フィクションには逃げられない
最近、自分の心と向き合うことが、大変つらい。
今の自分は、「自分の理想を叶えるに進みたい。進むための準備はもうできている。でもその周りの人は?自分のせいで犠牲になった人は?私が次に行く場所で出会う人は笑顔で歓迎してくれる?背中を押してくれる?」
絶対的に正しい選択なんて存在しないのに。
理想に進むときはわくわくするはずなのに。
今の自分はまるで、覚悟を決めてどこかの戦いに挑むような、そんな気持ちで。
目を凝らしても見えることのない未来に向かってひたすら、しかめっ面しているようなもので。
自分の信じる方を進む、と過去に言っておきながら、本当に情けない。
そんな自分にまた落ち込む。
あれだけ、過去の出来事を遡って分析して言葉に落とすのが大好きだったのに。
分析対象の「過去」に苦しめられている。
「自己分析がつらい」気持ちを分析する
なぜ向き合うのがつらいのか。
それはきっと、現実に立ち向かえない自分の弱さに気づくのが怖いから。
私は先週、7年間付き合った彼氏と別れた。
それでも、一緒に行く予定のオーケストラのチケットは取ってしまっていたため、別れた後だったが行くことにした。
今さら気まずさなんてない。
むしろ元彼は、私と会えることを心待ちにしていた。
解散前も悲しい顔をして「解散したくない」と言い張る。
「来週そっち行くからさ、美容院行くし」
傷つけたくない一心でそんな言い訳を取り付けた自分が情けなかった。
こんなに私を一途に想う元彼と別れた時点ですでに、傷つけているというのに。
私の理想に進むために、この犠牲は必要だったのか?
一度結論は出たというのに、いざ別れるとそんなことばかり考える。
考えても百発百中で「こうするしかなかった」に至るにも関わらず。
結局フィクションには逃げられない
自己啓発系の本を読むのもつらくなり、私は小説を借りるために図書館に向かった。
借りた本は3冊。なるべく現状に被らないよう、恋愛系は避けた。
誰かがつくった世界に逃げられれば、現実を考えなくて済むかもしれない。
そんな淡い期待はすぐに砕かれた。
フィクションとはいえ、登場人物の人柄や情景、心情をどうしても現状と重ねてしまう。
考えてみれば当たり前なのだが、物語は読者の興味や共感を誘うように書かれているので、現実逃避のツールとしてはあまり当てはまらない。
新しい内省方法を見つけてしまった。でも、今じゃなくてよかったんじゃない?
底にいても、少しずつ自分を整える
同じ結論が出る同じ悩みを永遠と考え、フィクションにも逃げられない。
底まで落ちてしまった私だが、1ついい案を思い出した。
自分が今考えていることが「事実なのか妄想なのか」書き出すことだ。
これは、草薙龍瞬さん著作『反応しない練習』(KADOKAWA)にあった内容なのだが、悩みを「どうにかできるかどうにかできないか」の判断の基準が「事実か妄想か」だという。
悩む理由が妄想(想像、思い込み)であれば、「自分ではどうしようもできないこと」=「考えてもしょうがないこと」とされている。
まずはわかりやすく、事実から列挙していく。
すると事実は思っているより少なく、なかなか思い付かない。
反対に妄想は書き切れないほど出てくる。
いかに、自分ではどうしようもできない「妄想」に悩まされているのかがわかった。
わかった、だけである。自分の心がつらいのはまだ変わらない。
でもこんな底の状況で、ネクストアクションができた自分を褒めたい。
胸張って笑顔で理想に進むために、もう少し底で足掻きます。
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