![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/57118189/rectangle_large_type_2_93259f236bd4c796a97b49dc13b5c299.jpeg?width=1200)
「我」が強い人が嫌われる理由
「我」というのは執着心なのである
私の意思「我」というものはどこから生まれてくるのだろう。
「我」を使う言葉では
「自我が芽生える」コレは、自分の意思が出てきた子どもに言う言葉。
「あの人は我が強い」というのは、自分の意思を押し通そうとする人に使う言葉。
「無我夢中」は周りが見えないぐらいに没頭している様をいう。
「我」を持つことで、自分という人間を認めてもらいたいのではないかと私は思う。
また「我」というのは周りのことを見えていない人にも使う言葉だ。
先日 #仏教を楽しく知る会 で和尚に
【仏教でお釈迦様は「我」は存在しないと説いた】と教わった
どうして「我」が存在しないかというと
自分という存在は周りの影響を受けて生きている。
周りがいないと成立がしない人間は「我」ではなく「縁」なのである。
いつの日か食べた、肉や魚がなかったら、生きていないし、その命を頂いて成り立っている人間は、皆殺生をし、なんとか命のバトンを繋いで生きている。
それが「縁」である。
そして、どこかで誰かに影響されて生きている。その影響も「縁」である。
「縁」の繋がりから、私という人間が生きているので、常に私は変わりゆくものであり、変わっていくものに「我」などないのである。
よって「我」が強い人がいたら、嫌われるのは、そのせいだろう。
周りに合わせて、空気のように、存在することができる人の方が、一緒にいて楽なのだ。
いらない「我」を捨てた先に「楽」がある。
もし「我」という強い強い執着を持っているなら、その人生はきっと「苦」になる。
苦しいなら「我」なんか捨てちゃいなよ。
↓仏教学者で僧侶の川村先生と「我」についても話しています
※私がこのトークをして感じたことを文にまとめたnoteです
サポートして頂けると励みになります💕 活動費として使用させて頂きます。