カケラ
" I can't see!"
少し弾みのあるわたしの声を覚えている。
傘が足元を遮っていたけど、歩けないわけじゃないのに。
新しい恋に浮き立つ心。
甘える声のカケラ。
”あなたはさよならを言うと、一度も振り返らないで行ってしまう”
最終電車の改札口で、別れ際にそう言うわたしに、
彼はちょっと驚いた顔をした。
そして改札を抜けたあと、まるでおどけたショーマンのように
両手を広げてくるりと振り返る彼の笑顔。
やられた。
心を射る数秒のカケラ。
小さな、小さなこと。
どんな恋もこんな小さな思い出のカケラでできている。
何十年も経ってしまえば、キラキラと輝きを放っているのは
カケラの一つずつでしかない。
本体など何も残っていないのだ。
結婚して、子供を産んで、別れて。
何か具体的に形になった出会いとは別に、無数のキラキラしたカケラが
いろんな恋の記憶として、香ったり、聴こえたり、感じたりする。
ある時、Facebookでわたしを探していた昔の恋人が連絡をくれた。
別れたあと、アメリカのあちらとこちらの距離にいたはずの彼は
なんと2時間先に住んでいた。
翌日、予約されたレストランに行くと大きな花束を抱えた彼が立っていた。
あの頃と変わらず、食事もワインも会話もすべて、事前に彼がプランした通りに運ばれてきた。
笑顔も声も気遣いもすべてあの頃と同じなのに。
なのにそこには、キラキラとしたカケラはもうなかった。
お互いの熱量が同じような場所にしか、
カケラは生まれないのかもしれない。
小さくて見えないほどの心に残る瞬間。
人とのつながりは、そういう瞬間のカケラだ。
美しい人生を。豊かな感性を。
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