マドレーヌを浸して
何も特別でない日、私は乗っていた電車を捨てた。最寄り駅から5駅も前なのに、歩いて帰ることにした。
空はすっかり暗くなっていた。にもかかわらず、街は明るい。この矛盾を包み込むのが都市なのだ。
幹線道路沿いの道を歩く。街の明るさは無限ではない。少しずつ、なにものでもない暗い風景になっていった。
死ぬのかもしれない、と思った。
体験したことのない揺れの中、妙に冷静だった。
揺れがやむと、パソコンをすぐに開き、テレビをつけた。
誰も何もわからない。ただ、経験したことのなかった何かが起きたのだと、それだけは皆理解していた。
なぜ私は死ななかったのだろう、と思った。
家に潰され、海に飲み込まれ、死んでいった知らない人達。
逃げてください、逃げてください、警報。
音がなくなり、記憶が黒くなる。
起きられない。私は呼吸するだけの肉塊。
未知のウイルスと戦う戦士などではない。
法を守り、市民社会を守りたい人間など不必要だった。私は、私のことも、私以外のすべても嫌いになった。
ずっとずっと寝ていたかった。
ただ横になり、時間が私を置いていくのを見ていた。
ぼんやりと暗く、濃い灰色の過去が、私の前を通り過ぎていく。
メロディーが追憶を覆いながら、動く肉塊に連れ戻す。
私はコオロギとして地を這っていた。
羽を揺らすと音が鳴った。
それがひどくおかしくて、何度も鳴らす。
それはかすれた音の断続で、メロディーではなかった。
道は続いていて、私は歩く。
バラバラな風景、すれ違う人、毎秒異なっていく反復を繰り返して、足音を鳴らす。
あの時、なぜ電車を降りたのだろう?
ずっと知っていた街だったのに、歩いたことはなかった。
暗がりを歩く自分を、後ろから見ていた。
なぜこんなことを思い出したのだろう?
本を閉じ、イヤホンを外す。
音ともに流れ込んできたもの達を、整頓するのをやめ、目を閉じる。
手元にあったペンをとり、レシートの切れ端に、書き込む。
「マドレーヌ、コオロギ」
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