって。

そのリーダーはね、目の前のママを通して子どもを見てたの。

私はね、そんなコミュニティにいてすごく違和感でいっぱいだった。

自分の子育てを助けて欲しくて入ったのに、私を応援してくれたりサポートしてくれたりしないのはなんでって。

頑張ってる私が置き去りにされて、子どもたちがフォーカスされてる。

こんなに頑張ってるのに、まだ頑張らなきゃいけないの?

なんか違う!って思っちゃった。

頑張ってるママは素通りなの?って。

もっと共感してほしいし、大変な子育てを分かち合いたいって思ってた。

もっと言うなら、もっと自分を満たしたいのに、子育てするにはエネルギーが欲しいのに、エネルギーがもらえると思って入ったのに、満たされないこの感覚はなんなの?って。 


それができないコミュニティには在籍し続けられなくて、距離を置くことにしちゃった。

つらくって。

今ならわかるよ、まずは自分で自分を満たせないステップにいたから、子どもを満たすことに没頭できなかったんだって。

エネルギーが足りなくて。

だからエネルギーが必要なはみ出しっ子の子育てを頑張る「私」を満たして欲しかったのね。

でもそれは自分でやらなくちゃ。

コミュニティから出て、そう私は決意してnoteにきたんだ。


長い時間かかったけど、今やっとその自分の心の動きがわかった。

リーダーは子どもたちの未来を見てたんだね(言葉では知ってたけど、その意味合いで伝わってこなかった)。

子どもたちの未来を明るくするために、ママたちを教育してた。

だけど私は教育されたいわけじゃない、共感し合ったり、応援して欲しかったから違和感があったんだ。


そうやって振り返って、自分の違和感や悲しさ、悔しさを認めていくと、少しずつ自分の目線が上がっていくのを感じる。

少し高い位置から自分を見られるようになってきて、世の中や子どもたちを見る視点が変わってきた気がする。

自分のための未来さえ描けなかったのが、自分らしい未来が描けるようになってきたら、子どもたちの未来を考える余裕が出てきたという感じかな。

子どもの未来については今までも考えてきてるけど、どこか私の気持ちを満たすためのような、感覚を満たそうとしている感じが否めなかったのよね。


小さな変化のようでいて、自分の中ではとてつもなく大きい。

変な例えだけど、ゲーム感覚で自分の未来と子どもたちの未来をイメージして、楽しもうとしてる。

必死になってるときよりも肩の力が抜けて、現実を大きな視点で見られるような目がある。

この感覚が大事なのよね。

これが自分を満たした先にある「人の成長を楽しむ視点」なのかなぁ。

つまり、子どもが自立させることが親の責任だから全うしなくちゃとか、子どもたちが立派に育ったら親の私は鼻高々とかそういう感覚とは違う、自分の気持ちとは切り離した先にある感覚というイメージというか。


フォーカスの調節

ADHDはシングルフォーカスになりやすいって言われる。

視野が狭いとか、全体よりも細部に注意が向きがちとかそういうね。

まぁ、そんな自覚はなんとなくあったよ、自分で。

でもそうじゃない見方ってわかんなかったのよ。


それがやっとわかったわーー。

こう、現実をスススーッと遠ざけて、全体を見る感覚。

この感覚が必要なときってあるのよね。

で、いろんな角度から吟味する感じ。

RPGのゲームで、プレイしてる人の目線に近いかなぁ。

RPGが得意な人って、きっとこの「遠くから全体を見る」ことが得意なんだろうなぁ(私はゲームが苦手で、やるならパズルゲームくらい)。


私ね、目の前の物事にガチッとフォーカスする感じなのね。

近くのものはめちゃくちゃいろいろ見えるよ。

細かいことにすごくよく気づくし、何をどうしたらどうなる、みたいなことも見えるし、どんどん動ける。

それが必要なこともあるんだけど、遠くから全体を見る目が必要な局面もあるのよね。

なんかそういう感覚がいつも以上に降りてきた。


「鳥の目、魚の目、虫の目」

こんな言葉があるけれど、多角的な見方をする、フォーカスを変える、物事をいろんな見方で吟味できるって、人生が深まるね。

そう、深い。

表面的、とは対極にある。


私ね、思い起こせば、深みのある人に会いたいってずっと思ってきたかも。

女性らしい「着飾る」ことを楽しむよりも、いろんな人と和気あいあいと楽しむ時間よりも、深みのある話をする人との出会いを望んでた。

目の前の現実をいろんな見方で吟味できて、うむうむって納得して、実際には何にもしない人。

長老?

私にとっての長老、みたいな人がいたらいいなって思ってたなー。


あ!だから私は小さいとき、かなり奔放だったんだなー。

気がつくと知らない人と話してたり、知らない場所に出かけていってたり。

学校の先生とも話したくて、放課後残ったり、例えば社会科準備室に入り浸ったり。

そうやって出会ったいろんな大人の人たちがいてくれたから、今の私があるんだろうなぁ。

私は大学に行きたかったんだけど、それは私にとっての長老を見つけに行きたかったのかも。

それが自覚できてなかったから、親を説得できなくて、大学は反対されちゃって、手に職の道に進んだんだけどさ。

私が学びたいと思う原動力のひとつは、長老探しかぁ。

今風で言うとメンターとか?かな。


今は雲の上の人も気軽にネット上で出会える。

生の声を聞ける。

すごい時代だよね。

情報過多で振り回されちゃうから、距離感が難しいと思ってたけど、自分にとって価値ある使い方ができたらいいんだね。

私にとっては「長老探し」のツールかもしれない。


なんか、そんな自分も発見して自覚できて、この記事を書くことで「私らしさに戻っていく感覚」も得られて嬉しかった。

自分と向き合う時間が本当にスキ。


サポートのお気持ちがとっても励みになります😊✨その幸せの気持ちを他のたくさんの方へつなげていきたいと思います🎶