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院の御子 第二章 伯耆編

 伯耆編 登場人物

□伯耆国
 現在の鳥取県と岡山県の一部。
 霊山の大山には大きな寺社勢力があり、東の三朝の辺りには、三徳山という修験道の霊地もある。

■長谷部信連
 以仁王の一の家臣だったが、平家方につかまった。清盛に見込まれ、自分の家臣になるよう提案されても断る。その武士ぶりに感銘を受けた清盛に一命を救われ、斬首ではなく伯耆国日野に配流される。

■村尾海六成盛
 伯耆の西半分を支配下におさめる領主。器は大きいが、子供の気持ちには無頓着。

■村尾海太成国
 成盛の嫡男。小鴨氏に一年間も監禁されている。剣術に長けている。
 御子の将来を大きく変える人物。

■小鴨氏
 村尾氏と放棄を二分している領主。平家方に通じており、国衙(国の地方官)も支配下におさめている。

■九条兼実
 後白河院の近習。良識人だが、為政者としての自覚が強い人物。

■日野郡司義行
 信連が流された先の郡司。罪人であっても、信連の人柄と武芸の腕を認めている。

一、信連

 伯耆国の日野といっても広い。しかし、京から配流される人というのはそうそういるはずがないのだから、すぐに見つかるはず。そう思っていたが、甘かった。
 御子たちが日野に入ってから、すでに二日経っていた。日野の金持(かもち)というタタラ製鉄を産業にしている土地にそれらしき人がいるというので、真庭の方から川ぞいに尋ねてきたのだが、なかなか出会えない。この金持という場所は、大きくはないが川が流れている。川の左右にある平坦な土地には田畑があり、芽吹いて柔らかい緑が日に照り映えてきらきらと揺れている。 
「もし、お尋ねしたいのだが」
 川の土手で蓬を摘んでいる老人に、仲影が声をかける。顔を上げた老人は、仲影の姿を見て青ざめた。
「こ、小鴨じゃ!」
 老人は立ち上がって逃げようとする。が、足が上手く出ずに、その場に転んだ。
「小鴨じゃー! 小鴨じゃー!」
 その声に、周りの小屋からわらわらと農夫たちが出て来て、一斉に山に逃げ出した。

一、信連

 伯耆国の日野といっても広い。しかし、京から配流される人というのはそうそういるはずがないのだから、すぐに見つかるはず。そう思っていたが、甘かった。
 御子たちが日野に入ってから、すでに二日経っていた。日野の金持(かもち)というタタラ製鉄を産業にしている土地にそれらしき人がいるというので、真庭の方から川ぞいに尋ねてきたのだが、なかなか出会えない。この金持という場所は、大きくはないが川が流れている。川の左右にある平坦な土地には田畑があり、芽吹いて柔らかい緑が日に照り映えてきらきらと揺れている。 
「もし、お尋ねしたいのだが」
 川の土手で蓬を摘んでいる老人に、仲影が声をかける。顔を上げた老人は、仲影の姿を見て青ざめた。
「こ、小鴨じゃ!」
 老人は立ち上がって逃げようとする。が、足が上手く出ずに、その場に転んだ。
「小鴨じゃー! 小鴨じゃー!」
 その声に、周りの小屋からわらわらと農夫たちが出て来て、一斉に山に逃げ出した。
「まて、翁よ」
 仲影がついその手頸をつかんだ。蓬摘みの老人は、力を振り絞るように礫を投げた。と、その礫は大きく弧を描いて、一連の農夫たちの動きを呆然と見ていた御子の額に当たった。
「った!」
 御子の額が切れ、血が滴った。
「貴様、何たる無礼」
 仲影が太刀に手をおく。御子はそれを急いで止めると、老人に近寄った。
「すまぬが、聞きたいことがあるのだ」
「うわああああ、助けてくれ。殺される」
 仲影に首根っこをつかまれて、骨と皮の手足をばたばたとさせる。あまりの慌てように、御子と覚山坊、當子は顔を見合う。
「おじじどの、私は小鴨とかいうものではないぞ。京から来た旅の者だ」
「?」
 老人は、そこでやっとおとなしくなったが、まだ御子をじろじろと探るように見る。
「こちらに、京から配流になった武士、長谷部信連殿がいらっしゃるはずだが」
「ん、京から流されてきた人じゃと」
 老人は、首をひねった。
「そのお人かどうかわからんがの、どこぞから来た御仁が、田を耕すのを教えてもらうというて、ずいぶん前に移動していかれたぞ。たしか……、ああ。この川をさかのぼって行くと、日野川にぶつかるんでな。その日野川沿いに左へ曲がったあたりに、小屋を立てて住んでいられる」
 田を耕す。小屋……。
 およそ、その名を世に轟かせた長谷部信連とは無縁の言葉が出たが、手掛かりが他にないので、とにかく川沿いに進むことにした。鄙らしい新緑がまぶしい山々の間をゆるゆると流れる川沿いに進む。が、人に出会わない。川を挟んで山の迫るような地形である。平坦な土地といえば、川沿いにほんの少しあるくらいだ。
「御子、あそこに農夫がいます。あれに聞いてみてはいかがでしょう」
 仲影が川向こうの小さな土地を耕している男を指さした。粗末な編んだ傘を頭につけて、ぼろをまとっている。聞こうにも、橋がないので向こうにいけない。川幅も広く、はたして声をかけても届くかどうか。と思いつつも、声をかけようと大きく息を吸った時だった。
 その男が、ふいに身構えた。と思うと、すぐ横の草むらから弓矢を取り、山に向かって一矢放つ。矢が飛んだあたりの木々の間から、獣の叫ぶ声がした。男は山に走り入って姿が見えなくなった。かと思うと、狸を肩に背負って山を下りてきた。
 男が、初めてこちらに気づき、顔を上げた。
「……信連?」
 御子は思わず呟いた。
 男も何かを必死に叫んでいるが、話すことはあきらめてしきりに指を指す。その男が指さす方に行って橋をわたり、対岸に行くと、はたしてその男は、確かに信連だった。すっかり日に焼け痩せこけて、髭が顔を覆っている。
「御子! 御子様!」
 節くれだった大きな手で、御子の手を力強く握りしめた信連の髭の上を、涙が幾筋も転がった。
「信連殿、よくぞ生き延びていられた」
 御子は、涙に声を詰まらせながら、やっとそう言った。
 すぐ近くに形のそろわぬ木で作られた小屋らしきものがあり、それが家だという。全員入ると、肩を寄せ合うほど狭かった。
 信連は筵を恭しく強いて、御子に座るように言った。御子はその上に腰を下ろす。筵が布を通してチクチクと尻に当たったが、御子は信連に会えたことが嬉しくてたまらない。涙があとからあとからぽろぽろこぼれた。
「信連殿、あの後、兄宮様は……」
「存じております。存じておりますとも」
 信連は御子の手を再びとって、何度も頷いた。信連の手は、随分ガサガサで、すでに武士というよりは農夫の手に近かった。
「狸しかございませぬが、まずは、食事の用意をいたしましょう」
 信連は、川の近くで狸をさばいて洗い、小屋の前で火を熾して焼いた。食べつけぬ食事ではあったが、御子は信連の出してくれたものを感謝して口にした。
「流された先には、当然家くらいはあるのだと思っておりましたが、何も無い野原に放り出され、数日間は飢えに苦しんでおりました。このままではならぬと、近くの農夫の家を訪ね、薪割でも何でもするから食べ物を分けてほしいと助けを求めたのです。しかし、そうそう手伝える仕事もなく、当面はこうやって生き物を殺して、作物と交換したりして命を繋いでおりました。冬が本当に辛うございましたな。何とか生き延びましたが。やはりこの世の中、食べ物を作ることのできる農夫が、一番強いのだと実感しました」
 御子は改まって信連を見た。すぐ横を流れる川のせせらぎが、美しく耳に心地よい。
「信連殿、私がこちらに赴いたのはほかでもない。お力をお貸し願いたいのだ。共に、平家を倒すべく戦ってくれぬか」
 信連は、少し困ったように御子を見つめた。配流の身でありながら挙兵するというのは、なかなか難しいのは百も承知だった。おそらく京にいる信連の家族は、斬首となるだろう。自分でも残酷な提案をしているというのは、御子は承知していた。
「御子様、私は、生まれてからこの方、いかにして死ぬるかを思って戦ってまいりました。主君を守り名を上げて華々しく散る。それこそが私の道だったのです。しかし、宮様を亡くし、情けなくも敵に助けられてこの原野に放りだされた時、生きたいと切実に感じました。今は、死ぬためではなく、生きるために日々戦っております。なんとか、生きるだけの作物を作るにはどうすればよいか、農夫たちに教えを請いながら……。そもそも、二君に仕えずと申します。以仁王がはかなくなられた今、武士信連ももうこの世にはおらぬのです」
「そんな……、私は、そなたとともに、この伯耆にて軍備を整え、軍兵を作り上げて京に上ろうと、そう考えて、ここまで来たのだ」
「誠に申し訳わけございませぬ。この信連にも生き様というものがございますれば」
 はるばる京から時間をかけて伯耆まで下ったというのに、思わぬ展開に、御子はひどく落胆した。と、ふいに信連が視線を遠くへやった。昼の日が高く、信連は手廂を作って川の乱反射に目を細めた。
「御子様、あの男がご覧になれますか」
 信連が指さした先に、こちらに歩いてくる直垂を着た男がいた。年の頃は三十半ばといった感じで、髭面の堅物そうな男だ。
「日野(ひのの)郡司(ぐんじ)義(よし)行(ゆき)です。彼は郡司をしてはおりますが、平家方ではございませぬ。あの男に御子をお引き合わせいたしましょう」
 そう言っているうちにも、義行がやって来て、御子を気にしながら言った。
「長谷部殿。あなたに都より客人が来たと、農夫たちが騒いでおるが……」
「郡司殿、この方々でございます。こちらは後白河院の……」
 御子は、信連の腕に手を当てて言葉を遮った。そしてすぐに義行に向き直り、
「後白河院の近習であった権大納言藤原成親の子である。春日冠者と呼ばれている」
 信連は、一度だけ瞬きをしたが、顔色も変えずに、「遠路はるばる、わしを懐かしんで来てくださいましてな」とにこやかな笑顔を見せた。
「さようで……。権大納言殿のご令息であれば、この話はきっと喜ばれるのではないかと」
「何です」
「あなたのお父上を配流した入道相国平清盛が、死にましたぞ」
 ――え?
 御子はすぐには言葉が出なかった。清盛が、死んだ――? 
「誰が、あの男の首をとったのだ。いったい誰が」
 御子の鋭い言葉に、義行は、たじたじとしつつ、
「アッチ死に、つまり熱で死んだと聞いております」
 ――熱、そうか、あの時の病だ。その首をとって父院様に献上しようと思っていたのに! あの清盛が死んでしまったとは。それも病などで……。父院様との約束は、一体どうなるのだろう。
 御子は、半ば茫然自失に陥った。が、信連の言葉に我にかえった。
「さようですか、清盛殿が、お亡くなりに……」
 信連は感慨深げに、小さく頷くと、目頭を押さえる。
 なぜ、敵が死んで涙を流しているのか……。信連を、御子は信じられぬ思いで見つめる。その視線に気付き、信連は少し笑って涙を拭った。
「たしかに、自分を捕らえてここに流した敵を、偲んで泣くのはおかしいかもしれませぬな。しかし、本来なら斬首であったところ、この信連を、殺すには惜しい、真の武士よと言って生きる機会を与えて下さったのです。相国殿は道を誤まっりなさったとは思います。しかし、真の武士の姿を忘れてはおられないと、そう感じるのです。そしてまた、情けをかけられたために生きる喜びを知ることができ、相国殿には、感謝の念を禁じ得ませんのです」
 御子は、顔を赤くして立ち上がった。
「仲影、當子、覚山坊、いくぞ」
 信連を御子はじろりと睨み据えた。
「もはや、信連殿は、昔の信連殿ではない。武士の心をお忘れじゃ。二君に仕えずと言っておきながら、その実、心には主君がおられるのだろう」
 信連は、困ったように微笑んだが何も言わなかった。御子は大股でもと来た道を歩き出す。仲影たちが急いで御子に従って、その場を離れた。その後ろ姿を見ながら信連は、
「郡司殿、この罪人の願いを一つお聞き入れくださいますか。あの御方は、京人。とてもこのような鄙びた所で過ごせるわけもございませぬ。どうか、お住まいにお迎えください」
「しかし、なぁ……」
「この信連が武芸をお教え申し上げた方。何かあった場合は、この日野をお救いくださるでしょう」
 義行は、顎の髭しごきながらすこし考えたが、信連に肯くと御子を追いかけた。
「春日冠者殿、今宵は我が邸にお泊りください。邸といえるほど立派なものでもございませぬが、雨風ぐらいはしのげますゆえ」
 そう聞いて、ふと、御子は信連を振り返った。彼は焼けた狸を前に、御子を見送って立っている。その御子の気持ちを量って、義行は、「信連殿は、罪人です。わが邸に泊めるわけにはゆかぬのです」と言った。
 
 久方ぶりの湯あみをし、御子は生き返ったような心持になった。湯あみを終えて、額の傷を當子に手当てしてもらう。今は、仲影と覚山坊が湯あみをしているので、室には當子と二人きりだった。
「御子様、月のものが滞っておられるのではないですか。兄宮様のご落命、南都炎上……ひどいことが重なりましたもの」
「ない方が身軽でよい。當子もか」
「いいえ、私は強くできておりますから、ふふふ」
「私も、ずいぶん鍛えたのだけど……」
 當子は、微笑んで御子の胸元に手を当てた。
「強いのは、ここのことでございます。心と体は、関わりも深うございます」
 御子は寂し気に微笑む。當子は知らない。御子の心が今、何に支配されているかを。
 ――自分は何者なのか。
 後白河院の御子なのか、成親の子なのか。自分の存在がひどく不安定で恐ろしい。成親と生みの母隆子との間に関係があったのかどうか、覚山坊なら知っているかもしれぬと、何度問い質そうとしたかわからない。しかし、いざ口にしようと思うと、言葉が全く出てこないのだ。その重い疑念を抱きながら、京からこの伯耆までの道のりを過ごした。心がすっかり憔悴してしまい、体にまで影響を及ぼしたということなのだろう。
 次の日、御子は馬を駆って外に出た。仲影だけが供をした。
「これからいかがなさいますか」
 御子は背中を見せたまま答えない。馬は、信連の小屋の方へ向かっている。
 いったい御子の心の中で何が起こっているのか。仲影は不安を感じていた。どうも京を出てから、御子は一人もの思いに沈むことが多くなった。何か言いたげにしていると思えば、口を閉じてしまう。こちらが聞いても、何でもないといって答えない。
 御子が馬を止める。視線の先には、畑を耕す信連の姿があった。信連は、農夫らしい男と二人で何事かを話して、土をつかんで口に含んだ。信連は頷き、農夫は信連の肩を叩くと愉快そうに笑っている。
「たしかに、大らかなところはあったが、あれほどの武士が、ああも簡単に武士であった自分を捨てることができるものだろうか」
「さあ、私にはわかりませんが、よほど、飢えが響いたのではないでしょうか」
「そういえば、父(とと)様(さま)は、飢えてお亡くなりになったのだったな」
 仲影は、思わず口を手で覆った。
「申し訳ございませぬ」
「なぜ、謝る。謝ることではない」
 御子は、全く仲影に視線を合わせず、信連を見つめたままだ。
「父様は、自分を捨てられなかった、ということかもしれぬ。貴族である自分を。京で美男子ともてはやされたご自身を。私は、捨てられるだろうか。過去の自分を……」
 御子は、馬を返して日野をめぐった。山間の緑豊かな美しい景色だ。川があるので土地は潤っている。しかし、農夫たちは異様にやせている。御子はそういう景色をじっと見つめてはまた馬を歩かせた。
 日野郡司の邸に戻ると、義行がふかした芋を器に載せて御子の前に差し出した。
「夕餉まで時間がございますれば、お召し上がりください」
「かたじけない」
 そう言って御子は義行を見た。立派な髭を蓄え、目はらんらんと光るようだ。が、やはり彼も痩せている。御子は、當子に小刀を持ってこさせ、芋を五つに割った。
「皆で頂こう。さあ」
 義行も一つ手にして、當子、仲影、覚山坊も手にした。
「柔らかくて甘い。この日野の地は、肥沃でござるか」
 御子がそう聞くと、義行は嬉しそうに微笑んだ。
「ええ、作物はよく育ちます」
「では、なにゆえ、この土地の人は、皆痩せておる。飢饉や不作であった影は、今見て回った限りではなかったが」
 義行は、はっと顔を上げ、複雑な顔をした。
「小鴨、というのが関係するか」
 義行は驚いて、口を開けた。
「昨日、農夫に小鴨と間違えられたのだ。皆身一つで走って逃げたところをみると、小鴨という人間が、農夫を苛んでおるのではないか」
「はっ、誠に、恐れ入ってございます」
 義行は、居住まいを正した。
「実は、伯耆国は、以前、後白河院の所領でございましたところ、院が幽閉されなさって以来、右大臣藤原兼実殿の所領となり申した。が、実際、こちらの国衙どもは、平家の息のかかった者ばかりで……。いくら御教書が送られてきても一つも命令を聞かず、思いのままに荒ぶっているのです。そんな中、この一帯は、昨年までは土着豪族村尾氏の支配下であったので平和でありました。しかし、この一年で徐々に小鴨氏優勢となり、この一帯も小鴨氏が攻め入って支配を始めまして、作物は奪われ、娘は連れ去られるといった状況でして……。長谷部殿が時折農夫に長刀をご教示くださったり、仕掛けを作って追い払う手管を伝えて下さいますが、なかなか小鴨の乱暴は避けられませぬ。長谷部殿に何度救われたか知れませぬが、それも限りがございます。流された方ですし、表立っては動けぬと」
「つまり、その、村尾氏と小鴨氏が対立していて、土地を奪いあっているというのだな」
「はい、伯耆国は、今や村尾派と小鴨派の二派に分かれております。もともと小鴨氏は国衙の一員であり、横暴な租税の取り立てで民を苛んでおりました。そこで、人々は、西伯耆の領主の村尾氏に助けを求めるようになったのです。村尾海六成盛という方はたいへん豪胆な方で、民の訴えを退けず、結果小鴨氏と対立するようになりまして、大山を含むここら一体を支配下になさいました。もともと広大な土地をお持ちのうえ、お人柄もあるのか、民に対しては緩やかで、日野も大変潤っていたのです。しかし、昨年、戦上手の嫡男成国殿が、小鴨氏に捕らえられてからは劣勢に陥り、この日野も小鴨氏に荒らされることが多くなったのでございます。この二月の末にも戦があり、村尾氏はかなり劣勢に追い込まれ、滅亡寸前にまでなっているのです」
 確かに略奪は戦の際には良く起こるというが、いかがなものだろう。御子や仲影を見ただけで小鴨が来たと言って逃げるほど、この土地の者は怯えているのだ。どれほどの略奪と暴力があったのか、推し量って余りある。
 御子が黙り込んでしまったのを、義行は気分を害してしまったと思ったのか、
「これは、いらぬお話をお聞かせいたしました。お許しください」
 そういって、退室していった。


