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「普通が幸せ」

日常は、あっけなく壊される。

行きつけのお店がひっそりと閉店したり、大切な人が突然姿を消したり、「こんな時に?!」と思うタイミングで天災に見舞われたりする。

そしてこうして訪れた“非日常”も、時間とともに溶け込み、皮肉にもまた新たな日常をつくっていく。

「普通が幸せだよね」と、特養施設の厨房で働く社員さんが、味噌汁を盛り付けながらそう言った。彼を襲った普通でない出来事からちょうど1ヶ月が経とうとしていた、1月のはじめだった。

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4人の社員が入るグループLINEに送られた「亡くなりました」の文字を、私は忘れられない。

12月の頭、彼の母親が急死した。

その日の出勤は、彼と私が入れ替わるようなシフトだった。15時から来た私に「じゃあ、あとよろしく」と残していつも通り帰宅したら、母親が亡くなっていたという。まだ60代前半、持病も特に無かったそうだ。

私はそれを、厨房にかかってきた調理責任者からの電話で知った。「大変なことが起こった。みか、働いているところごめん。急用で、大変なことが」と、完全にテンパった長い前置きの末、やっと事情を聞くことができたのだ。

信じられない。けれど私には、彼が家のことに専念できる環境を整えて(シフトの穴を埋めて)、静かにご冥福をお祈りすることしかできない。薄暗い気持ちを抱えたまま電話を切り、そのまま仕事に戻った。

お通夜のような厨房で、「お母さんと二人暮らしだったんだよね」と、中年のパートさんが彼の生い立ちについて教えてくれた。

彼が中学生のときに、父親が自ら命を絶ったこと。その後母親が鬱病になり、彼がずっと面倒を見ていたこと。母親が大量に何かを買ってしまったときは、彼が頭を下げて返しに行ったこと。母親にいつ何が起こるかわからないため定職に就けず、パートでしか働けなかったこと。母親は日本人ではなく、近くに頼れる親戚もいないこと。

私は、彼のことを何も知らなかった。

行きたかった学校を我慢したのかもしれない。満足に友だち付き合いもできなかったのだろう。昨年11月にやっと正社員になれたのにはそんな理由があったなんて。遠出は“しない”と言っていたが、“できなかった”のではないか。

何も知らずに、過去の仕事について訊いていた。休みの日はどこに遊びにいくのか訊いていた。

30代半ばにして唯一の身内を亡くした彼の立場と、自分の無知ゆえの今まで言動に、この上ない痛みと苦しみが襲った。
何をやるにも薄暗い気持ちが伴うし、気づいたら口の周りを小さいニキビが大量に囲んでいる。たぶん自覚している以上に、精神的にこたえていた。

彼は気丈にも、火葬前から仕事に復帰した。近くに住む他の社員や、彼の唯一の親戚が、手続き諸々の手伝いをしたそうだ。調理責任者も「変なこと考えないでほしい」と、念には念を入れるほど彼の世話を焼いた。彼が自ら命を絶ってしまう可能性を恐れていたことは、言葉にしなくても伝わった。

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「えんどうさん、正月っぽいことした?」
三が日が明けた早朝、目の前で味噌汁を盛りながら彼は私に話しかけた。

「ううん……いとこに久しぶりに会ったことですかね」
「おお、いいじゃん!俺もいとこになろうかな」

どういうことですか、と私は笑った。私の口の周りにあったニキビはきれいに治り、彼も日常を取り戻しつつあった。

いただいた質問をそのまま返すと、彼は「正月太りした(笑)」と言って私の笑いを取ってから、「普通だったな」と答えた。

今年は私が言うまでもなく、元旦から天災に見舞われ、痛ましい事故も起こった。そしてそれらの影響は、現在も続いている。
「普通でよかったんじゃないですかね」と、私は盛り付けている冷菜に向かって言葉をこぼした。

「そうだね、普通が幸せだよね」

彼は、真っ直ぐ私の顔を見てそう言った。その姿勢と言葉が、今でもこの上なく印象に残っている。

「はい、普通が幸せです」。自分に言い聞かせるように、復唱した。

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