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構造的暴力の加害者としての私、その罪

introduction:犯人は、私

高校2年生の時、ネパールにある人身売買被害者のシェルターに行った。彼女らは親戚や隣人の手によってブローカーに売られ、売春宿で働かされ、用済みになると捨てられた。運よく故郷に戻れても「穢れた存在」となった彼女たちに行く先は無かった。当事者やその関係者によって明かされる耳を塞ぎたくなるような壮絶な経験は、私が所属する生ぬるい社会からは想像もつかない程の理不尽さの果てにあった。怒りに震えた。同時に、国連や国際NGOが莫大な資金と人材を賭して何十年もかけて取り組んでいるのに、劇的な改善が起こらないのはなぜか、不思議で仕方が無かった。 

ひとり考えてもその答えは見つからず、いったいどんな極悪人が彼女たちを絶望に陥れているのか知りたかった。もっと言えば、私こそがその不正義を正すんだくらいの気概でいた。進学先に政治学科を選んだのは、世界の不正義の仕組みとその解決策、そういった答えに近づきたかったからだ。

もしもこれを読んでいる貴方が、結論ファーストというルールに誠実に追従しているのであれば、ここまでの文章はさぞかし読むに堪えなかったかもしれないが、安心してほしい。私が大学4年間かけて獲得した結論を発表しよう。 

犯人は、どこか遠くの極悪人なんかではなく、私だった。

たった一人の人間が全世界に影響を及ぼすなどと宣うのは大変おこがましい。だが、私が何の疑いもなく参加し、その維持と発展に少なからず加担している社会コミュニティによって作り上げられた「システム」が原因であるのは、間違いなさそうだった。

罪1:因果関係からの自己隔離、そして不正義の黙示的肯定

人身売買の被害者をブローカーに売り飛ばしたのは親戚や隣人だが、それは彼らが貧しいからだ。ではなぜ彼らは貧しいのか。それはネパールという国が貧しいからである。相対的にある国が豊かで、ある国が貧しいという状況は、食料や資源、そして所得の分配に地球規模で失敗しているということだ。このあたりの話は私自身が完璧に理解できているわけでないので省略するが、何もネパールの人身売買に限った話ではない。誰かの労働力の搾取が起こるのは、消費者の利便性・企業の経済的合理性とそれが天秤にかけられた結果、黙認されるからだ。だから私たちはシャツ1枚を10000円ではなく1000円で買うことになる。地球上のどこかで資源が枯渇への道をたどり、気候変動が進むのは、どこかの集団が際限なく資源を使い続けるからだ。気候変動の被害に最も脆弱なのは、防災へのアクセスが乏しく、かつ安全地帯に移住する余力のない貧困層だというのに。どこかの森林が枯渇するのは、どこかの集団が大量に森林を必要とする産業(例えば畜産や製紙)の恩恵を受けるからだ。地球は有限なのだから。どこかの国がモノカルチャー経済から抜け出せないのは構造的にその恩恵を受ける国家があるからだ。「ニーズ」というのはとても便利な言葉だ。どこかの集団がずっと社会ピラミッドの下層に位置しているのは、上層集団が自らの既得権益を手放すことなど到底できないからだ。全ての出来事には原因があり、その因果関係を切り離すことはできない。

しかし、最悪なことに、日常の一挙手一投足が引き起こす様々な「結果」を見て見ぬふりすることが許された特権階級とはまさに私のことなのである。日本という世界有数の安全地帯で、自動車どころかよりエネルギー消費の大きい飛行機にも頻繁に乗り、意図せずとも大量に紙を使わざるおえない生活空間で、「最近野菜高いよね」などと言いながらモノカルチャー経済の恩恵を受け、新宿駅でホームレスの前を何事もなかったかのように通過する。運良く手にした学歴によって能力以上の信用を勝ち取り、直近の日常生活に不安はなく、両親との関係性も良好、大別するとシスジェンダーで、大きな病気もなく、日本在住の日本国籍保持者。それが私だ。
 
当然、特定できる誰か個人が悪意を持って意図的に引き起こしたものでは無いし、ある意味自然発生的に作り上げられた「効率的」で「良い」とされるシステムによるものだ。ここでは単に原因と結果を列挙することを意図しており、「では人類全員原始時代に戻れというのか」やら「能力のない人間に下駄をはかせるなんてそれこそ逆差別だ」などという話題は他でやっていただきたい。こういう構造的な問題を解決するための新技術や発想の転換、草の根的な活動も当然多く存在するし、何が善で何が悪かとか、どの政治システムがベストか、なんてそんな野暮な話をするつもりもない。某日系アパレル大手が開発したシームレスインナーの心地よさを知ってしまった私は、もうそれ無しでは生きられないこともまた事実なのだ。人間の欲望には際限がない。そして、その「誰も自分が悪いなんて微塵も思わないし、実際行為者を特定することもできない、気づいたら出来上がっていた構造」であることこそが最も厄介な部分だと思う。