二、村尾海太成国

 数日後の午前。今後のことを考えて、御子は、村尾氏に会いに行ってみることにした。村尾氏の邸のある会東郡岸本という地まではかなりの距離があった。日野を出てしばらく山間を北上すると、右手に大山を望む広い裾野に出る。その中の道を、ひたすら北へ向かい、やがて潮の香りが微かに鼻孔をくすぐるころになると、岸本だった。
 邸に着いた頃には、すっかり日が暮れていた。辺りは真っ暗だったが、大きな松明の灯が二つ、瀟洒な四足門の前に焚かれていたので、豪族村尾氏の邸と目星がついた。
 門に近づくと、長刀を持った兵が二人駆けてきて御子達に切先を向ける。
「何奴ばらじゃ、名乗れ」
「私は、故権大納言藤原成親の子である。村尾海六成盛殿に折り入って申し上げたき義があって参った。御取次願いたい」
 兵の後ろに控えていた小冠者が、肯いてすぐに門の内に入っていった。統制のとれた兵たちだ。村尾の軍は滅亡寸前と聞いていたが、兵の数が少ないだけかもしれない。御子は、村尾に敬意を表す意味で、馬から降りた。仲影も倣って下馬する。
 しばらくして門が開き、中から家人らしき老人が出てきて恭しく礼をした。
「お待たせいたしました。中へどうぞ」
 松明が至るところに灯された前庭を見て、御子は息をのんだ。暗くて外からは分からなかったが、これは相当大きな邸だった。
 通された大広間は、黒光りする床に松明の光が映り、夢か現かと意識を乱される。端近に腰を下ろして待っていると、体の大きい男が現れた。目つき鋭く、白髪混じりの縮れ毛をひっつめて烏帽子に詰め込んでいる。肩幅も広ければ背丈も高く、腹も立派に出ている。
 上座にどかりと腰を下ろすと、鋭い目が一転、人の好い笑顔に変わった。
「わしが村尾海六成盛でござる。京からはるばるお越しとは、いかなる御用向きであろうか」
「私は、故権大納言藤原成親の子で、通り名は春日冠者と申す。単刀直入にもうす」
 御子は一旦、息を整えると、言葉を力強くはなった。
「我とともに平家を倒さぬか」
 成盛の太く立派な眉が、ぐっとあがった。色が薄くなった瞳で、御子を見つめる。
「平家を倒す、とな。なにゆえか」
「父の仇を撃ちたい。いや、それだけではない。王権をあるべきところに戻したいのだ。村尾殿は大変人望厚く、本来は伯耆を治めるにふさわしい方だと日野郡司義行殿に伺って、こちらへ参ったのだ。まずは伯耆を取り戻し、軍備を整えてから、京へ上ろうではないか。平家を倒し、後白河院をお救いすれば、御身にも利があるはず」
「ううむ……」
 成盛は、じっと御子の目を見た。真直ぐな眼差しをしかと受け止めつつも、どこか、訝るような、品定めするような色を時折交ぜながら、じっと時間をかけて見つめた。
「相分かった」
 判断の速さに、御子は度肝を抜かれた。
「が、一つ条件がござる」
 成盛は、ずっと御子の目から視線を外さない。観察を続けているようだ。
「我が嫡男、成国を救いだして来れば、の、話じゃ」
「残念ながら、私に兵はない」
 成盛は少し微笑んで、
「少ない兵だが、我が手の者をお貸ししよう。また、大山寺の僧兵も与力するであろう」
 どうだ、と言わんばかりの眼力で、成盛は御子を攻めている。御子は、ぐっと奥歯をかみしめると、
「よかろう」
 と答えた。

 御子と仲影は、そのままその邸にとどまった。翌朝には、伯耆の地図と小鴨の本拠地である久米郡の邸の見取り図が渡された。
 御子が床に広げた地図を睨んでいると、庭から、成盛の家人たちが御子を見に来た。
「まるで女人のような男じゃ」
「都の男は、ああいう弱弱しいのが女受けするらしい」
「特に貴族様じゃぁ、なまっちろくて当然じゃあ」
 御子は思わず睨みつける。村尾の家人たちは、首をすくめて逃げた。
「まことに、成国なる人物を我らで救いだそうとお考えですか」
 仲影がそう聞くも、御子は厳しい顔をして邸の見取り図に見入っている。そこへ、どたどたという足音とともに、成盛が御子の居室に入って来た。
 御子は挨拶するのももどかしいらしく、顔を上げない。仲影が、訝し気に聞く。
「そもそも、なにゆえ大山寺の僧兵などが与力するのか、不思議でなりませんが」
「ああ、それはのぅ。以前、あの寺は大火事にあっての、その時ごっそり寄進したのじゃ。こう申してはなんじゃが、寺というのは費えのかかるもの。利があると思えば動くのだ。わしは、金払いはよいのでな、そういう面では信用もされ、また寺の方も恩を感じてくれておるのじゃ。大山寺には三派あるが、小鴨と通じておる中門院以外の、南光院、西明院は力になってくれよう」
「して、その嫡男の成国殿というのは、どこに囚われているのだ」
 ようやく御子は顔を上げた。
「それが、定かではないのだ。実は昨年、小鴨は和平を申し込んで来た。我が嫡男と小鴨の姫の縁組を申し出てきたのじゃ。長年の戦に疲弊しておった伯耆のためにと、わしは和平を受け入れ、成国を縁組させるため久米郡に送ったところ、成国の文が途絶え、そのうち、小鴨からは、成国の命が惜しくば、小鴨に与せよという文が来たのじゃ」
 御子は、呆れ果てた。卑怯にも程がある。が、和平を信じて嫡男を差し出すなど、成盛の方もいくら何でも大様に過ぎる。
「おそらく小鴨の本拠地の久米郡の邸にいるのだろうとは思うのだが。あそこの兵力は多く、近くに平家方、つまり小鴨の息がかかった国衙の官舎まである。今の少勢ではいかようにも攻めがたい上、成国の居場所が特定できぬとなると、攻めようにも攻められず、一年もの月日が過ぎたのじゃ」
 御子は、内心窮し、また久米郡の小鴨邸の見取り図に見入った。
 私が小鴨なら、どこにその成国なる男を籠めておくか……。そもそも戦上手だと聞いた。なのにいまだ脱出できておらぬということは、どういうことだろうか。
 世話の女房が二人やってきた声に、はっと顔を上げる。いつの間にか成盛は自室に戻ったらしく姿が見えなかった。
「もし、伺いたいのだが。成国殿とはいかなる人物か」
 年嵩の女房が、少々目を細めて頬を染めた。
「大変に麗しい殿方でございます」
 すると、若い女房が、
「いいえ、恐ろしい方です。お館様同様、お体も大きく丈も高い。まだお若いので、お腹は出てはいらっしゃいませんが、あのお体の大きさには、身がすくむ思いがいたします」
「それがよいのです。鍛錬に鍛錬を重ねたお体をなさっていて」
 御子は呆れ始める。顔かたちはどうでもよいのだ……。
「でも、目つきも恐ろしいですわ。人の心を見透かすような底光りする眼差しをなさいますでしょう」
「まあ、それは確かに。あの方が微笑まれたところは、一度も見たことがございませんね」
 女房の話好きは、京も鄙も変わらぬらしい。御子は少々辟易しながら質問を変える。
「力は強いか。戦上手と聞いたが、それは知略に長けているのか、それとも、武勇に秀でているのか」
「力は相当御強いですわね。戦のことは、私共にはわかりかねますが、太刀も長刀も、弓箭も、すべて右に出る者はおらぬと聞きます」
「なぜそのような男が、捕らえられて自力で脱出できぬのだろう」
 女房たちは、顔を見合わせた。
「さあ……初めのうちは、あちらの姫の美しさに骨抜きにされたのだ、なんて話していたものです。真面目な男ほど、一度女におぼれると手が付けられぬ、などと、下男たちもにやついておりましたが、そのうち小鴨から脅迫文が参りまして」
 御子はまたもや唸るよりほかない。しかし、とにかくそれだけ強い男が動けぬとなると、何か特別なことをしているに違いないと考えた。見取り図を指でなぞっていく。
 強いなら人の目は必ず必要。しかし危害が周りに及ばない孤立した場所。そして見通しの良い場所。身動きの取れない捕縛……。その条件に合うところはどこだ……。
 母屋と西の離れ、東の離れ。その三つの建物に囲まれるように庭がある。この西の離れが少し気になった。他の建物とは少し離れているのだ。そしてもう一か所。その庭の中央に、小さな建造物がある。庭の中央に、こんなものを立てる必要があるだろうか。ここなら、いつも人の目にさらされている。が、あえて近づかぬ限り、周りの者は危険な目には合わない。この中で、縛られでもしているのだろうか……一年間も?
 とにかく、どのような状態で捕らえられていようと、おそらく、成国が捕らえられているのは、この庭の一室しかないのではなかろうか。では、そこと仮定して、この邸にどう攻め入ればよいのだろう。兵の配置は……。成盛からの情報によれば、この久米郡の邸にいる小鴨の兵は、二百騎と歩兵百人と聞く。しかしいつも全員が邸に詰めているわけはない。
 御子は、次に久米郡の邸の周りの地形を見た。久米郡の小鴨という土地は、東西を川に囲まれている平野である。少し離れた東側に低い山があるだけなので、兵を潜ませて奇襲をかけるのも難しいし、こういう土地を攻めるのは、兵の数が必要になる。さらにこの低い山には、岩倉城という小鴨氏の根城がある。
「こちらは百数十人あまり。手勢が少ないとなれば、やはり、奇襲しかない。しかし……」
 すぐに身柄を確保できなければ成国の命を盾にされ、悪くすれば敗戦の上、成国の首まで飛ぶかもしれぬ。奇襲と知られずに兵をこの邸に入れ、先に成国を救出せねばならぬ。それにはどうすればよいのだ。いや、邸に入る前に、敵の兵力をそいでおく必要がある。二度、戦するか。しかし、圧倒的にこちらの兵は少ない。二度、戦する余力などあろうはずがない。邸の周りの地形は先ほど見た通りだ。さすが国衙の官舎も近くに建つほどに、見渡しのよい平野、生きるに困らぬ川。丘も山も離れている――。
「官舎……」
 御子は、顔を上げて仲影を見た。
「確か、小鴨は国衙の一員と聞いた。つまりこの官舎も、小鴨の、つまり平家の管轄下だということだな」
「ええ、実際的にはそのように思われます。しかし、本来は右大臣藤原兼実様の知行国でありますので……」
「いや、御教書に背き平家の庇護のもと、勝手な振る舞いをする不届き者たちであると聞いた。そのような者どもの官舎など焼けおちてもよいであろう」
「御子、まさか、国に弓ひくおつもりか」
「まさか。あくまでも官舎である。国庁なら問題であろうが。それに、今や平家は、清盛を失った。東国では数々の源氏が挙兵している。今の平家に、こちらにまで手が回る力などあるはずがない」
 御子は、不敵に微笑んだ。

 行軍は、大山の北を迂回し、久米郡に入って川を渡り、小鴨に入る手前で二手に分かれた。二手といっても、一方は百人余りで、もう一方は数十人ほどの兵だった。ただし数十人は弓の上手ばかりを集めた精鋭だ。強い弓をそれぞれ手にし、とても普通の胡簶(やなぐい)ではこと足りぬので、百本ほどの弓の束を紐でくくって、それぞれ二つずつ背負っている。
 月のない夜を狙った。暗い中を、それぞれの目的地に向かって音を立てずに歩いた。丑寅の時刻だ。
 数十人の弓兵は静かに官舎の近くに潜む。後の百人の軍兵は、音もなく小鴨邸を囲んだ。
 闇夜に、一条の火矢が天をつくように上がった。それを合図に、官舎に火が掛けられ、ドラが一斉になり地を踏む足音が響いた。音に驚いた小鴨邸からわらわらと兵が走り出てきて、すでに火が回り始めている官舎に押し寄せた。そこを、村尾の弓兵数十が休むことなく矢を打ちこむ。小鴨兵は右往左往した。
「早く官舎へ!」
「あの音からすれば、かなりの軍兵であるはずだ! 一気に攻め込まれて官舎を失うな!」
 松明の明りを頼りにするが、火の明りが届かぬので、どこに兵が潜んでいるかわからない。小鴨兵たちは、やみくもに走り回り、次々と放たれる矢の犠牲になった。村尾の弓兵たちは、夜陰に紛れて二人一組ずつ、矢を放っては少しずつ位置を変えるよう御子に指示されていた。そうすることで、弓兵の場所を狙い撃ちされずに済む。結果、小鴨の兵は相手がどこにいてどれくらいいるのかもわからぬまま右往左往し、射貫かれる。兵が次々と失われるので、小鴨は官舎を救おうと次々と邸の兵を送り込む。
 小鴨の兵の注意が、完全に官舎に注がれているのを見て、御子は、音を立てることなく小鴨邸に兵を寄せた。京の戦の規範からすれば、名乗りも上げず宣戦布告もせぬ、邪道も邪道、卑怯極まりない戦い方ではあるが、勝たねばならぬ戦であった。
 小鴨の兵は、次から次へと官舎に走って出て行く。一軍を預かった仲影が、小鴨邸を正面から攻撃するべく、御子に目礼してから離れていった。御子は、その隙に邸の北へ回って小鴨邸の塀をのりこえ、目星をつけていた西の離れを一旦覗いた。が、やはり囚われ人らしき影は見られない。急いで、庭の中央にある小屋に足を進めた。
 それは小屋ではなく、牢であった。
 屋根はついてはいるものの、四方に壁はなく。壁の代わりに格子があって、中に一つ、人影が見えた。篝火もないのではっきり見えないが、確かに人がいる。底光りするような鋭い眼差しだけがこちらを見ている。
 御子は、牢の格子に身を寄せて、「成国殿か」と問うた。が、影が返事をする声が、兵士たちの声々で掻き消された。
「敵が邸内に入ったぞ! 庭の牢を守れ!」
 牢の中の人物は成国らしい。そう判断した御子は、牢の格子を叩き斬ろうと太刀で一撃を加えた。
 ――カン!
 耳が痛くなるような金属音がして火花が散った。
「鉄(くろがね)か!」
 これでは太刀打ちができない。
 背後から兵が一人走ってきて御子に襲い掛かった。御子はとっさに太刀で攻撃を受けた。と、その衝撃で太刀が折れ、格子の中の影に向かって飛んだ。
「危ない!」
 御子はとっさに叫んだが、影は少し身をずらすだけで刀身をよけた。折れた刀は格子に当たって牢内に落ちた。
 呆然としている御子に、影が声を発した。
「呆けるな! 後ろだ!」
 とっさに振り向いて、兵の一撃を折れた太刀で受ける。鍔迫り合いとなり、御子は次第に押され、格子に背中が押さえつけられた。手が震える。短い刀身の折れた先へ、敵の刃が動いていく。このままでは、頭をかち割られてしまう。
「う!」
 と声を上げたのは、敵兵だった。御子の後ろから伸びてきた手でぐっと押されて、身を固くしたまま、御子から離れて地面に倒れた。わらわらと松明を持った敵兵が周りに集まってくる。その松明の火で、御子の目の前に転がっている敵兵が大きく開けた口から血を吹きだして、すでにこと切れている様子が見えた。敵兵の首には、折れて牢内に落ちたはずの刀の切先がつき立っていた。
 御子は思わず振り返る。と、格子を挟んで、成国らしき人物がすぐ背後にいた。
 松明に浮きあがった成国の顔は、髭で覆われ、すうっと筋の通った長い鼻と光る目だけが見えた。
 ――素手で刀身をつかんで、敵の首につきたてたのか!?
 御子は身震いがした。自分を取り囲んでいる数十人の敵兵よりも、自分の背後のたった一人に底知れぬ恐ろしさを感じた。
「この鉄格子は……」
 成国は、鼻と鼻をつきあわせたまま格子から手を伸ばし、御子の肩をぐっとつかんだ。すると、刹那目を細めて、見透かすような底光りする眼で御子をじいっと見つめる。
「この鉄格子は入り口も鍵もない。私は戦えぬが、そなた……これらの敵を倒せるのか」
「おおおおお!」
 小鴨の兵が、御子に一斉に迫った。が、そこに、仲影率いる一軍がどっとなだれ込んだ。背後から押し寄せられて、小鴨の兵は気をそちらに取られた。その隙に、目の前でこと切れている兵の太刀を奪い、御子は入り乱れた戦乱に斬り込んでいった。
 久々に重い太刀を振るう。小回りの利く大和の太刀の軽さに慣れてしまっていた。普通の太刀をこれほど扱いにくく感じるとは思いもしなかったが、ふと、信連に太刀を教わり始めた当初を思いだした。
 ――太刀を重いと思ってはなりませぬぞ、御子様。太刀に振りまわされてはなりません。太刀の重みを利用するのです。
 すぐそこに信連がいるような気がした。感覚が次第に戻ってくる。
 御子は知らぬ間に微笑んでいた。思えば、あの頃は希望に満ちていた。兄宮がいて信連がいて、いつも助けてくれる仲影のことを疑うはずもなかった。共に戦って父院をお助けするのだと、一心に思っていた。自分自身に疑念を抱かず真直ぐに生きるということは、なんと幸せなことか――。
 太刀を振るい、敵の命を奪う。しだいに涙がこぼれてきた。院の御子でなければ、大義名分のない虚しい殺戮をしていることになる。成親の子であれば、父を殺した平家に一矢報いる足掛かりとしての戦いとはなるだろうが――。
「危ない!」
 仲影が、御子を突き飛ばした。敵の刃が、仲影の太ももを貫いた。
「あああ!」
「仲影!」
 御子は我に返り、仲影を襲う兵の太刀を払った。腰より後ろの位置から前へ太刀を振るような感覚で、上へ払い上げた。重みを伴った御子の太刀は、敵の太刀を跳ね上げて遠くへ飛ばす。倒れた敵の上から、御子は間髪入れず首を落とし、仲影に駆け寄る。
「仲影!」
 出血がひどい。御子は兜を外し、その緒を引き抜いて仲影の足を縛った。
「なりません、兜をお付けください」
 仲影は抵抗したが、御子は返事もせず、仲影の腕を肩に回して立ちあがらせると、戦乱の一群から外れたところに連れていった。
 朝日が、もうそろそろ昇る頃なのだろう。空が少し白んできていた。
 村尾が優勢だった。小鴨にしてみれば、二か所を同じ規模で襲われたと思いこんでいる。それも時間差があったので、小鴨の兵はほとんどが官舎に集中していたはずだ。そこを、夜陰に紛れて数十名の弓の上手が、弓を一斉にはなったのだから、おそらく相当数の兵が官舎では射殺されたに違いない。実際は、官舎の方は囮で、村尾本軍百名余りがこちらに一斉に攻め入っているのだから、小鴨にしてみればまさに奇襲されたのだ。
「勝ったぞ! 我ら村尾が勝ったのだ!」
 朝日が昇ると同時に、誰かが叫んだ。一斉に歓喜の声が上がった。すると、遠くからも声が上がった。官舎の方も勝利を収めたらしかった。

