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教える

本條秀太郎さんに邦楽の歌の稽古をつけて頂いているとき、
 
「力抜いても、気は抜くな」
 
という口伝があると教わった。
口伝……で芸が成立していること自体、スゴイことである。
 
歌を歌うとき、一つの言葉とその次の言葉の間が音楽的に切れる、即ち、多少の間ができる。しかし、その間ができたとしても、気持ちまで切るものではありませんよという教えなのである。
長唄、常磐津、端唄、小唄などの邦楽だけではなく、演歌に於いてもそれは全く以て同じだと思う。
 
気持ちは切らずに……
 
とても漠然とした表現であるが、いい歌、人の心に伝わる歌には不可欠なことだ。
どんなテンポ、どんなリズムであってもメロディには必ず休符というものがあり、その休符が次のメロディを輝かせる。
その一見なにもない時間の揺れをたっぷり感じてこそ、次の言葉のひとつ目の音の響きが決まってくるのだ。
言葉と言葉の間(ま)を楽しみ、心の中で自分だけにしか聞こえない音を鳴らして遊ぶ。
 これこそが、歌うことの真の面白さだ。

お稽古風景


秀太郎さんの言葉で、私は普段自分が無意識にやっていることの大事さを改めて考えることができた。
 このように、人からものを教わることは、とても大事なことだ。
 そして、芸ごとに於いては、それを誰に教わるかということが特に大事なことになる。
私は、何でもその芸のてっぺんにいる方に教わるべきだと思っている。
 
てっぺんにいる人の音は、違う。
てっぺんにいる人の心構えは、違う。
てっぺんにいる人の風情は、違う。
 
秀太郎さんの三味線の音(ね)は、それはそれは大変な表情を持っている。私の拙い文章でその音を表現するのはとても難しいがひと音が空気を纏って聞き手のもとにやってくる。
何が、どう違って、秀太郎さんの三味線の音はそう鳴るのか。
聞くたびに不思議で仕様がない。
一流とは、そのくらいスゴイものなのだ。
 
その秀太郎さん、お弟子を取るとその弟子の最初の稽古は必ずご自身がなさるという。
お忙しい身ゆえ、後は代稽古に任さなければならなくなることは必至であるが、初期は必ず……と仰る意味がとてもよく分かる。
よく、小鳥が生まれて目が開くようになり最初に見たものを親と思うと言うが、芸という小鳥もそれと同じではないだろうか。
 
「最初に」「誰に教わるか」
 
これで芸も小鳥もどう成長するかが決まるのだ。
 
これは、色々な稽古ごとを重ねてきた今だからこそ、私なりに結論づけた思いである。
「弟子の稽古の初めは、私が」
と仰る秀太郎さんの一流の心に触れることができて、とてもホッとした。

2013年8月 ファンクラブ会報MFC「こころの中の旅」より
 

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