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大人の私はいまでも「死にたい」

10代の頃、とにかく「死にたい」と思っていた。理由は、とくになかった。

平凡に生まれ育ち、それなりに嫌な思いも経験したが、語るほどの不幸に見舞われるわけでもなく、かといって才能や容姿に恵まれるわけでもなく、いわゆる「普通」だったと思う。
ならいいじゃないか、と言われるかもしれないが、自分が何者かを決定するものを持つことができないというのは、それだけで(少なくとも当時の私には)不幸だった。
廃棄されたネジのように、生きていようがいまいが世界には何の関係もない存在だとよく思っていた。

生きているだけで、息苦しい。消えてなくなりたい。
その感情がなぜ、どこから来ているのかわからなかった。私には「死にたい」と思うことを許してくれるような劇的な「理由」すらなかった。

20代になりわかったことがあった。理由がなくても、人間は自死するということだ。
正確に言うと、他人が求めるドラマティックな理由などなくても、人は簡単に死ぬことができる。
なぜなら、死にたさの根っこにあるのは「この世界で、もう自分でいたくない」という嫌悪と絶望だからだ。そこに理由の大小は関係がない。
このことは社会であまり理解されていないと思う。

10代の私は「死にたい」という感情を上手に誤魔化すことができなかった。
かといって臆病者だったから、死ぬこともできなかった。
どうせ生きなければならないなら、その理由を知りたくて、大学で哲学を勉強することにした。
「死にたい」という気持ちに対する決着を先延ばしにしたのだ。

結論から言うと、大学4年間で生きる意味はわからなかった。哲学の勉強は楽しかったが、学ぶほどに自分の素朴な疑念が想像より難問だと気がついた。

だから、大人になった今でも結構な頻度で「死にたい」と思っている。

昔と違うのは、「死にたい」という苦しみに言葉を与えて、自分の心の中に居場所をあげられるようになったことだと思う。
古今東西、文学者から哲学者まで、これまでの人類史で「生きること」に苦しんできた人はたくさんいる。

だから、気分が落ち込んだ時は、詩を読んだり哲学書をめくってみたりして、その感情に水をあげている。
自分の気持ちを無理やり抑えたり、なかったことにしたりはしない。
このように逃避できるのは、大学で哲学や文学を修めたおかげかもしれない。
かといって辛いものは辛いので、未だに自分の希死感情に振り回されてもいる。

情けないことに、いま「死にたい」と思っているひとに「この世界は生きているに値するよ」と嘘をつけるほど私は大人になれてはいなかった。
なにせ自分自身が「死にたい」身だ。自分が存在することにどうしようもなく耐え難いときがしばしばある。

そういう時にどうするかと言うと、とりあえず好きなお酒を飲む。

ドイツワインは冷やして飲むと甘さと酸味が絶妙でおいしい。フランスの赤ワインも渋みの中にある芳醇さがおいしい。
ウィスキーは飲んでいるだけで何だか特別になった気がするし、慣れてくると味の多様さにびっくりする。
20代まで生きてきたのもこの点に限れば悪くはなかったと言える。

ただ、アルコールは精神のモルヒネに過ぎないので、いくら飲んでも誤魔化しにしかならない。
したがって、少しだけ真面目な話を付け加えようと思う。
※この先に劇的な答えが書いてあるわけではないので、そこは期待しないで欲しい

私の好きな言葉に、こんなものがある。

「求め続ける限り、人は思い悩むものだ」

ゲーテの言葉である。
これはなにも「求めることをやめろ」と説いたり、欲深い人間を嘆いた言葉ではない。むしろ、人間は求めることをやめることができない様が、この一節の引用元『ファウスト』では滑稽に描かれている。