 骸の転がった血だまりの庭を歩き、御子は自分の大和の太刀を見つけた。中ほどですっぱり折れ、先のない太刀を手にし、袖で拭くと鞘に納めた。
「これはどうにもしようがないのぅ。成国、一生ここに入って生きるか」
 日がすっかり昇って、勝戦(かちいくさ)を確かめに来た成盛が、息子の鉄格子をみて豪快に笑った。小鴨の領主基康をとり逃がしはしたものの、勝利が嬉しくてたまらぬ様子だ。
「何故自力で逃げてこぬのかと甚だ疑問であったが、これでは歯が立たぬよの」
 牢の格子を感心したように撫でさする成盛を、成国は何の反応も示さず黙って見ている。
 明るくなって初めて成国の様子がはっきり見られた。着替えだけは与えられていたようで衣は新しかったが、風呂には入れなかった様子だ。髭は伸び、髻は結わえられず長髪が絡まり、顔のほとんどが隠れてしまっている。ただ大きな底光りする眼だけが見えていた。
 急ぎ、タタラの匠が呼ばれ、熱したり叩いたりねじったりと、手を焼きつつも牢の一部を破り、成国は一年ぶりに外に出られた。村尾の軍からはまた歓喜の声が上がる。
「さあ、片づけを済ませて、村尾軍を岸本にもどさねば。残党もおるだろうし、国庁から兵が寄せては厄介だ。成盛殿、兵を引きますぞ」
 御子に言われて、成盛は肯くと、腰に手を当てて小鴨の邸を惜しむように見まわした。
「お館様、せっかく勝利しましたのに、何故ここを手放すのです」
 成盛の家臣の一人が、悔し気に言った。
「勝利はしたが、我らが押さえたのは、小鴨の邸であってこの領地ではない。官舎を襲ったのだ。ぐずぐずしておれば天神川の国庁から官人が寄せてくる。まあ、兵力としては知れているが、今こちらには余力がない。無用な衝突は避けねばならぬのじゃ。負傷の者はどれほどいる」
 成盛は御子に聞いた。
「数としては、三十程かと。歩けるものは岸本へ連れて戻られよ。私は深手を負ったものを連れてどこか身をひそめる場所を探そう」
「しかし、ここらでさがすというのは……」
「三(み)徳山(とくさん)なら匿ってくれるはずだ」
 それまで近くの庭石に腰を下ろして、黙って聞いていた成国が言った。成盛は頷いた。
「なるほど、あちらの方が近い。通り道の三朝(みささ)は小鴨に滅ぼされた東郷氏の生き残った人々が住む土地であるから、何かあれば匿ってくれるはず。見つからぬようにな。三朝に入ってしまえば安全だが、それまでの道行きは、負傷兵ばかりを抱えているのだ、危険極まりないぞ」
「私が共に行こう。この冠者には命を救われた。恩を返す前に死なれては困る」
 近寄ってくると、その体の大きさに、御子はつい後ずさった。成盛と同じほどの巨体ではあるが、何とも形容しがたい迫力が空気の壁ように成国の周りには漂っている。
「臭いのぅ、成国。離れておれ」
 父親とも思えぬ成盛の言葉を、成国は全く気にもかけていない様子で、御子の方をじっと見降ろした。
「村尾海太成国である。そなたは」
「故権大納言藤原成親の子で、春日冠者と呼ばれている」
 成国は、もの言いたげに御子をじっと見つめた。その瞳を見ていると、心の内を見透かされているような気がする。村尾の女房たちが言っていたのが、少しわかった。
 成盛は「帰るぞ!」と声をかけた。その一言で、兵は瞬く間に隊列を組んで、東に向かって出発した。御子たちも、小鴨邸にあった板車に牛を繋いで、重傷者を乗せて運びつつ、東の三徳山へ出立した。仕掛けてからたった数時間で、戦仕舞いをしたのだった。

 昼過ぎ、一行が三徳山三仏寺につくと、僧侶たちが出迎えて、御子たちを匿った。兵に追われることなく無事につくことができ、御子はやっと肩の力を抜いた。三朝を通った折に頼んだ医師も、追ってこちらに着くはずだ。御子は早馬を出して、日野郡司義行に事の次第を告げ、當子と覚山坊に居場所を告げる文を出した。
 夕方、案の定、仲影は熱を出した。辛いとも痛いとも言わない頬がやけに熱く、御子の胸は心配で潰れそうだった。
「春日冠者、入っても構わぬか」
 縁から声がした。
「構わぬ、入られよ」
 御子は仲影の額に濡れた布を置いた。背後で誰かが静かに座る気配がしたので、御子は振り向いた。
 見知らぬ男がそこに座っていた。右手には厚く包帯を巻かれ、血がにじんでいる。齢、二十代半ばのようだ。黒い直垂を着た大柄な男で、たった今結い上げたばかりと見えて、鬢のほつれのない艶やかな黒髪は折烏帽子の中に納まって、眉も涼やかだ。細面ながらしっかりした顎と一文字に引き結ばれた大きな口が意志の強さを物語っている。髭を剃ったばかりなのだろう、顎と鼻の下あたりは若干白いが頬はすっかり日に焼けている。その目は――
「……成国殿」
 御子は、驚いた。おそらく早速風呂に入り、一年間の垢を落としたと見える。
「そなたに礼を申したく参った。邪魔ではないか」
「いや……礼は無用。成盛殿との約束のための条件だったのだ」
「約束……? そもそもなぜ京人がこのような鄙におるのだ」
「流人長谷部信連に会いに参ったのだ。京では大変世話になったので」
「……しかしだからといって、なぜ戦したのだ」
「……まるで尋問のようだな」
 御子はつい、そう口にした。
 成国は、はっとして御子を見た。
「すまぬ。私はただ、気になっただけだ」
 成国は立ち上がった。
「恩はおいおい返す。かたじけのうござった」
 そして、そのまま出て行った。
 三朝から医師が来た。医師は、仲影の足の傷口を熱したコテで焼いた。痛みに耐えて仲影が唸る。御子は、自分を抱きしめるようにして耐えた。仲影の痛みをわがことのように感じた。 
「処置が早うございましたので、大事ないでしょう。ただ、傷が膿んでは厄介ですので焼いておきました。傷口が癒えるのには時間がかかります。当分はあのまま寝かして養生させなされませ」
 と、医師は頭を下げて他の負傷者の方へ行った。
 翌日の夕方、日野郡司義行の家来を供人に當子が三徳山にきた。覚山坊は、知り合いがいるからと、途中で大山寺に向かったということだった。


三、負け戦

 三徳山の初夏は美しい。川を挟む山々の木の間を通る風はさわやかだ。
 御子が仲影の看病を當子に任せて、馬を借りに厩舎に向かったところ、成国がいた。
「春日冠者、どこかへ行くのか。供はおらぬのか」
「日野に行くが。なに、一人で十分だ。途中、方々を見て回りながら行こうと思う」
 仲影が動けるようになるまでは日数がかかりそうだった。その間に、信連にもう一度会いに行こうと考えたのだ。
 馬にまたがって出立しようと門に出ると、成国が待っていた。
「邪魔はせぬ。ついていくだけだ」
 成国は、もしかしたら自分を訝しんでいるのかもしれない。御子はそんな風に感じながらも、断る口実もないので黙って出立した。左右に杉木立が迫る山間を抜け、いくつかの集落の様子を見ながら、日野に向かう。成国は、本当にただ後ろからついてくるだけで、一言も口をきかない。御子は少々気味が悪くなって来た。何か話した方がよいのだろうか。と思った時、成国はふいに御子を追い抜いて先へ進むと馬を降り、岩場を登った。
 あれほどの大きな体でよくも軽々と――と思っていると、岩場の上に生えた木から、小さな赤い実を摘んで降りてきた。
「茱萸(ぐみ)だ」
 御子に差し出す。御子が手を出すと、成国は、その手に全て乗せてから馬に乗った。
「これは、食べ物か。いかにして食べるのだ。このまま食べればよいのか」
 御子が左手に載せた赤い実をじっと見つめるだけで食べないので、成国はその手から一つ取って茎を外し、赤い実を口に放り込んで種だけをぷっと草むらに飛ばした。
「中に種がある。その種は出す。ただそれだけのことだ。滋養があるので、帰り道にまた取って、仲影に持って帰ってやるがいい」
 仲影のことを出されると、御子は少し弱い。成国に優しい一面があるのだと感じた。
 日野についたのは夕暮れ時だった。信連は相変わらず泥まみれになっている。子供たちが走り寄って信連の袖を引き、御子を指さした。
「御(み)……春日冠者様」
 信連は急いで御子の方へ駆け寄ると、御子の馬の前で跪いた。
「この度の勝戦、まことにおめでとう存じます。小鴨が援軍として召集したのか、日野近辺からも小鴨の兵が急いで出て行き、その隙に村尾殿がこの近くの江府の邸に兵を置いてくださったので、小鴨の支配を免れました。みな喜んでおります」
成盛というのは抜け目ない男だ、と感心する。その御子のすぐ後ろの大男に、信連は視線を移した。
「こちらは、成盛殿の御嫡男成国殿だ」
「お噂はかねがね。お初にお目にかかり申す。私は長谷部信連と申す者」
「お名は音に聞いておる。機会があればお会いしたいと望んでおった」
 成国は信連に会いに来たかったのかと、御子はやっと合点がいった。
 信連に日野の田畑を案内してもらい、その日は日野郡司義行の邸に一泊することにした。
「そういえば、春日冠者様、清盛死後、京では、子息の宗盛が今は総領となっていますが、彼によって後白河院様は幽閉を解かれたということです」
 義行の言葉に、御子は頬を紅潮させた。
「……そうか、院が王権を取り返されたか」
「いえ、それがどうもそう簡単ではないようなのです。東国への源氏追討の中止を院が申し渡されたところ、宗盛は勝手な院庁 下文(くだしぶみ)を作り、討伐続行を命じたとか。結局院のお体はご自由にはなれど、政は相変わらず平家が握っているとのことでございます」
 御子は、むっとして口を閉じた。凶悪残酷な重衡、王権を欲しいままにする宗盛――。清盛が死んだというのに、世は今だ殺戮に揺れ、父院様はいまだ御不自由なのだ。
 悔しそうに唇を引き結ぶ御子を、成国は無表情なままじっと見ていた。
 夜も更けたころ、義行の邸に、信連が訪ねてきた。自分の畑で間引いた葉物を籠に入れて抱えてきた。
「成盛殿と手を携え、この伯耆の覇権を取り戻したのち、上洛するつもりだ」
 庭に面した濡れ縁に腰かけ、御子は信連にそうつぶやいた。
 信連殿もともに参ろう――そう言いたいのを飲み込んだ。御子の気持ちを察してか、信連は静かにほほ笑む。
「この地が村尾氏の支配下になれば、我らはずいぶん助かります。しかし、平家が国衙を押さえているので、伯耆の全権を掌握するのは相当難しいかと存じます。私ができることといえば、ここの民を守ることくらいです。ここの民は、作物を作って生きる術を教えてくれました。私は、身を守って生きる術を、ここの民に教えて恩返しをしようと思います」
 やんわりと、再び断られた。
 御子はそう感じると、諦めのため息をついて、闇夜に浮かぶ山々の暗い稜線をじっと見つめた。
  
