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意地を張るのは誰のためか?

いま、知人の紹介で、とあるお仕事をさせてもらっている。私にとっては初めてのジャンルのお仕事で、勉強になるところも多い。だが、それにお釣りがくるぐらい、想定していた以上に負荷が高かった。

詳しいことは控えるが、当初7月末で終わる予定の仕事だった。それが、延びに延びて、さらには追加・追加……で業務量が増えて、いまに至る。

一般的なWEB記事の制作でもないし、パンフレットなどのコピーライティングでもない。レギュレーションもあってないようなものなので、毎回要望が変わる。

というより、もともと決まっていなかったのを、依頼しながら調整をかけているような状態だ。そんな状況だから、当初10名ほど協力していたライターも、半月以上経った今では半数以下に減ったそうだ。

報酬と作業量を天秤にかければ、明らかに重量オーバーで作業量のほうに針が振り切れるだろう。つまり、赤字だ。今すぐやめないと、赤字がかさむ。早々に見切りをつけた人たちは賢明な判断だと思う。

それでも私が続けるのには、理由がある。

もちろん、紹介してもらったから、勉強できるからというのもある。それだけではなくて、自分の心持ちの問題なのだ。

実のところ、私はライターになって半年ぐらい経った頃、依頼された仕事から逃げたことがある。業務内容が想定以上にボリュームが多く、短納期だったこともあり、無理だと匙を投げてしまった。

当然、報酬なんてもらえない。もらいたいとも思わなかった。すみませんと何度も謝った。謝って済むものではないが、一旦引き受けたものを「できません」と突き返したのだ。

その罪悪感は、いまでも鉛のように私の腹の奥底に沈んでいる。

それは、おそらく一生消えることはないと思う。信頼して任せてもらった仕事を、自己判断で放棄したのだ。せめて何かしらの交渉でもすればよかったのに。最低だ。

その思いがあるから、意地でもやり遂げたいのだ。もうあんな鉛を飲むような思いを二度としたくないのだ。今以上、生きていることを嫌になるような理由を自分の中に作りたくない。

だから、なんだかんだ愚痴は漏らしつつも、やっている。

誰かのためじゃなく、自分のために意地になってやっている。

それを仕事と言っていいのかはわからない。明らかに志事ではないだろう。あえていうなれば、私事だ。

これが正しい判断かはわからない。ただ、やり遂げたら、きっと気持ちよく眠れるようにはなるだろう。それだけでも十分な理由にはなるんじゃないだろうか。

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