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「我」が強い人が嫌われる理由

「我」というのは執着心なのである

私の意思「我」というものはどこから生まれてくるのだろう。

「我」を使う言葉では

「自我が芽生える」コレは、自分の意思が出てきた子どもに言う言葉。

「あの人は我が強い」というのは、自分の意思を押し通そうとする人に使う言葉。

「無我夢中」は周りが見えないぐらいに没頭している様をいう。

「我」を持つことで、自分という人間を認めてもらいたいのではないかと私は思う。

また「我」というのは周りのことを見えていない人にも使う言葉だ。


先日 #仏教を楽しく知る会  で和尚に

【仏教でお釈迦様は「我」は存在しないと説いた】と教わった

どうして「我」が存在しないかというと

自分という存在は周りの影響を受けて生きている。

周りがいないと成立がしない人間は「我」ではなく「縁」なのである。

いつの日か食べた、肉や魚がなかったら、生きていないし、その命を頂いて成り立っている人間は、皆殺生をし、なんとか命のバトンを繋いで生きている。

それが「縁」である。

そして、どこかで誰かに影響されて生きている。その影響も「縁」である。

「縁」の繋がりから、私という人間が生きているので、常に私は変わりゆくものであり、変わっていくものに「我」などないのである。


よって「我」が強い人がいたら、嫌われるのは、そのせいだろう。

周りに合わせて、空気のように、存在することができる人の方が、一緒にいて楽なのだ。

いらない「我」を捨てた先に「楽」がある。

もし「我」という強い強い執着を持っているなら、その人生はきっと「苦」になる。

苦しいなら「我」なんか捨てちゃいなよ。


↓仏教学者で僧侶の川村先生と「我」についても話しています

※私がこのトークをして感じたことを文にまとめたnoteです

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