 十日ほど経った頃、三徳山にいる御子に覚山坊の文が届けられた。
 「小鴨に不穏の動きあり。急ぎ、大山寺の南光院修禅房基好を訪ねられたし」とあった。
 仲影は、まだまだ動ける状態ではなかった。大山寺のことなど全く分からぬので、相談なく動けないと考え、御子は、覚山坊の文を成国に見せた。成国は一読すると、
「実は、大山寺の三派は、我が村尾氏と小鴨氏の派に分かれている。それゆえ、昨年、小競り合いがあって、わが父が、小鴨氏擁護の中門院の月光房付弟の鏡明房を潰したのだ。もしかすると、その報復を目論んでいるのかもしれぬ」
 成国は立ち上がると太刀を佩きながら、
「春日冠者は仲影についていてやるがいい。私が代わりに行こう」
「いや、私に来た文なのだから、私が行かねば。覚山坊を放ってはおけぬし」
「ならば、共に参ろう」
 成国は、太刀掛から小振りの太刀を一振りとると、御子に渡した。
 御子と成国は、小鴨の領地を避けつつ、北の方面から大山に入り、大山寺の門院の点在する領域へと馬を進める。
「ところで、この、覚山坊とやらは何者だ」
 大地の大きさを見せつけるような大山の広大な裾野を見ながら、成国はいった。
「彼は……私の父成親の古い友人だ」
「そのような立場の者と行動を共にしているというのは、少し珍しい気がするが。元はどこの僧なのだ」
「大和だったか、園城寺だったか、はっきり覚えておらぬ」
「園城寺……以前、焼き討ちにあった寺であろう……。生き残りか」
「旅をよくするので、運よく巻き込まれなかったのではないか」
「しかし……」
「成国殿」
 御子は、馬を並べて共に行く成国の横顔に、厳しい声をかけた。
「なぜ成国殿は、いつもこうやって質問攻めをするのだ。私を信用できぬとお思いか」
 成国は御子を見る。表情ひとつ変えないまま、
「信用していなければ、このように危険な場所へなど、共に参らぬ」
 思わぬ答えに、御子はとっさの返事ができなかった。不思議な嬉しさが込み上げてきた。
「大山寺門前が見えてきた。気をつけよ。右手に橋のある、あのあたりが入口だ」
 成国は鋭い目つきで周りを確認しながら、馬の歩を緩める。が、御子は馬を止めた。しばらく黙って門前を見る。木が鬱蒼と茂っているのではっきりは見えない。
「いかがした?」
「胡簶の矢が弓に当たる音がしたのだ。僧兵はあまり弓を使わぬであろう」
 御子がそう答えると、成国は御子の顔をまじまじと見た。
「耳がよいのだな、そなた」
 道から脇へ入って下馬し、木立に身を隠す。そっと覗くと、たしかに弓矢を手にした兵が十人ほど、参道の入り口付近で、大山寺を伺っている。
「小鴨の兵だ」
御子の頭の上で、同じように様子を窺う成国がそう囁いた。
「私は大山に不案内だ。成国殿に従おう」
「よし。では、五百数えてから、あの兵どもの前に躍り出て、すべて倒せ。私は、裏から南光院に入り、南光院が何事もなければ、山門側からそなたの加勢をする。しかし、南光院で戦いがあれば、そなたの加勢はできぬ。だから、すべて倒すつもりでいるのだ」
 無茶を言う男だ、と、御子は思ったがやるしかない。自分はどこに南光院があるのかさえ知らないのだ。また、二人であの兵に対峙すれば、南光院で覚山坊らに危害が加わるかもしれぬ。
「よいか、一つ、二つ、三つ……これくらいの速さで数えよ」
 御子が頷くと、間近で成国がじっと御子を見つめた。そして調子を合わせて頷くと、成国と御子は、数を数え始め、成国は馬を置いたまま、右手にある川に降りていった。
「五つ、六つ、七つ……」
 ふと、御子は気づいた。自分は成国の目に慣れたようだ。
「百。百一、……」
 前ほど恐ろしさを感じぬようになっていた。ただ、やはり自分の中を見透かすような、不思議な光を湛えた瞳であることにかわりはない。
「三百一」
 おそらく、彼は人の目をじっと見つめる癖があるのだ。騙し騙されるこの世で、その人物が信用できるか否かを常に見極めようとしているのではないか。
「五百!」
 御子は太刀に手を添えながらすばやく駆け上り、門前の弓兵の背後を襲った。しかし、斬りかかるより前に、一人の兵が宙を舞った。

一方、成国は滑りおりて川に入った。
「八十、八十一……」
川の中をある程度上ったところで川原を歩き、南光院の裏塀をよじ登って中に入った。
「三百八十二、三百八十三……」
中には、覚山坊と修禅房基好がいた。二人とも突然裏庭から現れた成国を見て、腰を浮かせた。成国は、人差し指を立て二人を黙らせると、そのまま房にあがって横切った。
そして、南光院の入り口近くまで走り出た。はたして、一人の武士に対面した。
「四百!」
互いに太刀を抜く。武士の周りには数名の兵がいて、隙を狙って南光院の奥の間に入ろうとした。成国は、武士を睨み据えながらも、脇を狙う兵を瞬く間に斬り捨てた。武士は後ずさりしながら太刀を握り直す。
「四百三十二、四百三十三」
 武士が成国に斬りかかる。成国は、敵の攻撃を太刀で払うと、武士の腕をつかんで自分の側に引き寄せつつ、足を払って地面にねじ伏せる。と、南光院の門近くまで引きずりだして、一息に首を落とした。
「四百七十五、四百七十六」
 成国は、血塗られた太刀を手にしたまま門から参道に駆け出て、その石畳の道を一気に下っていった。
 もうすぐそこに先程見かけた弓兵たちがいた。彼らの一人と目が合った。その男は、成国が突進してくるのをただ茫然と見ているうちに、すれ違いざまに首を刎ねられた。それを見て、ほかの弓兵が慌てて腰の太刀を抜く。弓を使えるほどの距離はもうなかったのだ。
「五百!」
 一人が斬りかかってきたのを、成国は屈んで相手の腹を肩に載せて押し投げる。投げた男が宙を舞っている向こうから、御子が太刀を手に弓兵に斬りかかったのが見えた。
 御子と成国は、八人に減った弓兵を二人で左右から挟んだ。彼らは突然起こったことが理解できぬ様子だった。
「う、うわああ!」
 一人が御子に斬りかかる。御子はその太刀をよけて、弓兵を横一文字に斬った。それを見ていたあとの弓兵は震え上がる。と、一人が叫び声を上げて山裾の方へ走り逃げていった。すると、後の弓兵たちもばらばらと続いて逃げ去った。
「良いのか、逃がして」
「去る者は追わずともよい。あれは農夫が兵にされているだけだ。逃がした方が来年の実りになり、伯耆のためになる」
 そういって、成国は御子が斬った者の息の根を止めた。
「殺生は、いくらやっても慣れぬものよ」
 そう密かに呟いた声が、御子の耳に届いた。
これだけ殺しておいて、何を今さら。と思うも、御子とて好んでいるわけではない。避けて通れぬから戦っているのだった。
「生臭坊主とはいうものの、ほんに生臭うなったのぅ、成国や」
 南光院の井戸端で血を拭っている御子と成国を見ながら、修禅房基好が袖で鼻を隠した。
「村尾に帰らず、あのまま坊主になっていればよかったものを。修羅の道を選んだものよ」
 成国は、横でいろいろ言われても、眉一つ動かさずに、
「こちらにいても、僧兵となって血塗れになっていたでしょう。今と同じく」
と言って、濡れた顔を拭った。
「ここで修行していたのか」
 御子がそう聞くと、成国は肯く。
 成国は村尾海太成国と名乗った。村尾氏がどこから来た豪族かは知らぬが、海太というのは「海の太郎」、つまり海にかかわる一族の第一子という意味だし、嫡男であると成盛も言っていた。その嫡男を仏門に入れるだろうか。常識から考えれば、嫡男を跡取りにし、次男以下を仏門に入れるはずだ。特にその地域に力を持っている寺などには、そうやって家と寺との関わりを強固にしていくものだ。
「父の方針だ。修行を経験させたかったのだろう」
 御子の顔つきで察知したのか、成国はそう答えた。
 修禅房基好は、頬の垂れた生白い顔で人の好い笑顔を見せ、成国と御子を僧坊に上げた。
「ご挨拶が遅れましてございます。私は故権大納言……」
 なぜか、御子は胸がチクリと痛んで、名乗りを止めてしまった。
「存じておりますとも、覚山坊からお話は伺いました」
 御子は、黙ったまま頭を下げた。
「数々の戦が、あなたをまるで武士のようにしてしまいましたのですなぁ。ご自身の本分を、お忘れになってはなりませぬよ」
 ああ、覚山坊は話したのだ。院の御子であると……。御子はそう察して戸惑った。成国が変に感づかないだろうかと、心配になってちらりと見たが、いつも通りの無感情な顔で端然と座っているだけだ。
「春日冠者。本堂まで上がってみませぬか」
 覚山坊が御子を誘った。
 空気の澄んだ木立の中を、石畳に沿って上る。先程までの命の奪い合いが嘘のような静寂が押し寄せて来る。
「御子、今後のことはいかにお考えですか。この伯耆国は、ずいぶん戦が激しゅうございます。うっかりすれば、院に認められる前に御命を落とされますぞ」
 御子は、何と言っていいか逡巡した。が、
「覚山坊は、私の生みの母を知っているか」
「顔ぐらいは。遠くからちらりと見ただけでしたが、美しい女房でした」
 言葉が喉まで来ていても発することができず、御子は石畳を見下ろしながら足を運んだ。
「その生みの母と……父様、いや父院様がどのように知り合われたのか、知っているか」
 言葉を選び選び、御子は尋ねる。言葉を発するたびに指先が震えるようだった。
「後白河院が九条院邸に行幸なさった時に、母御の琴(きん)をお気に召されて、その後寝所にもお召しがあったと。院は何度かご自分の御所にも母御をお呼びになったと聞きますが」
「そ……れは、どれほどの……」
――期間だったのか。他に通う殿方はいなかったか。成親との関係は……。
そういう言葉が、喉に引っかかって、御子は苦い息を押し込めた。
「いや、とにかく、父院様に認めて頂かねばならぬのだ。口惜しいのは清盛の首をとることが叶わなかったこと。こうなってしまっては、平家を滅ぼして父院様に認めて頂き、兄宮のご無念をも晴らさねば」
 こういう言葉なら滞りなく出てくるというのに……。
「しかし、どうなさるんです」
「今、東国では、頼朝を初め、兄宮の令旨を受けて挙兵する者も多い。しかし、平家の支配が強いこの西国では、打倒平家を掲げる者がおらぬ。この西国でも、平家討伐の挙兵があれば、情勢が大きくうねると思わぬか」
「確かに……」
「小鴨は国衙であるし平家方であるが、村尾は何派でもない。そして、小鴨との対立が激しいことは明確だ。いずれにせよ、日本国は平家の支配を今や覆そうとしている。伯耆を二分しているこの戦に決着をつける。村尾を我が味方とし、平家方の小鴨を倒せばよいのだ。平家の支配の強い西国なればこそ、時流を大きく変えることになるだろう」
「つまり、村尾を動かしなさると」
「すでに約束はとりつけている」
「……わかり申した。御子の行かれるところへ、この覚山坊もついて参ります」
「……覚山坊は、なぜこの私とともに動いてくれるのだ」
 ふと胸に抱いた疑問だった。すると、覚山坊は思いもしないほど優しい笑顔になった。
「正直申せば、今や良く分かりませぬ。いまだ成親との友情を身に感じていたい、というそんな気持ちもあるのでしょうな」
 長い石段を上ると、大山寺の本堂の前に出た。周りの巨木群に負けぬ荘厳な御堂に、御子は静かに手を合わせた。

 その年の秋になると仲影も回復したので、小鴨の領地から離れたところへ移動しようということになり、大きく小鴨荘を南へ迂回して備後国を経由し、日野に近い江府に移った。 
仲影は少しずつ体を鍛え始めた。ずっと寝てばかりいて筋肉が細くなっていた。邸の庭先で、成国が薪を割っているのを見ながら、仲影が言った。
「そういえば、成国殿は、一年間もあの牢の中にいたのに、筋力は衰えなかったのですね」
「いつか逃げおおせるのだと、毎日あの中で鍛錬していた。もう少し時間が経っていれば、鉄の格子も動きそうな個所が一か所できたはずだったのだ。毎日毎日力をかけると、弱い箇所がたわんで来るものだ」
「成国殿は気が長いのだな。私なら、あのようなところで一年も籠められるなど、耐えることができなかったろう」
 御子がそう言っても、成国は特に何の返事もせず、黙々と薪を作っている。今の内から少しずつ作っておいて、冬を越そうというのである。
御子は、仲影と太刀の鍛錬をする。自分の太刀を失ったので、なかなか手になじまず苦心していた。何度か太刀を取り換えて仲影と刃を交える御子を、成国はじっと見ていたが、ふいに斧を置いて、汗をふきふき邸に入っていった。と、一振りの太刀をもって出てきて、御子に持たせた。
「これを使ってみよ。そなたの太刀は折れたであろう。合うようなら使ってくれ」
御子は手に取ってみたが、少し大きく、手に余った。御子の様子を見て、
「太刀を作ろう。私を救うために折ったのだ、新たに作るのは私の仕事であろう」
そう言って、御子を江府の西にあるタタラ場に連れていった。
タタラは、御子と仲影には初めて見る炎の仕事だった。火が爆ぜ、鉄を叩く槌の音が響く。その横で、鍛師(かなち)が御子の背丈や腕の長さなどを測る。その間に、鍛師の案内で仲影と成国は鍛えあがった太刀を見学していた。と、鍛師が仲影の太刀に目を止める。
「ずいぶん腰ぞりが浅く刀身が短うございますな。それはいずれの産でございますか」
「大和で特別に作らせたものです。敵と間近に戦う時に振りやすいように作られているので、馬上戦には向きませんが」
「すこし、手に取らせていただいてもよろしいですか」
鍛師は恭しく仲影から太刀を受け取ると、鞘から抜いてまじまじと見入る。
「わが刀派は、西国でも、一、二を争う技術を持っております。が、このような太刀は見たことがない。しかし残念ながら、刀身自体が弱うございますな。これでは固いものは断ち切ることができますまい」
「我らの流派は、固いものを断ち切るのではなく、迅速に軽やかに戦うのが神髄なのです」
仲影は笑った。すると、鍛師は御子を振り向き、
「あの御方もでしょうか」
「あの方は、初めこちらの流人長谷部信連殿に基本を学び、実践を経た後、大和で我らが流派に触れられた程度。どの流派にも属されぬゆえ、どのような太刀でも身に合いさえすればお使いになりましょう」
 仲影の言葉を聞いて、成国はじっと御子を見た。
「春日冠者の父御は後白河院の近習であったな。何故信連殿に会いに来たのだ」
「……今ここで、私の口からは申し上げられませぬ」
 言葉を濁す仲影を、成国はじっと見据える。が、顔をすっと上げて、また鍛師と話している御子の方へ視線を戻した。

 御子の太刀は、その年の暮れの雪の日に届けられた。伯耆の冬は雪深い。まだ先だと思っていても、ある朝突然雪景色になることもあるのだと、成国は言った。
小鴨と村尾の間に大きな戦はなかったが、小競り合いは時々起きていた。そんな毎日の中で、木々が色づき始め、秋の収穫をする。祭りに興じる。すると、ある朝、雪景色になっていた。
 都ではなかなか見ることのない重なる雪の山々。その美しい澄んだ色合いに御子は心を奪われ、思わず雪の中に駆けだした。白い息を何度も作りながら、真白な景色の中をやみくもに走る。空とも雪ともつかぬ白い世界にいると、何もかもがどうでもいいような気にさえなってくる。このままこの土地で暮らそうか。そんな思いが、胸を一瞬よぎった。
 そこへ、山間の細い道を馬に乗って鍛師が運んできたのだ。
 少し重めの、しかし手にぴたりと合ったしっかりした太刀が届けられた。
「重心を切先にもってまいりましたゆえ、少し振るうだけで太刀捌きが速うなります。お慣れになるまではお気を付けください」
 鍛師は恭しく頭を下げて帰っていく。御子は嬉しくて、雪の降る中で太刀を振ってみた。
「上手く使えそうか」
 背後で、いつの間にか出てきていた成国が言うので、
「ああ、とても。かたじけない。本当に頂いてよいのか」と、御子は振り向いた。
「ずいぶん嬉しそうな顔をするのだな。差し上げた甲斐もあるというもの」
 成国はそういうと、微笑んだ。
 御子の胸で何かが弾けた。成国の微笑みを、初めて見たことに気付いたのだった。

 その年、挙兵していた肥後、美濃、尾張の源氏方が、墨俣川の戦いで重衡率いる平家に制圧されたという報があり、またその後、挙兵した木曽の源義仲が北陸道を制したという報せも伯耆には届いていた。御子は、いよいよ日本国が大きくうねりだしたと感じていた。
年が明けて寿永元年正月。御子たちと成国は岸本の村尾邸に滞在していた。初春の祝賀を述べ、酒を飲む。と、成国はほんの数杯飲んだだけで、正体無く眠りこけてしまった。
「なるほど、これだから小鴨に囚われなさったのですね」
 仲影が、すこしおかしそうに、宴席で端近に寝転ぶ成国を見る。御子も笑いながら盃を傾ける。空になると、成盛がすぐに注いだ。
「春日冠者、実は、一つ折り入って相談がござるのだが」
 周りの家臣たちが田楽を舞ったり手拍子をしたりする中、成盛は目で奥の間を指した。御子は頷いて、奥の間に移った。一枚の襖板で、先程までの祝いの喧騒が遠ざかると、成盛は文机を引き寄せて、御子の前に伯耆の地図を広げた。
 大山を中心に書かれた地図の東、修験者の霊山――三徳山を扇で指す。
「三徳山、大山寺は、大山の中門院を除いて我が味方である。また、今の段階で、出雲、石見、備後へと使者を出して、我らにつく国を増やしておる。そこでじゃ、春日冠者、そなたの策士としての力をお借りしとうござる」
「私は、策士ではあらぬが」
「まあ、そう堅いことを申すな。貴殿の講策ぶりは目を見張るものがある。戦上手の成国とともに戦に臨めば、向かうところ敵なしぞ」
 御子は、しかし、渡りに船だと思った。村尾だけでなく、近隣の国と力を合わせれば兵力を持つことができる。
「つまり、約束をお果たしになると?」
 御子は成盛の目を見据えた。
「ううむ……」
 予想に反して、成盛が難色を示した。
「いまや、東国は、対平家で戦が起こっておる。木曽の源義仲は、越前で平家の大軍を退けた。平家の息のかかった小鴨を追い落とすなら、大義名分を掲げておいた方が、後々伯耆を治めるのに良いはず。それとも、約束を違えると仰せか」
 御子は、目に力を込めた。成盛ほどの男が、何故躊躇するのかが分からない。
 成盛は腕を組んで顎をさする。
「今、平家討伐を口にするのは、ちと尚早ではないか。今の段階で、与力を頼んでおる出雲や石見が乗るとは思えぬ。とくに旗印となる宮を我らが抱えているでもなし。むずかしいのでは」
 御子は、何とも苦い思いをした。
 ――旗印。大和ではこのせいで監禁され、また、今は自分の出自を疑うために、自ら名乗る勇気がない。
「……分かり申した。平家討伐を前面に掲げるは、もうすこし、機を見よう」
「しかし、村尾には与力下さるか。後々、必ず平家討伐を掲げますゆえ」
 御子は頷いた。
「では、まず、どこから始めるか、明日か明後日、僉議を持とうぞ」
 成盛は、地図をくるくると丸めると、御子の手に握らせ、宴の間に戻っていった。
 御子は、与えられた自室に戻って、櫃の中から小さな鏡を取りだした。後白河院の鏡に自分の顔を映してみる。あの夜、この鏡を手にした日から、時折自分の顔をこうやってみてきた。自分は、後白河院に似ているのか、成親に似ているのか。
膝の上に載せていた成親の数珠が、音を立てた。御子は数珠を手に取る。と、伽羅の玉の一つのとっかかりが指先に触れた。一度割れたのを修理した痕であろう。成親との最後の別れがまるで昨日のことのように瞼に甦る。また京に帰ってくると、そう信じていた。あれが最後の別れになるとは。
 御子は、唇をぐっとかみしめた。