人間は求めつづける。でも、欲を満たすことができない。だから、迷い苦しむ。

逆に言えば、あなたが今、迷い苦しんでいるとしたら、それは心のどこかで何かを求めているからだ。

それは例えば、生きる苦悩が、「生きたい」という欲望と表裏の関係にあるということでもある。

「生きたい」とはただの存在の持続ではなく、「自分らしく生きたい」ということであり、人間にとって不可欠な欲求だ。
しかし「生きる意味」がわからなかったり、環境や関係性で尊厳を傷つけられ汚辱されるとその欲求は簡単に歪んでしまう。

自分がいること、自分が存在すること、「今ここで」息をしていること、それ自体が避けようのない重荷になる。
自分自身(自分という存在)を否定しながらも、自分(自分らしさ)を肯定したい/してもらいたいと思う。意味を見出したい。自分は特別でありたい。
その欲望と現実の深い溝が、どうしようもない苦悩を生み出しすのだと思う。

つまるところ、多くの「死にたい」の中には、「生きたい」という消え入りそうなほんのわずかな光がある。
だから私は、「死にたい」と思っている人には死んで欲しくはない。でも、その気持ちが痛いほどよくわかるから、「死んではいけない」と言うこともできない。

あなたの周りにいる、嘘つきで脳のない「立派な」大人たちは、きまって綺麗な言葉ばかり並べてみせるが、それはただ自分が暗闇の歩き方を知らないことを誇っているに過ぎない。
厚顔無恥も極まると知らないことにまでベラベラと唾を飛ばすようになるのだ。(有名人が自死するとテレビでそういう光景を見る)

大人になり社会に出て知ったことだが、この社会は本当に下らない。どうしようもない大人が履いて捨てるほどいる。
私が全能であれば、みなさんの代表として片っ端から殺していくところだが、現実はそうもいかない。
しかし、そんな恥知らずの脳足りん達のためにあなたを犠牲にする必要は全くないことだけははっきり伝えておきたい。

産み落とされた存在は、逃げようのない牢獄なのに、それを価値あるものとして最期まで心中しなければならない。
これほどの不条理と理不尽があるだろうか。
それらを投げ出す人がいるのは、微塵も不思議なことではない。生から脱した人には、どんな言葉よりも「もう苦しまなくていい、よかった」と声をかけたい。(実際にはかけられる言葉などない。他人には知りえない個人の絶望に対して、私は沈黙する他ない。)

ただ、存在を続けるにあたって、逃げ道を持っておくことはオススメできる。

あなたに好きなものはあるだろうか。
私は、哲学と文学が趣味だが、それ以前はアニメとゲームが大好きだった。
ひたすらに家で鬱々とそれらに没頭していた。そのおかげで生きていられた。

とにかく自分のことが嫌いだった(今でもそうだが)ので、非現実に逃げ込むのはそれなりに有効策だった。そういった「結論の先延ばし」は酒と大して変わりはないかもしれないが、一定の効力はある。

何もないという人は、哲学か文学に取り組んでみてはいかがだろうか。
この2つは紀元前から歴史を編んできているだけあって、とてつもなく広い世界だ。
1人の人生が終わるくらいにはゆうに暇つぶしができる。

哲学や文学に取り組むことには、他にもいいことがある。

人の心というのは、池のようなもので、苦しみを経験する度に底は深くなり、自分が沈んでいく。
あまり底が深くなって沈んでしまうと、水溜まりの外からは底が見えなくなってしまい、他の人はあなたを見つけられなくなる。
そもそも、浅い池で生きている人は、深い底があること自体理解できない。

この池が深くなるほど、あなたの心の世界は広くなっている。
本当は、静謐で淀みのない沈み甲斐のある世界だ。
この世界の広さは、人間としての本当の「深さ」だと私は思っている。

傷つき苦しんだ人間は、当たり前のように生を享受してきた人間よりもよっぽど「深く」、詩的直観を持っている。美しさや悦ばしさ、そういったものの価値をより知りうる存在だということだ。
しかし、底で窒息死してしまっては元も子もない。

哲学や文学といった人間の思想の歩みを知ることは、人間自身を知ることでもある。
それは、他の人の深い深い水溜まりに飛び込み、様々な泳ぎ方を会得していくということだ。

