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理解しないこと

理解できないことは、理解しなくていいこと。

自分を守ってくれる存在が、出会いと別れ、そしてその意味を決めて出合わせるのだから、これもまた理解しなくていいこと。

なるほど。
今朝起きてからずっと頭の中で浮かんでいることだ。
そしてまたこの二つのことも理解しなくていいことなのだろう。
理解するということは、自分が納得するということなのだから、所詮自己満足というエゴなのだ。 
知らないことの方が遥かに多いんだ。
そうだそうだ。

昨日友人がこんな話をしてくれた。

”キッチンでランチを作っていたら、人の声がしてドアを見ると、見知らぬ人が立っていた。 その人は10年以上前にここに住んでいた人の友人だといい、久しぶりに訪ねたのだという。
「彼女はずいぶん昔に亡くなって、私がこのアパートを引き継いだんです。」と話しながら、ドアには鍵がかかっていたはずだと確認すると、やはり鍵がかかっている。
鍵がかかっているのにどうやって入ったのか?と尋ねると、「彼女はいつもドアに鍵をかけない人だったから、すっかりそのつもりで開けた。」とその女性は言った。” という話だ。

なぜドアは開いたのか。
死んだ前住人が開けたのかな、なんて冗談を言いながらふと思った。
訪ねた人は友人がそこに住み、ドアは開いていると信じていたから、彼女が生きてそこに住んでいる世界でドアを開け、その現実は何かしらの理由で今わたしの友人が住む現実へとワープしたのかも。 そう伝えると、友人は真剣に”私もそう思うのよ”と言った。

二人ともそんな感覚なら、それはそういうコトもあるのだと受け入れて、この世界はもっと多次元で多様に織り込まれているとワクワクするのだ。

わたし達が理解できない何かを受け入れたら、上の方で一生懸命デザインする存在達はより早くそれを形にできるのではないか。

コラボレーション。
冬至の朝に想っていることなのです。

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