 朱を入れて、今の勢力図を地図に記してみた。
 江府と日野、そして本拠地の会見荘の岸本。これら三つの地域を有する続き地以外は、ほとんどが小鴨の領地である。広大な土地。点在する小鴨の邸群。そして、昨年襲撃した小鴨荘。どうすれば、これらを村尾の領地に変えていけるのか……。
 一気に片をつけるには広すぎる。だからといって、それほど時間も掛けられぬ。となると、やはり、本拠地を叩くか、次は天神川の国庁を襲うか。しかし、前回の奇襲もかなりの難ものであったし、国庁を襲うとなれば、都から派兵される恐れもある。来るとすれば重衡か……。御子は身震いした。伯耆が火の海になっては元も子もない。では、小鴨兵の食料を絶つか。どうせ一度では片のつかぬ戦いだ。
「そんな方法には賛同しかねる。兵站を断つのは意味がない」
 成国が言った。すでに小鴨は海側の広大な平野部を占めている。食料にしても武具にしても、保管庫は随所に点在させてあるはずだった。それに、そのような状況で食糧庫を焼くなどの行為に及べば、兵の略奪にあい、苦しむのは伯耆の民だと。
「沿岸部に広がる平野部を、岸本の側から少しずつ取り戻してゆくのが常道だろう」
 成国がそういうと、成盛は、むむぅと唸って腕を組んだ。
「ずいぶん長くかかりそうじゃのぅ」
「伯耆の行く末がかかっておる戦。急いてことを仕損じては、元も子もありませぬぞ」
「はぁ、またお前は呑気なことを。だいたいお前が捕まらずに、小鴨基康の首でもとっておれば、今の状況はなかったじゃろうに。全く役に立たぬばかりか、救出せねばならぬ事態にまで陥りよって。使えぬ男など不要なのだぞ。妾腹にはいくらでも跡取りがおるのだ。お前など捨ておけばよかった」
「成盛殿、それはあまりの言いよう」
 御子は、胸が潰れるような気になった。ところが、成国は顔色一つ変えず、まるで聞こえなかったかのように、
「私は、まず、宇多河庄から初めて次第に東へ寄せていけば、そのうち新たな開路が見えると思うのです。今の段階ではあまりにあちらの領地が広く、またこれといった攻めどころもない。こういう時は、揺さぶるのもよいのではないかと。しかし必ず勝たなくては、三年前の壷(つぼ)瓶(かみ)山のようになってしまいますぞ。小さくてもよいので、ここで勝利するを見せれば、出雲、石見、はては備後も賛同するのでは」
「壷瓶山?」
「我らが領地を失う契機となった戦いだ。初めはほんの小さな小競り合いかと思われたが、当時三朝を治めていた東郷氏も討たれ、我らも領地の三分の一を失い、今に至ったのだ。特に今は、与力を頼んでいる状況。緒戦はなんとしても勝って見せねばならぬ」
 たしかに、成国の言うことは尤もだと御子も思った。しかし、どうにも気が急いて、御子は判断がつかず、成盛もよしとは言わなかった。
「そうか、成国殿も孫子を読んだのか」
 御子と成国は、成盛の居室から出て話しながら縁を歩く。
「一通り目を通しただけだ。そなた程精通しておらぬ」
「春日冠者殿」
 庭を横切ってきた門兵が、覚山坊なる僧が訪ねてきたといった。
 覚山坊はすっかり冷えて、御子の居室に入ってもまだ震えているので、當子が白湯を持ってきた。白湯を飲むと、白くなっていた覚山坊の頬に、ふわっと血の気が戻った。
「いや、実をもうすとな、あの後すぐ大山寺から下りまして、小鴨荘に入ってみたのです。旅の僧を装って、小鴨を見て回り、小鴨基康とも会いましたぞ」
 大山寺本堂への参道で御子が話したことを受けて、覚山坊は偵察に出たようだった。
「領内には、後白河院のご領、久永御厨もあり、豊かでございましたが、問題は、小鴨の本拠地、岩倉城ですな。小さいながらも難攻の城と思われました」
 久しぶりに父院の名を聞いて、ふと懐かしい思いに駆られた。伯耆で力をつけ、京に上る日はいったいいつになるのだろう。

 二月。ようやく雪の降りしきる日々が終わろうという頃、小鴨が攻めてきた。
やはり、村尾領と小鴨領の接する宇多河庄に兵を送って来た。村尾は兵を集め応戦する。二日に渡って決着がつかず、膠着状態が続いていたが、しだいに村尾が優勢になり、大山の裾野の鍋山というところにまで追いやった。
 成国は、大山寺に早馬を出し、こちらから大山側へ攻め上げるので大山寺側からも僧兵を鍋山方面へ下らせて挟撃してほしいと頼んだ。すると、すぐに返事がきて、「明朝攻めおりる」ということだった。
 すべては明日に決する――村尾側の士気は高潮のごとく上がった。
 日が昇る。
村尾軍の士気は高いまま、鍋山を攻め上がった。本来なら、高いところにいる兵を攻めるべきではないというのが兵法の常道ではあったが、挟撃するのであれば勝てる戦だ。
「攻めよ! 攻め上げて、大山へと追い上げるのじゃ!」
 総大将の成盛が、一気に追い上げようと、前線に出て発破をかける。小鴨は、村尾のあまりの攻勢に鍋山の向こうへ追いやられ、しだいに大山の方へと退陣してゆく。こうなればしめたものだった。大山寺の兵はもうそろそろ攻め降りてくるはずだ。
と、御子の頬を、ひときわ冷たい風が撫でた。と気づいた時には、西の方から突然、白い光を湛えた重い雲が流れてきて、厳しく風が吹きつけ始めた。良く分からぬままに、御子は西の空を見上げる。見る見るうちに、雪が冷たく吹きつけるようにふってきて、すぐに横殴りになり、あたりは暗くなった。
とても戦どころではなく、兵たちも皆蹲っている。小鴨兵は、走って退陣してゆく。
「御子様!」
 地を這うようにして仲影が御子の傍に来た。御子は言葉も発せず、仲影の腕をつかむ。前も後ろも分からぬような猛吹雪に身動きが取れず、身を固くして災難の通りすぎるのを待った。一時ほど耐えたであろうか。雪と風は鍋山周辺を経て、大山寺に昇って行く。
 雪雲が切れて、村尾兵は一人、また一人と、雪の中から立ち上がったが、中には、冷たさのために動けず、意識のない者もいた。そこへ、東から突然、小鴨兵が仕掛けて鍋山を上がってきた。
 ここは、小鴨領。鍋山の向こうの裾には、いくつも邸があった。こちらは吹雪を鍋山の山頂付近でやり過ごしたのだ。頼みの大山寺はいまだ吹雪の中。
 凍えて動けぬ村尾軍は、建物の中に避難していた小鴨兵が攻めてきても動けない。まるで赤子の手をひねるように、小鴨兵は村尾兵を斬り刻む。御子と仲影は氷のような体でそれを見るより他、どうすることもできない。既に気を失って倒れている兵や手足が凍えて動けぬ兵を、どうすればよいのだ。呆然としていると、後ろから荒々しく腕をつかまれた。
「二人とも何をしている、退くのだ! 動けるものは退け。走って逃げろ!」
 成国が仲影と御子の腕を引いて走り出す。御子は、足が思うように動かず、何度も転びながら、成国に引きずられるようにして鍋山を下り、幕屋にもどって馬に乗ると、村尾領に命からがら逃げかえった。
 後になって伝えられた報では、大山寺から山を下りていた僧兵の多くは吹雪で命を落としたということだった。村尾も兵を減らした。その上、領地は戦が始まる前の状態に戻り、ただただ兵馬の命を失っただけの戦に終わってしまった。
緒戦必勝という目論見は大きく外れ、御子たちは負け戦を周辺豪族に見せてしまったのだ。しかし小鴨軍にも、この度の戦は消耗戦だった。領地が拡大したわけでもなく、押され気味だったのをもとに戻しただけだった。互いに消耗戦を強いられた両軍は、当分の間は鳴りを潜めることになった。
 成盛は、肩に傷を負って寝込んだ。命には別条ないものの、当分は安静を強いられていた。痛みに我慢できなくなると、成国を呼びつけ、お前が跡取りらしくきちんと国を管轄できないからだと怒鳴った。
相変わらず、成国は表情一つ変えることはない。何を言われても気にも留めていないようだった。そんな怒鳴り声を聞きながら、御子は、気分が晴れぬまま日々を過ごしていた。気ばかり急いていたが、急いてはならぬと成国に釘を刺されていた。それでも気鬱が襲い、居室に鬱々と籠もることが多くなった。
 そんなある日、成国が海を見せてやるといって御子を誘った。海なら大物(だいもつ)から瀬戸の海を見たことがあるからと断った。
「北の海はまた違うのだ」
 いつになく成国が強く誘うので、御子はしぶしぶ馬にまたがった。


四、伯耆合戦

 外に出るのは久方ぶりだった。敗戦から二週間ほど経っていた。風はまだ冷たく、しかし、雪はもうなかった。岸本から北へ行くと、汐の香りがぐっと強くなり、人家もまばらになった。背の高い木も少なく、所々草が生えているだけだ。もの寂しい風が吹いていた。足元は、土というより砂に近くなって来た。
 成国の後から駒を進める。丘のようになっているところの頂点に立った成国は、御子に振り向いた。早くここまで来いと目で言っている。丘を上り切ると、景色が変わった。
 潮風が頬を殴るように吹き、海が――。
 広い。
 このような世界があるのかと、御子の目は開かれた。
 ただただ果てのない大海原は蒼鉛色で、砂地に白く泡立つ波が打ち寄せている。
 その表情を見て、成国は微笑む。優しい微笑みだった。
 成国は馬を降りると、草履を脱ぎ、裸足で海に向かって歩く。御子もまねたが、足の下で砂が動いて上手く歩けなかった。手綱を離れた馬は二頭連れだって、砂浜を駆けだした。御子が不安げに馬を見送っていると、
「自由にさせてやれ。遠くには行かぬ」 
 と言って、成国は波打ち際の方へすたすたと歩いていった。
 御子は、何度も転びそうになりながら成国の後を追う。近くまで行くと、成国が御子の腕をつかんで支え、海を指さした。
「これぞ海。そなたが見た瀬戸内とは違うであろう」
 御子は頷く。海を見ていると不思議に気が晴れた。強い風が心の中の澱を吹き飛ばしてくれるような感覚さえ覚えた。胸の澱が飛ばされるにつれ、自分の欝々とした執着も今はどうでもよいような気にさえなった。
 父院は遠く、あのごみごみした京で、平家と水面下の戦をしている。しかしここはどうだ――。ただただ広く、目に入るものは、海と成国だけだ。
 遠く水平線を眺める成国の横顔は、ほんの少し微笑みを湛えているようだった。
 成国に会う前に聞いた女房達の言では、成国の笑顔は見たことがないということだった。それはおそらく、父成盛とともにいるところでしか、女房達は成国を知らぬからだろう。
 そう思い、御子はつい、胸にあった疑問を口にした。
「成盛殿はなにゆえ、成国には、ああも口汚く罵るのだ。民や家臣には厳しいながらも器の大きいところを見せる立派な領主なのに」
 成国は、御子の方は見ないまま、困ったように笑った。
「幼き頃より、その問いは幾度となく我が胸に沸き起こった。不甲斐ないと言われて雪の中に、裸で一日立たされたこともあった。幼い頃に母を亡くし、頼る者もいない。苦しくて泣きながら馬を駆けたこともあった。が、そのうち諦めたのだ。いくら何故だと問うても、答えなどない。父に問うてみたが答えはなかった。なれば、こちらから父を手放せばよい、そう思うようになった」
 そうか。それでいつも無表情に生きているのだ。何か言われてもそれを胸で受け止めず、考えることも悲しむこともやめてしまったのか――。
「春日冠者」
 呼ばれたので振り仰ぐが、成国は何も言わずにじっと御子の顔を見る。
 ああ、この目だ。この目をいつから私は恐ろしいと思わなくなったのか――。
「そなたの名は何と言うのだ」
 小刀で胸を突き刺されたような衝撃だった。しかし、御子は何も言えないまま、人を見透かすような成国の眼差しから、目が離せずにいる。
「名を……」
「わ……たしの名など、なぜ気にするのだ。どうでもよいであろう」
「呼びたいのだ。名を教えよ」
 御子は身を引こうとしたが、成国は腕を放さない。
「は、放せ!」
 御子は成国の腕を振り払って逃げようとしたが、成国の力に勝てるはずがなかった。
「放せ! 放せ、放せ、放せ!」
 御子がひどく暴れると、成国は御子を抱きすくめた。
 驚いたのは御子だ。一体何が起こったのかわからなかった。が、満身の力を込めて、成国の胸を押した。しかし、びくりともしない。
「何なのだ、成国。放さぬか!」
「名を聞きたい」
 成国の顎が、御子の耳に当たる。
「そなたの名を知りたい」
 成国の声が耳に触れるようで、御子は堪らなくなって大声を上げた。
「名はないのだ!」
 叫びに似た声だった。
さすがの成国も驚いて御子を手放した。御子は、その目を見つめながら肩で息をする。
「……名は、頂けておらぬのだ」
「権大納言は、そなたを子と認めなかったのか」
「違う……そうでは……」
 こうなってはもう、どうしようもなかった。苦しくなって胸を叩いた。成国は驚いて、その手を握って止めた。御子の悲壮な表情を見て、成国は目を開いて眉根を寄せ、御子をまた抱きしめた。
 御子は、抱かれるままにおとなしくした。苦しかった胸が、成国の温もりで楽になっていく。つい、その温もりに甘えて目を閉じ、胸に顔をうずめた。風の当たる冷たい背中も、成国の腕で守られた。
「話してみよ」
 頭の上で成国の声がした。それでも勇気が出なかった。が、成国は、御子の両肩をもって自分の胸から引き離し、御子の目をじっと見据えた。
「話してみよ。何故伯耆にまで来て平家に戦を挑んでおる。何故、男の格好をしておる」
 力が抜けた。
 この男はお見通しだったのだ。目論見があって伯耆に来たことも、女であることも。
「驚くことではなかろう。そなた、もう十七、八だと聞いた。いい年をした男が、元服もせずいつまでも長い髪を後ろで束ねているのは、おかしいではないか。伯耆の日に当たって鍛えられても、柔らかい頬はいつまでも変わらぬではないか。衣を重ねて体は隠せても、その眼差しも優しさも、女子(おなご)そのものだ。なぜ男に身を窶して、平家を倒さねばならぬのだ。そのことと父御と、どのような関係があるのだ」
 御子は、諦めたように息を吐くと、その場にへたり込んだ。成国はともに砂の上に腰を下ろし、御子の顔を心配そうに見た。
「私は、後白河院の落胤であるらしいのだ」
「らしい、とは」
 成国は不思議そうに御子を見つめた。御子は観念した。
 九条院に育てられたこと、後白河院との対面と約束、兄宮とともに起こした戦、大和での出来事、そして、自分が誰の子か判断がつかぬということも、すべて包み隠さず話した。
「そうか……」
 成国は、ただそれだけ言うと、御子の頭を抱えて自分の胸に抱いた。そしてそのまま、二人は海の風に吹かれていた。
 風は先程と変わりなく、厳しく二人に吹きつけた。しかし、御子は自分の頭を抱える成国の大きな掌の温かさに、ゆっくり目を閉じた。秘密をもたずに関わり合える人間が一人出来たと思うと、そして欝々としていた悩みを口にしたことで、ゆったりとした安堵が御子の胸に生まれた。
「名も与えぬとは、父御の考えが読めぬ。今の話だと血筋を疑うというより、ほかの理由のように思うが。どうしても、後白河院に名をもらわねばならぬのか」
 御子の頭の上で、成国が囁いた。成国は、遙か水平線を見つめている。
「分からぬ。しかし、後白河院が父親でなければ、今までの私はどこへ行けばいいのだ。そして一体私は何者なのだ。とても……不安で」
 成国は、御子の肩を起こし、御子の両頬を手で包んだ。その目に吸い込まれそうになる御子の額に、自分の額を押しつけた。
「私の国の字を一つやる」
 鼻先が触れる。
「今からそなたは国子だ。誰が何といおうと、私はそう呼ぶ」
 御子は呆れたような気持ちになった。ところが、成国が「国子」と呼ぶと、不意に胸が温かくなり、自分という実存がうっすらと生まれた気がした。
「国子」
 御子は成国の目をじっと見つめる。
「呼ばれれば、返事をするものだ」
「……はい」
 御子の胸に灯った熱は何だったろうか。生きている喜びに似た感情が、体中に沸きあがった。成国に唇を吸われた。胸が痛いほどに焦がれた。
 
