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「それってAIですか?」【第1話】

※この物語はフィクションです。実在する人物や団体には全く関係ありません。

それは7月の暮れ、1週間ほど雨が降り続き酷くジメジメした昼下がり。その日は先生の元に来客があり、教授室の扉は閉め切られ「来客中」のカードがキャラクターのマグネットで留められていた。

私の所属する研究室は音響工学に関する研究を行っており、全国でも珍しい研究室であること、特に教授は様々な役職を担っていること(押しつけられているとも)から、いつも多忙であった。あまりに多忙であるため私たち学生も先生のスケジュールを把握しておらず、教授室に質問に向かったらアメリカのカンファレンスに出ており不在であったことも珍しくはない。一方私たち学生はたいていは閑暇に甘んじており、その日も教授の客が持ってくる手土産の山を貪っていた。

「君たち、今、時間ある?」

研究室の扉が開き教授が顔を覗かせた。

「お客さんに少し研究の紹介してくれない?俺今から少し会議あるからさ」

そう言い残すと私たちの返事も聞かずに教授は客人と二言三言会話を交わし、パタパタとスリッパが遠のいていく音が聞こえた。

「君たちも忙しいだろうにごめんね。僕はアルカリ出版の東といいます。先生には昔からいろいろとお世話になってて、今日は近くで用事があったので寄らせてもらいました。」

50代半ばほどの中年男性が顔を出した。

「いえ、僕たちはいつも暇なので大丈夫です。」
「ははは、君たちも先生を見習って勉強しなよ。それじゃあ、いろいろ見せてもらってもいいかな。」

私たちは実験室に向かうことにした。
実験室といっても、試験管が並ぶ真っ白な部屋や、破壊試験を行うような工房のような場所ではなく、私たちの研究は人が体験することが可能である「聴くもの」としての音を扱うため主に無響室や残響室など、かなり特殊な場所を使用する。そのため、ここへ案内するだけでも音響工学から縁遠い人たちにとってはかなり珍しい体験ができる。

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よく無響室に居続けると1時間で平静を保てなくなるとか、半日いれば気を失うというような都市伝説やネット記事を目にする。それらは概ね正しい。私たちは数時間無響室に籠ると発狂する。上手く出ない実験結果に対して。(実際には食後の仮眠室に使うこともあるし、試験勉強のサイレンスルームにすることも、酔って終電を逃した時には非常に暖かいため寝室にしたりしたこともある。しかしグラスウールが空気中を漂っているためあまり長居しない方が良いというのは正しい。)

東さんにはまず、来客時のために用意してある、高臨場音場再現を利用した音声コンテンツを体験してもらうことにした。音場再現とは文字通り音の場を再現する技術である。特殊な集音器を用いて収録することで、その場で聞こえてくる音の方向や響き、そして空気まで含めデジタルに保存することができ、実験室に居ながらもあたかも歌舞伎座や交差点の真ん中にいるような音を聴くことができる。
手っ取り早く体験するならYouTubeなどで「バイノーラル」と検索するといい。『低臨場感』音場再現を楽しめる。バイノーラルな音声を収録するには人の頭を模したマイクロホンである、「ダミーヘッドマイクロホン」が用いられる。最近では「ASMR音声」などの収録で萌え声生主なエッチなお姉さんたちが耳掻きするために用いられることが多いが、ダミーヘッドで収録された再現音場を気持ちの良い音声「ASMRコンテンツ」とするなら、高臨場に再現された私たちの音場を聞けば絶頂が止まらなくなること請け合いである。

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「これすごいね!!」
体験を終えた興奮気味の東さんがスピーカーの軍団の中から顔を出した。

「そうですね、これだけのスピーカーに囲まれることってないですもんね。」
「それもあるし、本当に目の前に演者がいるような、息遣いが聞こえてくるような体験だったよ!これってどういう仕組みなの?」

「簡単に理論を説明しますと、東さんが座っていたあたり、ちょうどスピーカーの中心ですね。実は音が再現されているのは東さんの頭の部分だけで、このたくさんのスピーカーを使ってこの小さな空間の波面をプログラムで制御しています。」

「へぇ!それってAIみたいなもの!?」

私は予想外の質問に言葉が詰まった。

「A..I..ですか?いえ、ただの逆行列の計算をプログラムで行っているのでAIではないかと思われます。」
「ふうん、そうなんだ。」

東さんの横顔は少し興味を失っているように見えた。

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