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創造の源について

人はみなクリエーターの部分を持っている。
でも、クリエーター的な素質は、誰でも持っているわけではないし、持っていたとしてもそれを生かす機会がなければ、いつの間にか素質は消えていく。

おそらく、子供たちはみんなクリエーターで、自由な発想と自由な行動で新しいものを作り出している。でも、社会で生きるための作法や常識を身に着ける教育の中で、多くは埋もれていくのだろうと思う。

私にとって初めの創造は絵だった。
父が印刷屋を営んでいたので、紙だけは豊富にあったからだ。印刷失敗の裏紙が私の遊び相手で、絵を描きながら様々なことを想像した。
ただし、人は素質だけで創造しているわけではない、と思う。本当の天才なら、想像で何とかなるのかもしれない。
でも、少なくとも私は違う。
おそらく、私の創造の源は「好奇心」と「経験」だ。そこで混ぜ合わさったものが、内側からあふれ出してくる。表現したくてたまらなくなる。

子供の頃は小説家というよりは、漫画家になりたかった。アニメーションとかも作ってみたかった。
そんな私が選んだ仕事は、国際開発コンサルタントだった(苦笑)。
何でだろう……。
好奇心で観ているだけなく、行動しなくては、とか思った。だから、現場で必死に仕事した。
より良い未来を創ることこそが、私の創造だと信じて邁進した。絵に描いたモチ的な空想ではなく、想像を社会に創造したかった。

夢だった。
現実の中に素晴らしい世界を実現することが……。
でも、結局、小説の物語に戻って来た。
現実は厳しすぎたってことだろうか。

30年間発展途上国で頑張ってみて、貧困と格差と様々な現実に打ちのめされて、でも、まだあきらめてないから小説を書く、みたいな。
国際協力をやっていて思ったのは、この仕事は若干いい加減でないと続かないってことだ。あまりに純粋潔白だと心がポキンと折れてしまう。かといってあまりテキトウ過ぎてもいけない。哲学がなければ、やっぱり続かない。

途上国で身に着けたのは許容力というか、包容力というか、それもいいじゃないかと思えるおおらかさだった。

現実の壁と向き合いながらも、人々との温かい絆や感動的な景色や、そんなものが体の中に蓄積していったから、だから、まだあきらめていない。
世界も人間も捨てたもんじゃない。
おおらかに、前を向き、何度へこたれても性善説を諦めない。
そんな創造者であり続けたい。



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