 仲影は、近ごろ不穏な空気を察知していた。當子もそうだった。
 食事をするのに、今までなら御子の居室で、仲影當子兄弟と覚山坊が御子とともに膳を囲んでいた。ところが、成国が食事に加わるようになった。それだけなら何も怪しまぬ。しかし、時折ふと視線を上げて見つめ合ったかと思うと、ふいと互いに目を反らす。そして、御子の耳がほんのり桃付くのだ。
 仲影は、思いきって聞いてみようとおもう。が、どう聞けばよいのか。言葉を選んでいるうちに何も言えなくなる。その日も、厩舎で御子と成国が睦まじげに話しあっているのを見て、何と声をかけようかと唇を震わせた。
 ――お出かけですか。雨が降りそうですが。
 そう声をかけてみようか。しかし、その後どう聞けばいいのだ。
 その仲影の様子を見ていた覚山坊は、じれたように足を踏み鳴らして縁側から降り、御子の方へどかどかと近寄った。
「一体どうなっておるのです、御子(みこ)! この男と何かあったのではありますまいな」
 その瞬間、その場にいた全員が、身動きが取れなくなった。
 御子と成国は、何かあったといわれて何とも言えぬ顔をしたし、仲影と當子は、覚山坊が人前で言うにこと欠いて「御子」と呼んだことに身を固くした。そして、その場にいた馬飼らは、よくわからぬ顔で、ひそひそとやりだした。
「御子、と申したか、覚山坊」
 縁からしわがれ声が響いた。御子が恐る恐るそちらに視線を向けると、成盛がそこに立っていた。
「お子、ではあらぬのだな。御子(みこ)、で間違いないのじゃな」
 成盛が念押しすると、成国が父の前に近寄った。
「だからどうだと申すのです。春日冠者という名は長くて呼びにくい。なれば、みなで御子と呼ぼうと」
「おまえは黙っておれ、成国。下手な繕いをする辺り、いよいよ怪しいぞ」
 肩をかばいながら、成盛は縁から降り、御子の前に立った。
「御子……」
 そして、確かめるように御子の周りを何度も回った。
「たしかに、ただの貴族とは違う。何かが。このたおやかさ、所作の美しさ。王胤に相違ない」
 そういうと、その場に急に跪いて両手を地面についた。あまりの勢いに、砂が舞った。
「いずれの宮様にあらせられますか。なにとぞ、なにとぞお答え下さりませ」
 急に言葉遣いを改めて、成盛は額づいた。
「おやめくだされ。私は権大納言の子です」
 不思議と胸がチクリとしなかった。
「さ、成盛殿」
 御子は、成盛の腕をとって顔を上げさせようとしたが、地面から額を少しも浮かさない。
「父上!」
 成国が、地面から成盛を抱え上げた。
「ええい、放せ! 御子様の御前なるぞ。控えぬかこの不埒者めが」
「いい加減になされよ、成盛殿!」
「いいえ、御子様」
 意外にも声を出したのは、仲影だった。
「もう、お隠しあそばされぬよう」
「仲影……!」
 仲影は御子の前に立ち、成盛を見降ろした。成盛はまた急いで額づく。
「この御方は、治天の君後白河院の御子なれば、そなたらには控えるべき御方である。ご身分を伏せられていたとはいえ、数々の無礼なる振る舞い許されざること。今までのことは咎めぬが、今後は心得てお仕えせよ」
「仲影!」
 御子は、仲影を自分の方に向けさせた。その時、仲影の不遜な眼差しを、御子は初めて見たのだ。訝るような窺うような、悲しみに満ちつつも怒りが湛えられていた。
「成国殿は、ご存じの由。で、あれば成国殿にもお控え頂かねばなりませぬ。御子様、おいそれとお声がけも許されぬご身分なれば、どうか邸内にお戻りあそばして……」
 パン!
 と、御子の手が仲影の頬を打った。仲影は驚くが、御子は唇を引き結んで睨みつける。
「み、御子様……」
 御子は、馬に飛び乗ると邸から飛び出した。
 仲影も當子も、そして覚山坊も、御子の後姿を呆然と見送った。成国が馬で後を追う。
 御子はやみくもに馬を走らせた。日野川沿いに南へ南へと走る。曇り空からぽつぽつと大粒の雨が、一つ二つと落ちた。と思う間もなく、ザアッと突然激しい雨が降り始め、雷が轟きだした。
「国子!」
 成国は後ろから声を開けた。しかし、御子は振り向きもしない。成国は馬の首を並べて、
「国子! 雷に打たれるぞ!」
 そう言って、御子の馬の手綱を引いた。二人は木々の茂る林に入り、うち捨てられた小屋を見つけた。農夫の家だったらしく、畜舎があり、家屋もある。馬を畜舎に入れると御子を連れて、家屋の方へ入った。
 成国は、火打石を腰袋から出し、囲炉裏に火を入れた。土間にぼんやりとして立ったままの御子の手を引き、囲炉裏端に座らせる。
「真冬でなくてよかったな。そう寒くはない」
 成国がそう言ったが、御子は、何も答えなかった。
「気に病んでも始まらぬ。いずれは皆に知れたはずだ。もう考えるな」
 御子は何も言えない。憂鬱そうに炎を見つめるだけだ。 
「大丈夫だ。私が守ってやる」
「……院の御子と知れた以上、成盛殿が放っておくはずがない。旗印にし、私を利用するだろう」
「させぬ」
「しかし……」
「わが室となれ、国子。我が妻(め)となりこの伯耆で生きればよい」
 御子が目を見開いた。成国の目は、御子を捉えてはなさない。
 驚きと困惑のうちに、御子は成国に強く引き寄せられた。

 翌日昼、雨はようやく上がって、御子と成国は岸本の村尾邸に戻った。
 門を入ると、村尾のすべての家臣たちは、地面に額づいて御子を迎える。御子は、手綱を握る手に力を込めた。下馬すると、成国は成盛の居室へ、御子は自室へ戻った。
「戻ったか。御子はご無事であろうな」
 腰を居ずまいを正す成国とは逆に、成盛は焦るように立ちあがった。
「無事です。ところで父上」
「これは天が与え賜うた好機よ。これで渋っておる出雲や石見、備後も否(いや)とは……」
 成盛は、左手の掌を扇でパンパンと叩きながら興奮したように笑みを浮かべ、居室の中を歩きまわる。成国は、正座したまま、その父親を見上げた。
「父上」
「いや、他の国や豪族たちも与力する。うむ、きっとそうする。さすれば、小鴨などひとたまりもないわ」
「私は、御子と夫婦になりました。我が室として迎えようと思います」
 成盛は、立ち止まって、自分の息子をじっと見降ろした。
「……誰と、夫婦になったと」
「御子です」
 成盛はよくわからぬ様子で成国の前に屈み、息子の顔を間近に見た。
「何を申しておるのじゃ、どうした、成国」
「御子を我が室にいたします。本人も了承しています」
 成盛は、かなり長い間悩んでいたが、
「男色か。に、しても室にはできぬ」
「御子は、女です」
 成盛の顔色が変わる。見る見るうちに目がつり上がった。
「ありえぬ」
「事実です」
「いや、女であってはならぬ。かの御方は院の御子なのじゃ」
「その、院の御子、というのも、少々難儀がございます。落胤ですので、後白河院には認められておりません」
 成盛は、身を引くように立ちあがって、成国を見降ろした。
「ならぬ……ならぬぞ。かの御方は院の御子でなくては。よいか、院の御子で、男である。そうでなくてはならぬ」
「しかし、われらは」
「ならぬ!」
 成盛は声を荒げて、手にしていた扇を成国に投げつけた。成国はよけもせず、扇は胸に当たってはねた。
「ならぬも、なるもないのです」
 成国の言葉に、成盛は首を震わせ顔を真っ赤にした。そこへ、縁から声がかかった。
「お館様、備後よりお返事が」
 文を受け取ると取次の者を外に出し、成盛は成国を睨みながら文を開く。
「それ、もう早速に備後が与力を申し出てまいったわ」
 成国は、眉をひそめた。
「まさか、院の御子のことを、他国に漏らしなさったのか」
「成国、これは政(まつりごと)ぞ。機を逃してはならぬ。この前のように無駄な戦を繰り返し、伯耆の力がそがれでもしてみよ、他国が攻め入ってくるわ」
「父上、御子はわが室……」
成盛は、手で制し、
「おまえは、のう、成国。非情になれぬところが疵じゃ。お前の気持ちなどはどうでもよいのじゃ。男だろうと女だろうと、それもどうでもよい。伯耆じゃ。全ては伯耆にとって何が一番良いかということじゃ。お前はそれだから、領主の器にあらずというのだ」
 成国の顔から、すうっと表情が消えた。そして立ちあがると、
「事実は曲げられませぬぞ。我らは夫婦。そのうち、赤子もできましょう」
 成盛は、深くため息をついた。
「わかった。御子をここへおつれせよ。お前も同席の上、話しあおう」
 そのころ御子は、自室で仲影と対峙していた。
「なにゆえ、私を裏切るような真似をしたのだ」
「裏切るなど、そんな、そうではなく」
 仲影が、必死に手をついて頭を下げる。
「我が意に反することをすれば、裏切りではないのか」
 仲影は思い知った。いくら乳母子だと言っても、思い上がってはならなかったのだ。いや、思い上がっていたつもりはなかった。ただ……。
「御子様が、この仲影の知っている御子様ではなくなった気がしたのです」
 御子は言葉がなかった。そうか、自分は変わってしまったのか。しかし、いつの自分からどう変わったというのだ。もはや幼き時の自分ではないし、兄宮に会う前の自分でもない。自分の出自を疑う前と後とでは、自分はかなりぐらついた。そして、成国と出会ったことは、確かに自分を変えた。いや、自分の中にあったものが引き出されたのだ。
 御子が答えぬのを、當子は御子の怒りが収まらぬのだと思ったようで、大急ぎで仲影の横に同じように手を付き額づいた。
「兄様をお許しください。兄様は、きっと御子が遠くに行かれた気がしたのです。寂しかったのです。だって、私も同じだったのですもの」
 覚山坊は、すっかりしょげて肩を落とし、端近に畏まっている。
 御子はため息をついた。
「もうよい。やってしまったことは仕方がない。一度出た言葉は取り消せぬ」
 そこへ、邸の者が来て、成盛の許へ来るように言った。
 上座を譲る成盛を無視して、御子が成国の横に座ると、成盛はまた恭しく畏まった。が、その目が一瞬、御子の肩や足首に確認するように走ったのを御子は見た。
「御子様。仔細は成国より聞き申した。夫婦となられたとは……。正直戸惑っており、受け入れがたきことにございます。が、わしも、息子の情を汲まぬわけではござらぬ。そこで、少し待って頂きたい。小鴨を制し伯耆を一つにまとめるまで、院の御子として御振る舞い戴きたいのじゃ。伯耆が一つになったその暁には、その日の内に我が息子の正室として御迎え申し上げます。いかがじゃ」
 都合の良いことを、と御子は思った。成国も同じように思ったらしく、
「父上、恥かしいとは思わぬのですか」
 と嗜めた。そこへ、縁側から声がして、文が二通届けられた。
「出雲、石見も院の御子の下、平家討伐に与すると、ほれ、この通り文を送って参りました」
「平家を……」
 御子の眉が開いた。それを見逃す成盛ではない。
「御子様は何故ご身分を隠されたのです。あなたがひとたび御名乗り給えば、平家討伐の与力などすぐに集まりましたものを。ご身分を利用なされませ。ご自身の夢のために、我らをお使い下さればよいのじゃ」
 ――身分を利用し、平家を倒す。
 御子の心に兄以仁王が甦った。兄も、同じようなことを言っていた。
 御子の心が動いたのを成国は感じ取り、思わず御子の手を握りしめた。成盛が、何とも言えぬ顔でそれを見ていたが、御子は、隣の成国の顔をじっと見守った。
「わが室として生きよ。自分のために生きるのだ。名も与えぬ親に何を求めるというのだ」
 御子は、成国の底光りする瞳をじっと見つめた。
「御子様、何故平家討伐を申し出なさったのです。後白河院に王権を御戻しなさるためではございませぬのか」
 御子は、成盛を見た。そして、視線を自分の手に落とした。
 兄とともに見た夢を、今ならかなえることができるかもしれぬ。清盛の首はかなわなかったが、王権を父院にお返し申し上げれば、私を受け入れてくださるやも知れぬ。
 御子の胸の奥で、ひそかに、しかししっかりと鼓動が早く打った。
 長い沈黙の末、御子は成盛に対して居ずまいを正した。
「伯耆だけでなく、そのまま上洛し、平家を討つのに兵力が裂けるか」
「国子!」
 成盛は、畏まって、恭しく額づいた。
「かしこまって候」

 御子と成国は、長い間口を利かなくなった。
 御子は、どうしてもあきらめきれぬ夢なのだと、正直な気持ちを成国に伝えたいと思ったが、成国は目もあわせない。一週間、二週間と言葉を交わさぬうちに、声をかけようとするのさえ怖くなって来た。
 そうこうしているうちに、出雲、石見、備後の三領主がやってきて、僉議の場を持つことになった。御子は、大広間の上座に座らされ、三領主の拝礼を受ける。御子の左右に分かれて成盛と成国が座し、中央に地図が開かれた。
 出雲、石見は村尾氏の後方から援軍を出し、共に東へ押し進める。備後は、蒜山から小鴨方面へ北上し、小鴨庄の小鴨邸を揺さぶることとなった。決行は七月下旬から八月にかけて、情勢を見極めつつ、小鴨に戦を仕掛けることと決まった。
領主達と酒宴を催したが、成国は酒を一滴も口にせず不機嫌な顔のまま始終過ごした。成国の様子に、領主たちは少々恐ろしいものを見る目つきでいたが、院の御子の前とあってしきりに機嫌よく振る舞うそぶりを見せた。
 宴を終えて自室に戻ろうとする成国を、御子が呼び留めた。刹那足を止めたが、成国は振り向きもせずそのまま歩く。御子は腹に据えかねて、後を追いつつ気持ちをぶつけた。
「今日の態度は何だ。みな、命をかけて戦に臨むのだぞ。注がれた酒ぐらい飲みほせ」
 まるで聞こえていないかのように成国は大股でどんどん進んでゆく。御子は、必死について行きながら、眦を釣り上げる。
「信頼関係を築けぬ者同士が、同じ軍として戦えると思うてか。遠方より僉議に来た人々だ。にこやかにせずともよいが、せめて……」
 成国は自室に入ると、御子の目の前でスパンと板戸を閉めた。御子は収まりがつかず、
「よいか、明日は、きちんと見送って差し上げよ。わかったな」
 そう声を荒げて踵を返す。と、板戸が開いて腕が伸び、御子は室内に引き込まれた。
 明りも灯らぬ室内で、御子は成国に抱きすくめられていた。
「成国……」
 成国は、まるで御子のぬくもりを確かめるように、御子のこめかみに頬をすり合わせる。
「酒はやめたのだ。眠り呆けてしまってはそなたを守れぬ」
 御子は呆れるが、成国が久しぶりに言葉を交わしてくれたことに、安堵した。
「心配には及ばぬ。私とて武芸を身につけておる」
 御子は、成国の胸を軽く撫でると、外へ出た。高鳴る胸を抑えながら、自室へと戻った。見上げると、空は満天の星だった。星空を背景に、大山の影が黒く切り取られていた。