それを繰り返すことで、底にいながら溺れずに自分の世界に身を置くことが少しづつ出来るようになる。
その世界であなたを縛るものは何もない。本当の自由だ。

かつての叡智ある人々はこのことを「教養」と呼んでいたのだと思う。

現代日本において、すぐに役立つもの以外は無用の長物といった風ですっかり死に体だが、「死にたい」人間にとっては、逃避の場としてある程度意味ある営みだ。

そこまでしてなぜ生きなければならないのか、疑問に思う人もいるだろう。
その難問には安易に結論を出さずに取り組んでみるのがいいと思うけれど、私見を述べておくと、そもそも命には意味も価値もない。
生存に重きを置くのは生物の性だが、生き方に生存を賭すのはこの地球を探しても人間くらいだ。

社会思想を学ぶと実感することだが、「命は尊い」「全ての人間には生きる意味がある」といったお決まりのフレーズは、人間が野生を脱し、秩序を成立させそれを継続するために「創られた」概念だ。
創造物は本質ではない。
大人達が決めた、後付けの「お約束」に過ぎない。

ならば、生きている必要はないかもしれない。でも、今すぐ死ぬ必要もない。
どちらでもよいのだ。何も正解ではない。

どうせ100年も経たずに死ぬし、意味に縛られる必要もないなら、私自身としては、「死にたい」と思いつつ、楽しいことで気を紛らわせながら今のところは生きることにしている。

それでもいつかは生きることの重みに耐えかねて、ぽっくり逝ってしまうかもしれないが、そうならないために今日も本を読む。
美味しいお酒を飲んで、誤魔化す。
(最近読んだオマルハイヤームの『ルバイヤート』にも同じようなことが書いてあった)

生きることに意味や価値がないというのは絶望的に思えるかもしれないけれど、逆に言うと、あなたに何か生き方を強いてきたり、尤もらしい説法を垂れるものはすべて「嘘」ということでもある。

社会や大人は嘘で回っているが、誰もが自分だけのためにいつでも逃げていい。
嘘が悪とまでは言わないが、自分にとって大切な悦びを邪魔するなら拒否していいと私は思う。

生きるということは、本来的に何をしてもいいし、何をしなくてもいい。
なぜなら、あらゆる人生にはあらかじめ備わった意味や価値などないのだから。

嫌いなアイツも、大好きなあの人も、大切なペットも、有名な芸能人も、高邁な道徳者も、訳知り顔の政治家も、昨日見たホームレスもみんな死ぬし、どの人生にも等しく意味はない。
なら、せめて少しでも現在を楽しく過ごしたほうがいい。(一応補記するが、「死にたい」と思うような感度の高い人にとっては何かを「ただ楽しむ」ということがとても難しいハードルなのだ)
すべてに価値がないなら、自分の感じるものだけが本当なのだから、感じた悦びを大切にして生きていく。
私の尊敬する哲学者スピノザは賢者をこう定義している。

だから、もろもろの物を利用してそれをできる限り楽しむ(と言っても飽きるまでではない、なぜなら飽きることは楽しむことではないから)ことは賢者にふさわしい。
たしかに、ほどよくとられた味のよい食物および飲料によって、さらにまた芳香、緑なす植物の快い美、装飾、音楽、運動競技、演劇、そのほか他人を害することなしに各人の利用しうるこの種の事柄によって、自らを爽快にし元気づけることは、賢者にふさわしいのである。

スピノザ『エチカ』第四部定理45抜粋

スピノザの言う賢者になるのは、中々難しい。でも私はいつかなれたらいいな、と思っている。
いつも「死にたい」大人の私には、このくらいのことしか言えない。

最後になるけれど、この気狂いの世界から読者の方々が少しでも逃走し、自分自身として生きていけることを、1人の万年自殺志願者として切に願っている。

備考
追記多数(ことある事に読み返しては修正することでこの記事は成り立っています。)
最終修正日 2023.8.11

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