HSPと自己表現
ニュースアプリで通知をオンにしているからか、携帯のnoteで言葉をつづっていると、私が気になりそうな記事をピコン!と勝手にお知らせしてくれる。
テレビは受け身なメディアだけど、ネットは自分から検索するから自発的に利用するメディアだ!と思っていたけど、今はそうでもないらしい。
振り回されないぞ!と思いつつも、気になるトピックはついクリックしてしまう。
今朝はこんな通知に目が奪われてしまった。
最近の私にはタイムリーな内容だと思ったから。
ここでは、この記事に対する自分の気持ちを言葉にしたい。
記事を読んでハッとしたこと
今の私にとって、自己表現の場はnoteなのね。
この記事に書かれているように、仕事でそれを実現できたらそれはとてもありがたいことだと思う。
中高生で自分のその特性に気づき、自分に合う世界は何かと考えられたら、そういう道に進めたかもしれない。
だけど、40代の私が学生だった頃は自分の特性を知るよりも、敷かれたレールにどう適応していくかの方が重要視されていた時代。
進路選択や職業選択、就活の際に少し自分について深掘りするくらいで、感覚的に自分と向き合うにはほど遠かったし、知るためのツールも今ほどなかった。
まだ若かったら大きく舵を切ることも可能だと思うけど、医療専門職一筋で18年の私が今更何ができるだろう。
医療の世界はある意味特殊で、企業のような組織が強くあるわけではない。
大きな病院や施設では、しっかりとシステムが出来ているところもあるけど、実際の働く現場では患者さんや利用者さんと1対1であることが多いし、プロとして仕事の裁量は任されている部分が大きい。
ある程度自分でさじ加減しつつ、大きなルールや方向性は遵守し、チームで動くところでは協力し合い、私にとってはバランスの良い場だった。
企業と違うのは(って勝手に思ってるだけかもしれないけど)基本的にみんながプレイヤーなので、マネジメントは苦手な人が多いと思う。
素質としてマネジメントが得意な人やマネジメントを学んだ人がいると、組織がだいぶ違うなぁという実感はある。
そんな医療の世界でHSPな私がずっとやってこられたのは、ある部分では「鈍感さ」を発揮していたからだと思う。
いや、もしかしたら「自己理解力」が低かったからかもしれない。
刺激に毎日揺さぶられながらも、その意味を深掘りすることなく、「目の前の人の役に立ちたい」という想いでひたすら打ち込んでこられた。
ところが、子育てで行き詰まって「自分を大切にすることが大事」ということに気づき、自分を深掘りするようになってから、世界は一変してしまったように感じてる。
今まで「鈍感さ」を発揮してなんとかやってこられた部分でも、その意味がわかるようになってくると、そこで選択を迫られる。
「鈍感さ」で乗り切れる年齢でもないのだから、向き合うしかない、と思って、置かれた状況をただただ観察して、自分にできることをこなす日々。
そんな中でHSPの記事を読んで、私は自ら自分に合わない世界を選択してしまったのか?なんて想いに駆られてしまったのね。
40代の私にできることは?