とにかく、何かを学んで、何かを少しだけ知った気になって、世界に対する解像度がほんの少しずつでも上がっていく度に突き付けられる現実は、遠いどこかで顔も名前も知らない誰かが苦しんでいるのは私のせいでもあるということだった。私は、社会にはびこる不正義を黙示的に日々肯定することで、こちらをじっと見つめる「結果」にそっと蓋をし、今日も幸せな日だったと勘違いをして盲目的に一日を終えているわけだ。


罪2:罪1を償う術を全くもって見い出せない、ということ

大学2年生になるまでに薄々気付きつつあったこの事実にとどめが刺されたのは、アメリカに1年間交換留学をしていた大学3年生の時である。ジョージフロイド氏の痛ましい死によって黒人差別反対の機運が高まり、全米にBLM(Black Lives Matter)が巻き起こった時だ。ある人が、BLM運動におけるデモ隊の暴力の是非について話していた。彼は「社会の契約」という言葉を頻繁に使った。暴力は良くないという規範を大前提とし、だからこそ我々(この我々という語がどの集団を指すのかは、受け取り手によって異なるだろう)に黒人の暴力を批判する権利は無いと言った。「暴力を使わない」という規範と全く同レベルで守られるべき重要な契約が、「黒人の人権が正当に守られる」という規範だ。それにも関わらず、後者は何度も何度も破られてきたし、破られたという事実ごと闇に葬り去られてきたのだ。既に一方的に契約を破っている側が、その違反によって引き起こされた相手の契約違反を頭ごなしに批判する権利などないのではないかと、そういうことだった。脳直で同意することはできなかったが、かといって反論もできない私が間違いなくそこにいた。連日のBLMにうんざりしている友人が身近にいたのだが、生まれてからずっと契約を破られ続けてきた当事者はどれだけうんざりしているだろうか。少なくともなぜ暴力を使うことになったのか、その背景を慮る人間でいなくてはいけない、私は。このポジショニングを取ること自体がもう特権の現れなのだが。

社会の契約を一方的に破り、誰かの幸せを犠牲にしてまで獲得した豊かさで本当に私は幸せなのか?という問いはいつも私を苦しめる。この問いに苦しめられている、などとこうして自由に発言する権利を持っているという事実でさえも私が罪の意識に苛まれる要因になり得るのだから、そこに希望は無い。法律で規定される一般的な罪と違って、その罪を償う機会が与えられることは一生無い。一生だ。

洋服の選択肢を古着だけにしたり、肉食を控えたり、こういったことを主題に置いた進路選択をしたり、どうにかして合理的選択という世の摂理とその先に待ち構える帰結に抗おうとしても、気休め程度のものだ。こういうのは意識高い系などと揶揄されるが、何も間違ってはいない。私は制御不能で凄烈な現実から逃げ隠れしている、それだけにすぎない。「できることを少しづつ」なんて、何も本質を変えられない眇たる存在が、自分の罪悪感を少しでも忘れ、そして自分自身を納得させるための安易で我儘な、そんな選択にすぎない。それでも、何もしないよりましなのだから、何もしないという選択は私にはできず、自分の弱さと日々対峙してそれを続けるしかないのだ。誰かが「現状に対する不服従の実践」だと言っていたが、一言一句同意している。これは戦いなんだ。

conclusion:自分のために生きる、ということの価値と意味

出典を控えるのを失念してしまったが、こんな文章を読んだ。

「瞬間の願望に任せて手を伸ばしたら、遠いどこかで木が切り倒される音が聞こえた。でも都会のノイズは聴覚の確信と混乱をかき消し、僕は眼前の甘い誘いに身を任せた。ある程度満足いく選択の自由を得たけれど、上り詰めれば詰める程景色は変わり、渇きは潤わない。遠い足元で、うずくまって泣く子の姿が見えた。でも目まぐるしく変化する時代の要求に僕は飲まれ、顧みず前に進んだ。それは水の波紋のように、水滴の意思とは裏腹に広がるものなのだと思う。システム、規範、願望が当然とする選択と、その影響の良し悪しは無関係。」
出典:わすれましたごめんなさい

私から生じる波紋は一体どんな形をしているのか、明らかになる時は果たしてくるのだろうか。その時、私はその形を見て、どんな気持ちになっていたら満足なのだろうか。

ここまで長々と綴った一連のことについて、一切考えずに日々を過ごせたらどんなに楽だろうか。それでも私は運よく手にした全てのレアアイテムを総動員して、知った者の責任を全うしなければいけない。他者のためなんかではなく、自分のためなのかもしれない。構造的加害者としての罪を自覚してしまった以上、許されたいという欲望に私は抗えない。


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