 寿永元年八月、戦の火蓋が切って落とされた。
 この二月に辛酸をなめた戦の、再現のような始まり方だった。ただ前回と違うのは、村尾側からしかけた戦だということだった。まずは、村尾軍が、岸本より東へと軍を進める。小鴨軍は追いやられながらも、二の轍は踏まぬと見えて、海側へ海側へと退路をとる。
 旗印の御子を総大将にもっとも後方へ置くべきだという成国の意に反して、御子は前線に出た。総大将は成盛とした。
 広い平地で戦するのは、まるでいつまでも終わらぬような疲労感を抱く。身を隠す暇もなく、次から次へと敵を斬って前へ進む。一歩でも二歩でも、東へと進まねばならない。村尾軍優勢ながら、簡単に勝敗など決まるはずもなく、幾度となく夜を迎えた。村尾軍側は、後方の出雲軍と交替して体を休める。無傷の出雲軍が、翌朝から小鴨軍を圧倒した。前線は大山から流れる阿弥陀川の幾本にも枝分かれした支流を越え、八橋川へ移動した。
 ここからは石見軍と村尾軍が共に小鴨軍に当たる。足元がわるく、苦戦を強いられるのは目に見えていたが、ここを越えなければ、小鴨を倒すことなどありえなかった。
 小鴨軍は退去するとすぐに橋桁を外すので、村尾勢は、膝まで水につかってその都度川を越えなければならない。川に入れば矢が飛んで来る。越えれば水を含んで重くなった直垂に足を取られる。支流が多いために何度もそれが繰り返される。中には体力を消耗してしまって、動けなくなる兵も出てきた。
負傷兵に手を貸しながら、御子は前へ前へと進んだが、川底の苔に足を滑らせて、川の中に転んでしまった。
「怪我はないか」
 成国が、敵の矢を太刀で払いながら、御子をかばって退行する。
「大事ない。滑っただけだ」
 御子はもと居た岸に上がってつま先だって遠くを見た。
「この川の、もう一つ向こうの川は水が少ないようだな。ここさえ渡れば攻めやすそうだ」
「珍しいな。いつもはどの川も同じように水があるのだが」
 そう言っているうちに、今御子が滑った川も、次第に水量が減ってきたように感じた。
「御子様、今の内に渡り切りましょう! 後ろから出雲の軍も追い上げてきています。ここで一気に東へ進めば、あとは、小鴨邸の近辺。背後から備後も挟撃するでしょう」
 仲影と覚山坊も戻ってきてそう言った。
 御子は、後ろを振り向く。半日休んで勢いづいた出雲軍が、早くいけとばかりに追い上げてきていた。
「行こう。もう少しだ」
 御子の声に、皆肯いて再び川を渡り始める。小鴨軍は、次の川の向こうまで退いてしまっているので、今度は難なく渡り終えた。次の川の対岸で小鴨軍が待ち構えている。日は少し傾き、大山が広大な山裾を赤く染め始めた。濡れて重くなった足を運び、川の中に入る。水はほとんどなかった。これは随分楽だ。そう思った時、不意に嫌な予感がした。
 なぜ、小鴨軍は射掛けてこぬのだ? 申し訳程度には矢が飛んでくるものの、あれだけの人数が待ち構えていて一斉に射掛けぬのはおかしい。それに、先程の川は、一度目は転ぶと溺れそうなほどの水嵩だった。二度目に渡ろうとすると、足首ほどに水量が減っていた。たった数刻の内に、水の量がそれほど変わるなどということが、あるのだろうか。
 さらに今渡っている川も、いつもならもっと水があると成国は言った。足許を見れば、たしかに苔が表に露出するほど、水が減っているようだ。
「成国、今年はいつもより雨が少ないのか」
「いや、例年通りだろう」
「ではなぜ、川の水量が減っているのだ。それも、突然水が少なくなったようではないか」
 御子が指さしたところには、魚が水たまりを求めてぴちぴちやっている。
「はっ!」
 成国の息をのむ音は、聞こえるほどに大きかった。そしてすぐ、大音声を上げた。
「村尾勢! 退け! 今すぐ取って返せ! 水がくるぞ!」
 成国の声に、村尾勢はぐらついて、及び腰のまま退却する。御子も成国に手を引かれて戻る。その時、上流から恐ろしい音を轟かせて、水が迫って来た。
 成国は、御子を肩に担ぎ、岸に向かって走る。あと少し、というところで、雪崩のように大量の水が押し寄せ、成国もろとも御子を押し流した。
 水に巻かれた途端、耳にはごろごろという音しかせず、上も下も分からぬほどに、くるくると体を持って行かれた。泥水を何度も飲み、手をばたばたさせて水面から顔を出した。
 息が、辛うじて出来た。しかし、水圧が強すぎて泳ぐなどとてもできない。浮きつ沈みつして、下流へと押し流される。御子は岩にぶつかることだけは避けながら、仕方なく流れに身を任せた。それでも、流木や石に体は傷めつけられる。
 成国は、どこへ行ったのだろう。流れながら見まわしても、姿など見えない。
 そのうち、川幅が広くなってくると水の勢いも穏やかに落ち着てきて、御子は、岸に生えていた木の枝に捕まった。何とか水から上がる。体が重く、冷たい。あちこち切り傷ができている。それでも状況を把握せねばならない。よろよろと立ち上がって見渡したその風景には、呻き声を上げながら岸に転がっている多数の村尾勢の姿があった。
「なり……くに」
 御子は、体の痛いのも忘れて、成国を探して歩いた。途中動ける者がいれば、西側に避難せよと告げながら、成国を探して回った。
「覚山坊!」
 覚山坊が、兵たちを担いで、岸に上げているのに出会った。
「成国は? 仲影は?」
「分かりませぬ。とにかくひどい状況で。小鴨のやつら、水をせき止めてやがったのだ!」
 覚山坊が悔し気に、山の方を見上げる。
「私は成国らを探す。覚山坊、ここは頼めるか」
「おまかせを」
 御子は、またよろよろと川岸を歩いた。そこには、骸がごろごろと転がっている。恐怖で息が上がってくる。しかし、それをぐっとこらえて、御子は川に入った。川底に沈んでいるかもしれないと思ったのだ。腰まで水につかりながら、成国を探す。束ねていた髪はほどけ、直垂の袖もちぎれ、よろいもどこかへ落としていた。
「成国……」
 御子の顔は歪む。
「成国!」
 涙が溢れて止まらなくなった。手の甲で何度もぬぐいながら、川の中で気が狂ったように叫んだ。
「成国! どこだ、どこにいるのだ!?」
「御子様!」
 声に反応して振り向けば、仲影が必死の形相で川の中を歩いて御子に近寄ってきていた。
「仲影、成国がおらぬ! 自分は逃げられたのに、私を抱えていたばかりに!」
「とにかく、岸へおあがり下さい。成国殿ことです、上流に戻られている可能性が高い」
 御子は仲影にそう言われて、重い体を引きずるように上流へと戻る。岸から見る風景は、目を背けたくなるほどだった。至るところに転がる骸は、次第に膨れ始めている。被害は甚大だったが、あの時成国が退却を叫ばなければ、今以上に死んだかもしれなかった。
 上流に成国はいなかった。御子は、成国の姿を求めて、また下流へ行こうとする。止める仲影と口論になりかけていた。
「ではせめて、成国が流されたことを成盛殿にお伝えすべきだ」
「総大将のおられるずっと後方まで川をいくつも越えて戻られるのですか? もう暗うございます。今は戦しているのですぞ。勝つことだけをお考え下さい」
 仲影の言葉に、御子は返す言葉がない。自分が望んだ戦であった。勝たねばならない。勝って京へ上らねば。しかし、成国を犠牲にするなど、思っても見なかった。

五、院の御子

 夜はすっかりふけた。いくら探しても、成国の姿は見つけられなかった。
 濡れたことで体は冷えたが、御子の体の震えは、冷えからくるものではなかった。
 もし、あの時、あの、成盛が戦を提案したときに、否と答えていたら――? もし、あのまま成国と三日夜の餅を食べ合うて、室となっていたら――? 父院のことも都のこともすべて忘れて、生きていたら――。
 いや。
 御子は首をゆっくり横に振った。
 どう考えても、軍勢を整えて上洛することは、外せぬ。父院に女であることも明かしていないのだ。何故不吉なのかも問いたださねば、自分が納得できない。ここであきらめるという選択など、ありえぬ。
 ――戦に勝つことだけを考えるのだ。
 歯を食いしばって、御子は対岸を見た。
 小鴨の兵は、余裕綽々、火をともして夜の帳をしのいでいる。こちらは味方の遺体に囲まれて、苦しい息をしているというのに。
 空は、満天の星で薄明るい。対岸の小鴨軍のその向こうにある丘の森の陰が、薄明るい空の下で真黒な獣が蹲っているように見える。と、その木々の影から、突然鳥がざあっと羽ばたいた。夜空を一斉に、あのように鳥が飛び立つことなどあるのだろうか。
 ――備後か!
「皆、弓を持て! 小鴨兵がこちらへ逃げてくるぞ! 小鴨兵の背後から、備後が迫ったに違いない」
 御子がそう叫んだちょうどその時、ぐわっと地面が揺れるように、小鴨兵が一斉に、御子たちの方へ雪崩をうって走り逃げてきた。そして川に入る。
「矢を放て!」
 村尾兵は、仲間の弔い合戦と見て、一斉に川に向かって矢を放つ。小鴨兵はひとたまりもなく、川の中で射貫かれ、流れ、沈んだ。矢が尽きるまで撃てと御子に言われたが、矢が尽きるどころか、敵が尽きてしまいそうなほどの矢数だった。

 夜が明ける。
 薄っすらと明るくなり、辺りが見え始める。川面は骸に覆われていた。真っ赤な川が、とうとうと北へと流れている。それを、一睡もしなかった村尾勢は、ただ黙って見つめた。小鴨の軍兵は一人たりとも生き残っていない。恐ろしいほどの静寂だった。
 ――ピシャリ。
 何かが川に入った音がした。御子は、その音の方を、弓矢を構えて見据えた。
 一人、生き残った者があったか。
 矢じりの先にゆらゆらと動くその人影を、御子は狙って見つめた。
 その影は、薄明るくなってきた空気の中、骸を跨ぎながら川を渡ってくる。大きな肢体で、艶やかな長い髪を揺らして――。
 ――!
 御子は構えていた弓矢をその場に捨てて、影に向かって走りだした。
 影も、一旦足を止めたが、急に歩を速めて御子に駆け寄った。
「生きていたか!」
 互いに体を確かめて、固く抱き合った。

「孫子の兵法の行軍篇を思い出したのだ」
 成国は焚火に手をかざしてそう言った。
 朝夕冷える秋の八月を濡れた体で戦ったのだ。皆体は冷えきっている。日がすっかり昇り、体を温めるために焚火をして皆休んでいた。
「鳥が飛び立つのは伏兵がいるからだと、確かにある」
 御子は、納得したように頷いた。
「小鴨はすっかり勝ちを確信し、鎧を脱いで食事までしていた。小鴨の兵があれだけ居て、孫子を知る者が一人もいないはずはない。そこで、私はあの森に入って、鳥や獣を追い立てたのだ。案の定、伏兵がいると危ぶんだ軍兵どもは、鍋釜ひっくり返して川に入った」
「そこを我らが討ち取ったり!」
 覚山坊が、手を叩いて調子よく声を上げると、村尾勢はわっと沸いた。
 小鴨軍は数千騎を失った上、その後、本軍までもが南から来た備後軍に追い詰められ、本拠地の岩倉城へと籠って身動きできなくなった。ただこの城は蔵を多くもち堅牢だったので、落とすことはできなかった。
 殲滅はできなかったものの、院の御子としての伯耆での戦は、勝戦として世に知れ渡った。
「御子様、おめでとうございまする」
 成盛始め、出雲、石見、備後は、御子の前にひれ伏し、内外に「院の御子戦勝」を触れて回った。
 平家方である小鴨が破れた寿永元年の伯耆合戦の噂は、京に届いたはずだった。同時に、近江のあたりに源氏勢が押し寄せているという噂が伯耆にも届いていたし、越前で勝利を収めていた源義仲が、以仁王の御子北陸(ほくろく)宮を旗印として京に寄せているという噂もあった。

 多くの兵を費やした戦だったために、岩倉城を落とすことはなかなか敵わなかった。小鴨を滅亡させ、伯耆の安寧を確たるものにできれば、すぐに行軍して京に上るつもりだったが、最終的な決着が見られぬまま時が過ぎた。
 何度か小競り合いを続けながらも、岩倉城を東西から監視する目的で、御子たちは、三徳山の寺に住まいし、軍兵を育てることにした。
 修験道の聖地であり、景色の美しいこの山を、成国は何度となく登った。成国は、つい最近できた納経堂を御子に見せたい。できれば、最も奥の投入堂まで連れていき、景色を共に味わいたいと思った。しかし、御子は、途中まではともに登るが、どうしても納経堂へ続く難所「馬の背」で足がすくんで先へ行けなかった。
「やはり、ここで待っている」
「足元が悪いのはここだけだ。ここさえ超えれば、良い景色も見られるぞ」
 岩にしがみついて情けない声を出す御子に、成国は手を差し伸べる。しかし、御子は岩にしがみついた手を、成国の方へ伸ばすこともできない。
「私にはまだまだやることがある。ここで足でも滑らせては、今までの苦労が水の泡ではないか」
「ここを通るほうが、戦をするよりずっと易いはず。何を情けないことを言っているのだ。絶壁に建てられた投入堂を見てみれば、自分の恐れている崖など、どうということはないと気付くはずだ」
 覚悟さえ決めれば越えられるはずの岩場だが、御子はどうしても越えられないようだ。成国は、毎回ため息をついて御子の元に戻り、しかたなく山を下りるのだった。
 下山して僧坊までもどると、仲影が太刀をふるって鍛錬していた。太刀筋越しに御子をちらりと見たが、仲影はそのまま続けている。
 成国は、家臣の一人に呼ばれ、僧坊へ入っていった。
 御子は、自分も鍛錬に加わろうと太刀を手に仲影に近づいた。が、仲影の切先が、ふいに御子に向かう。御子は急いで身を引きながら、鞘を付けたままの太刀でその切先を払った。
「御子様。山に御登りになるのもよろしいですが、いつまでこうなさっておいでですか」
 仲影は太刀を鞘に納めて、御子をじっと見つめた。
「御子様には、院をお助けするという大義がおありだったはずです。院に御子と認めていただき、お名を頂戴するその日を、いったいいつまでお待ちになっているのです」
「もう少しすれば、兵も増え、小鴨も潰せよう。伯耆の軍勢をわが軍とすれば、すぐにでも上洛し、父院様をお救い申し上げる。あと少しだ」
 仲影は、御子の目をじっと訝るように見つめたままだ。
「わたくしには、御子様に王権をお持ちいただこうなどと大それた望みはございませぬ。ただ、御子様がきちんと目的をお果たしになり、ご身分を取り戻しなさって、京で幸せにお暮し下さればと、そればかりを祈っております。道を誤またれてはなりませぬ。成国殿は、ご身分にふさわしくございませぬ。女宮(おんなみや)として、しかるべきお方と縁をお持ちくださいませ。御年二十歳。十三、四の女人のようにはゆきませぬが、院の血筋であれば、いくつになっても縁は望めるはずでございます」
 少々不遜に過ぎる、と、御子は笑いを混じらせて仲影の尻を太刀の鞘で軽く叩いたが、仲影は機嫌の悪そうに、宿坊に入ってゆく。御子があきれて縁に腰かけると、當子がすぐに白湯を差し出した。
「當子もそう思うのか、聞いていただろう」
「わたくしは、兄上様とは違う思いがございます。御子様が望むとおりになさればよいのではないかと存じます。女の幸せは、男にはしょせんわかりませぬ。思い切って、成国様と祝言をお上げなさったら、また違う行く末もできると思いますわ」
 不意に、御子の脳裏に「馬の背」が浮かんだ。
 
 ある日、いつも通りに成国と山に入った。御子は、また「馬の背」の前で足がすくんだ。
「この上への道に挑むつもりは毛頭ない様子だな。もちろん無理にとは言わぬが」
 成国がまた文句をつぶやいた。御子はその文句にも慣れてしまっている自分に、はたと気づいた。
 越えなければならないことはない。このまま下山する道を今後も選んでおけばよい。しかし、この山に登り始めてから、そろそろ一年になろうとすることに気づくと、どうにも自分の心が、凝り固まってしまっているような気がし始めた。
 成国は、もうしつこく誘うこともせず、御子をそこに待たせておいて、自分だけ投入堂まで登るつもりらしかった。「馬の背」を行く成国の背中を目で追ううちに、御子は、ごくりと唾をのんだ。
 そして、一歩進み、一手岩をつかんだ。
 背後から御子が歩み出たのも知らず、成国はどんどん岩場を先へ進んで、もう姿も見えなくなった。
 身がすくんだ。足の裏がかろうじて乗るような細い足場をすすみつつ、足元の崖を見た。
「前を見よ」
 声がして、御子が目を上げる。成国は、戻ってきたらしい。少し先で御子を見守っている。
 ごくり、と音のなる息をのんで、御子は成国の方へ進んだ。じわりと汗が背中を伝う。気持ちを前へ向けて、足を一歩、また一歩と進ませると、成国が御子の手を取った。
 成国は、何も言わず、「馬の背」の最後の足場まで、ただ力強く御子の手を引き付けて御子を抱えた。
「投入堂は?」
 御子がそういうと、
「まだ先だ。もう一つ崖を超えれば、あとは歩きやすい場所に出る」
 そう言って、御子の後ろに回って体を支えた。
 納経堂を見て、いくつかの御堂を過ぎると、断崖絶壁に張り付くように建てられた投入れ堂が目の前に現れた。
 御子は声が出なかった。
 何故このような場所に、御堂を建てたのか――。いや、どうやって建てたのだろう。まるで岩肌から生まれたかのように見える。
「どうだ、景色は」
 成国が、遠くを指をさした。
 はるかに見える山々が、初秋の趣を重ねて泰然とそこにある。
 気持ちのいい風が、御子の汗ばんだ額を撫でた。