仕事をしてきた18年はがむしゃらだった。
5年目からは子育てとの両立にも奮闘してきた。
もっと学びを深めてから妊娠に踏み切れていたら…とも考えたけど、当時はそうしたかったんだから仕方ない。
これが私の働き方だったんだと思う。
3人の子どもに恵まれ、なおかつ好きな仕事も続けてこられたんだから幸せなんだ。
でもその陰ではかなりの努力と葛藤があった。
もう一度やれと言われても、もう出来ないと思う。
方向転換しようと思ったのは、三男の発達の遅れを指摘されてから。
上の子たちにも発達の凸凹や特性はあった。
でも三男は凸凹に加えて遅れもある。
同じように仕事をすることは難しいかもしれないという予感があった。
オンラインで自宅で仕事をすることに方向転換できないものか、と考えて、新たな世界に足を踏み出したのが3年前。
そこで私が向き合うことになったのは、自分自身だった。
できると思って足を踏み出したのに、できなかった現実と向き合う必要があったから。
資格職で働く今は、採用された瞬間に仕事は用意されていて、働けば収入は得られる。
でも自分で仕事を作り出すには、自分でカタチを作る必要があった。
想いがあっても、形にできないと仕事にならない。
私には医療専門職としての知識と経験しかなかった。
発達凸凹の子どもたちの子育ての経験もあったけど、あくまで私なりの経験。
それを研究してカタチにしつつ、自分の専門も活かせる仕事を選んだのに、なぜか向き合えない自分にびっくりした。
精神的な自立ができてない…そこに引っかかる初めての経験だったと思う。
そこからは自分と向き合い、何をすれば生活のバランスが良くなるのかを模索してる。
この記事を読んで納得できたのは、昨日、私にとってはnoteが自己表現のツールで、そこで自分を大切にできるからリアルな生活でのメンタルバランスを維持できているように実感したばかりだったから。
自分にとって安心安全な自己表現の場があれば、うまくバランスって取れるのかもしれない。
そういう意味では、仕事って安心安全ではなかったりするし、「仕事以外の場で安心安全な自己表現の場を作る」、これが40代の私でもできることかなって考えたよ。
仕事よりもリスクは低いよね。
私、noteで自分をさらけ出して例えばアンチコメントをもらったとしても(今までもらったことはないけれど)知らない人だし、会わなきゃいけない人でもないし、顔を合わせ続ける人でもないじゃない?
だからめちゃくちゃショックは受けると思うけど、自分のメンタルさえフラットに戻せれば、生活の場で自分に害を及ぼしてくるわけではない。
なんて言いつつ、やっぱり残るよね。
特に図星だったりすると深く刺さると思うけど。
でもでも、それで仕事がなくなるわけじゃないし、「私の言葉もこの人の図星に引っかかってつらかったのかもしれないね。」と捉えれば、距離も置ける。
そもそも攻撃的な言葉を発する人は、そういう表現でしか人とコミュニケーションを取れない人だったりもするし、表現のバリエーションや人との温かい交流を経験してこられなかった人かもしれない。
とにかく関わらなくても良い人。
そこが仕事とは違うから、私はむしろ気が楽かもしれないな。
自己表現の場は、リアルとは違う世界に持っている、その方がバランス取れるかも。
私らしいバランスの取り方で生きれば良い
今は考え方がとっても多様化しているけれど、それだけいろんな感覚や考えを持っている人がいるってこと。
いろんな人の考え方を聞いて、じゃあ私はどうしたい?何があってる?と自分に問いかけるひとつのツールとして活用したらいいんだ。
この記事と向き合うことで、情報との付き合い方に関しても、私なりにひとつの線が引けたと思う。
情報は自己選択を促すひとつのツールだよね。
自分の生き方を否定する材料にしなくていい。
自分の無知を後悔するツールにしなくていい。
自分の足りなさを自覚するツールにしなくていい。
自分の心をざわつかせるツールにしなくていい。
正解を探すツールにしなくていい。
あくまで自己選択を考えるひとつのツールでしかないんだよね。
最初はこのHSPの記事を読んで、私はそういう選択をしてこられなかったからなぁ、って落ち込んだ。
40代の今からでもやれることはあるのか?と考えるしかなかった。
だけど、18年やってこられたことにも意味があるし、この仕事が好きだ、と思う瞬間は今でもたくさんあるわけで。
この記事が伝えるように、自己表現の場は必要だと思う。
だけど仕事じゃなくてもいいよね、私にはnoteがあるよね、と最終的に結論を持ってこられた。
私は私なりに葛藤する中で自分なりのバランスの取り方をちゃんと模索してきてたんだって思って、「私なりのやり方」を言葉にできて良かったな。
こうして自分の選択を自分で肯定できたり、「自分にとって良い」を見つけていけたらいいんだよね。
私はnoteで自己表現を楽しむ!
自分の中でひとつ軸ができたみたいで嬉しいな。
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