 大山寺に滞在していた覚山坊が、三徳山の御子を訪ねてやってきた。
「京より、わしの仲間から文が参りまして、平氏が都落ちを始めたそうです。木曽義仲が京に寄せてきたためで、後白河院は、平家都落ちの際に拉致される危険ありと察知なさり、比叡山に行幸あったとのこと。木曽には平家追討の院宣を下されました。それと妙なことを耳にしました。以仁王がご存命だという噂がまことしやかに囁かれ、木曽が掲げられた北陸宮に帝位継承の由はないと」
 横から仲影が、二川冠者から届いたという情報を告げた。
「その件ですが、噂の出処は、源頼朝殿ではないかということでございます。おそらく、ご自身には擁立できる宮がいないので、木曽の正当性を阻害せんと流したのでは」
 二川冠者は、いまだ仲影と文のやり取りをしているらしいと御子が懐かしんでいる横で、成国は呆れて、
「みな、何故そのように王権に近づきたがるのだろう。頼朝というのは武士であろう。自分が外戚にでもなろうというのか」
「いや、おそらく……」
 覚山坊は、顎の髭をぞりぞりとやって、
「源氏の棟梁の座を木曽に奪われてはならぬと、そういう考えではないでしょうか。義経殿が兄と慕って鎌倉に出向いたというのに、あまりいい顔もしなかったとか。義経殿は、男気があって武士どもに人気がございますので、自らの地位を危ぶんでおる様子です」
「覚山坊の情報網は、おそろしいほどだな」
 御子は舌を巻く。
 が、三徳山の水になじみ始めた御子には、何となく遠い地の出来事のような気がした。そんな自分が、不思議だった。頼朝という男がどんな人物か知らぬが、あの義経が簡単にやり込められるはずはないという気もした。相変わらず京は、人の欲望が競い合う地なのだ。自分はもう、京とは縁が切れたのかもしれぬ。そんな思いさえした。
 ところが、その気持ちは、その年の暮れ、一瞬にして吹き飛んだ。
 覚山坊の新たな情報によれば、入洛した義仲によって、後白河院が幽閉されたというのだ。一介の地方武士風情が、なぜそのような暴挙に出るのかわからず、御子は焦った。清盛は、確かに恐ろしかったが、どこか一本筋が通った男であった。しかし、義仲という男を御子は知らない。どのような男かわからぬゆえに、より一層、父院の身が危ぶまれた。そこで、成盛の居る岸本に出向き、一年ぶりに顔を合わせた。
「して、約束を果たせと……?」
 御子は、今すぐ軍を整え、京に上りたいと言ったのだ。
「分かり申した。では、早速に出雲、石見、備後に御子のご意向をお伝え申そう。以前より話は通しておりましたゆえ、おそらくすぐに軍備を整えて馳せ参じるかと存じます」
 成盛はそう言ってすぐに文を送った。ところが、三領主からは意外な返事が届けられた。
 木曽義仲が北陸宮を旗印としたように、我らも旗印として院の御子を掲げて上洛したい。ついては、院の御子もその正統性を示してほしいということだった。院の御子として、後白河院より平家追討の院宣を頂き、その院宣でもって上洛すべきだというのである。
 御子は、果たして父院が平家追討の院宣を「院の御子」たる自分に下されるかどうか、と思うと不安になった。そしてどうすべきか決めあぐねていた。
 折も折、都を落ちた平家は重衡主導の下、備中国水嶋の合戦においては足利義清を、播磨国室山にては源行家をうち破って総大将たる木曽義仲に勝利し、山陽道七ヶ国、南海道六ヶ国の住人らを従え、なんと十万余騎に膨れ上がっているということだった。
 そこに、平家から通達が届いた。
 播磨国と摂津国の堺にある一の谷にて城郭を構えるので、小鴨介基康、村尾海六成盛、日野郡司義行は兵を連れて伺候せよ、とあった。
「我らは対平家で戦ってきた輩でございます。このような通達に屈するのは、なんとも心外。ここは御子様のお力で伯耆を一つにおまとめ頂き、平家追討の命をお下しください」
 成盛の言に、御子はいよいよ切羽詰まった。これは何としても院宣を頂かなくてはならない。このまま平家の通達を無視すれば、おそらくこちらはまとまりのないまま、平家と合戦に及ぶことになる。戦慣れした十万余騎を相手に戦えるはずがなかった。
 御子は、苦い不安を味わいながらも一縷の望みをかけて、覚山坊に使いを頼み、後白河院に院宣を下されるようにとの文を出した。
 村尾邸の縁側に腰を下ろし、雪の降りしきる景色を眺めていると、ふと、京も平家も関わりなく、一人の女としてここで生きてゆくこともできるのではないか、という気持ちに襲われる。たとえば、すべてを投げ出して成国とともに、どこかで身を隠して生きることもできよう。信連のように。しかし、どうしても譲れぬものが御子の胸にはあった。
 やはり、どうしても父院をお救いすべきだと思った。そして、やはり認めてもらいたいと思ったのだ。たしかに、後白河院の子でないかもしれぬ。このごろ鏡を見るにつけ、父院の大きな目や鷲のような鼻を受け継いでおらぬような気もする。しかし、だからといって、成親に似ているかどうかも良く分からない。
 御子は、久しぶりに成親から渡された形見の数珠を手に取った。御子の持ち物は極めて少ない。九条院からの賜り物の衵扇、成親の数珠、そして後白河院の小さな鏡。
 育ての母九条院は、後白河院と睦まじい親子になってほしいと願いながら身罷り、育ての父成親は、自分を後白河院の御子としていつくしみ育てた。だからこそ、自分は父院にお子と認めて頂かねばならないのだ。そして、今までそうと信じて突き進んできた道を捨てることはなかなか難しい。だから、成盛の提案に乗ったし、室になれと申し出てくれる成国に応じられずにいる。それに、平家からの通達を放っておくわけにはいかない。
 もし、院の御子への平家追討の院宣が下されなければ、成国の室として生きることも考えてよいかもしれぬ。しかし、院宣が下されるとなれば、父院が自分を認めてくれた証になる。そうなれば、院の御子として京へ上ろう。これは、一つの賭けでもあった。御子は自分の身の振り方を後白河院に預けたのである。

 寿永三年正月。伯耆へはまだ伝わっていないが、京は大きく動いていた。頼朝の命を受けて義経が上洛し、義仲を攻撃する。これは後白河院が密かに頼朝に何度も求めては、無下にされていたことだった。義仲は、義経に攻められ京に火を放って近江へ逃れたのち、討たれた。後白河院は、今度は、自らを救った義経に平氏追討の院宣を下した。
 虎口を免れた後白河院とその近習たちは、院の御所に集い、頼朝や義経への褒賞について話し合った。日が暮れて公卿たちが退出した後、右大臣九条兼実と後白河院は、今後の平家追討と政について密々に話しあっていた。そこへ、どこからどう入り込んだものか、一人の汚らしい旅の僧が、御所の庭に現れたのである。
 その顔を見て、後白河院の顔色が変わる。
「兼実、今日はもう下がれ」
 右大臣兼実は訝し気に僧をちらりと見ると、一礼して退室した。が、この御時勢である。不安を覚え、兼実はすばやく隣室に身を潜めた。
「ご無沙汰をもうしております」
 院は、扇で自分の前の床を指した。僧は院の前で額づいた。
「久方ぶりであるな、覚山坊。何事か」
「御子が――伯耆におわしますことは、文でお伝えしておりました通りでございます。が、此度、平家追討の院宣をお求めでございます」
 後白河院は、唇を引き結んで難しい顔をした。が、すぐには答えず、
「どのように過ごしておる」
「は、当地の成盛殿と手を組んで伯耆の大半を支配なさいました。また、成盛殿の御嫡男、成国殿と……」
 覚山坊はうっかりするところであった。
「まるで実のご兄弟のように、睦まじくお暮らしでございます。ですが、御子は、近ごろお悩み多きご様子。しきりに鏡を覗かれてはため息をつかれております」
「わしが下賜したものであろう。なかなか思うように行かぬので、わしを思いだしてため息をついているのであろう。ところで――」
 後白河院は、言いよどんで、
「二条のことは、既に存じおるのか」
「いいえ」
 沈黙が、時を止めたようだった。
 後白河院は、厳しく眉根を寄せて悩んでいるようだ。が、意を決したように、
「院宣が欲しくば、自らこの御所へ受けに参れと伝えよ」
 覚山坊は驚いて、
「しかし、今伯耆を出られては、平家方の小鴨が盛り返す危険もございます」
「受けに来させよ、と申した。朕に逆らうか」
 覚山坊は、黙るしかなかった。一礼すると、急いで庭を横切って塀を越えて出て行った。
 隣室で聞いていた兼実は、あまりに奇異のことだと思ったが、思い当たる節がないでもなかった。伯耆は自身の管轄地。そういえば昨年大きな合戦があり、院の御子と名乗る二十ばかりの元服もしておらぬ男がそれを指揮したという報告を受けていた。何かの間違いか、慮外者の騙りであろうと捨て置いていたが、はたしてまことに院の御子であったとは。俄かには信じがたいことであった。が、そうであれば、王権に大変近い方であるのではないか。これは大変なことになったと、胸を騒がせた。

 伯耆では、京や平家の戦がまるで嘘のように、音もなく穏やかに雪が降った。春だというのに深い雪にどんどん埋められていくような、そしてその雪の深さが、案外心地よくもあった。しかし確実に、平家がすぐそこにまで来ているのだ。このままでは合戦するか、迎合するか二つに一つだった。成盛と二つの可能性について話そうとしたが、彼の頭には院宣の二文字しかないようであった。
「院宣さえあれば、時勢にのれるというに、覚山坊はまだ戻りませぬのか」
 成盛は頭を抱える。たしかに、このままでは不本意ながら平家に与するよりほかない。
 広間から御子は自室に戻る。ともにいた成国は御子の不安そうな顔をみて、少し微笑む。
「伯耆を守るためとは言え、平家に与するのは、私も気に食わぬ。しかし、院宣などなくてもよい。心配しても始まらぬ。なるようになる。我らは時流を見て動けばそれでよいのだ」
 成国が自室に戻ろうとする。御子は離れがたく思って、成国の袖をつかんだ。
 成国は、微笑んで御子の頬に触れた。

 暁方、御子は何かのもの音が聞こえた気がして、目を覚ます。気になって、板戸を少し開けると、覚山坊が庭にいた。帰ってきたところと見えて、すっかり冷え切った顔をしていた。御子は成国を起こさぬようにそっと外に出て、覚山坊の居室に共に入った。
「院宣は戴けたか」
 雪を払って腰を下ろした覚山坊に、御子は迫った。早く頂かねば、伯耆は平家に与することになる。
「それが、後白河院は、御子ご自身で院宣を受けに院の御前へ参れと」
「そんな……!」
 この火急の時に、今からまた都に入って戻ってくるには、どれほど早く見積もっても十日はかかる。しかし、院宣を出さぬとは仰せになっていない。つまり、急いで行けば院宣が手に入り、平家討伐の正義を掲げ、今まで通り出雲や石見、備後と力を合わせて出陣できるというわけだ。そう考えなおして、
「わかった、今すぐ発つ」
「御子様、こう申しては畏れ多いのですが、何か起こりそうで……」
 骨太い覚山坊にしては、珍しく弱気だった。しかし御子に迷いはない。覚山坊に仲影を起こすように伝えると、御子は自室に戻った。成国は静かに寝息を立てている。御子は音を立てぬように、荷物をまとめると、文机の上に書き置きをして立ち上がった。板戸に手を触れたが、なんとなく気になって成国を振り返る。
 初めて会った時は恐ろしい男のように思ったが、今やこの寝顔を美しいとさえ思う。御子は成国の傍に膝をついた。意外とまつげが長かったのだな、などと思っているうちに、胸が熱くなり、成国の頬に唇を当てる。そして、そっと外に出た。
 門のところですでに仲影と覚山坊が待っていた。
「覚山坊は残ってくれ。當子を一人置いていくのも気がかりだし、今都から戻ったばかりであろう。無理をさせるのは忍びない。なに、十日ほどで戻ってくる」
 御子と仲影は、馬にまたがると、門を飛び出た。
 今まで自分に会うことを避けていた父院が、会いに来いというのだ。これで御子と認められ、院宣を持って平家討伐ができる。そして、世が落ち着いた暁には、女であることを父院に告げ、伯耆でも京でもいい。成国とともに生きよう。御子の胸は希望に満ちていた。
 御子が門を出てしばらく経ったころ、成国は不意に目が覚めた。御子が居ないのに気付き、文机の文を手に取る。と、成国は、夜着のまま外に飛び出た。雪の上には二頭の馬の足跡が残っている。厩舎に走ると、鞍も置かずに馬にまたがり、門を飛び出した。
「国子!」
 しばらく行ったところで、御子と仲影の後姿が見えた。成国の声に気づいたらしく、馬を止めて振り向く御子は、嬉しそうに手を振った。
「待って居てくれ、すぐ戻る!」
 成国は追おうとしたが、踏みとどまった。いずれにしても院宣はあったに越したことはない。しかし言い知れぬそら恐ろしい予感が、成国の胸を襲っていた。

 八条烏丸の院の御所についたのは、二月二日。
 御子たちは、信じがたい思いで京の風景を見た。今までの数々の戦のために、京は見るかげなく傷んでいた。人々も、どこか地方へ逃げたと見えて、空き家が目立つ。
 御所に入ると、控えの間で太刀を仲影に預けて、院の御前に御子だけが参上した。すでに夕闇の迫る時刻だった。冷たい雨が、庭の土を湿らせている。御子は、緊張のためか少し腹が痛くなった。後白河院が現れ、御簾もなく直に御子に対座した。存外のことだった。
 見れば見るほど、兄宮以仁王は、父院に似ていたのだなぁと、御子は懐かしさを覚えた。
「ご命令により院宣を頂戴しに参内いたしました」
「うむ。伯耆では、よく働いたようであるな」
「良い人々に恵まれまして」
「時に、わしの落胤を名乗って人を集めたようだが、わしはお前を子と認めた覚えはない」
 御子は、胸の中に手を突っ込まれて心の臓をわしづかみにされた気がした。
「我が意ではございませぬ。思わぬところから漏れたのです。どうかご容赦くださりませ」
「今日は、そなたに会わせたい者がおってな」
 話題が院宣から遠ざかるのを察して、御子は腰を浮かせた。
「父院様、院宣を我にお授けください。すぐに戻りませぬと……」
 しかし後白河院は答えず、代わりに隣から、五人の帯刀した蔵人を従えた、見覚えのある男が姿を現した。
「陰陽師安倍 泰親(やすちか)である」
 泰親は礼もせずじっと御子の顔を見る。御子もどこで見た男だったかと気を巡らした。
「これはこれは、福原御幸の行列見物以来でございますな。あなたが例のお子でしたか」
 ――ああ、行列を見て悪口(あっこう)を吐いていた……。
 泰親は、細い目を一層細めて、睨むように御子を見た。
「院、これはやはり凶相でございます。いくら王家の血を引いているとはいえ、この男をこのままにしておいては、世は乱れに乱れまするぞ。一刻も早く山門へ籠めなさいませ」
 御子は思わず立ち上がった。庭の砂利石を叩く雨がふいに強くなり、空が暗くなった。
「無礼者! なにをもってわれを凶相などと!」
「おや、あなたは覚山坊とともに居たというのに、何も聞き及んでいないというのですか」
「覚山坊?」
 御子が訳が分からぬ顔でいるので、泰親は嬉しそうに笑った。赤い唇があまりに薄くて気味が悪い。泰親が手を上げると、蔵人たちが御子を囲んで、手を伸ばしてきた。
 御子は、急いで身をかわすが、大の男五人に囲まれて手足をつかまれては抵抗できない。帯刀していなかったのがあだになった。床に顔を押しつけられ、肩を押さえられて身動きが取れない状態にされた。
「父院様!」
 激しい雨音に負けぬほどの大声で叫んだ。床にねじ伏せられている唇が切れた。
「院は、もう奥へ入られましたぞ」
 しかし、襖一枚の向こうだ。聞こえているはずと御子はありったけの声を出した。
「兄、以仁王が、お亡くなりになった時、あなたはどうお感じになったのです。兄宮様は、父院様を共にお助けしようと、そう言ってくださいました。兄宮様は、お一人で元服なさったことを寂しかったと。兄宮様は……!」
 御子の目に、以仁王の笑顔が浮かんだ。悔しい息とともに、涙が溢れて床を濡らす。
「首を斬られておしまいになる直前まで、私を大事に思って下さった。私を元服させて下さるとさえ、おっしゃっていた! 父院様、どう考えても、兄宮様に対しても、この私に対しても、冷たさが過ぎます! 何故! 何故でございますか!」
 ふと、成国の言葉が、御子の胸に甦った。
 ――いくら何故だと問うても、答えなどない。父に問うてみたが答えはなかった。なれば、こちらから父を手放せばよい。
 空が光った。遠くで雷鳴が響き始める。
「うう……うわああああ!」
 御子は、ひどい声を出して泣き叫んだ。足をばたばた動かして床を蹴った。
「御子様」
 先程までと違って、泰親は恭しくそう言って、御子の鼻先に膝をついた。
「あなたは、生まれてきてはならなかったのです。あなたがお生まれになる前、院の一皇子(いちのみこ)であられた二条帝が病を得られました。院は、加持祈祷の僧であった覚山坊をお召しになりましたが、二条帝の病は次第に深くなっていきます。当然です。院が覚山坊に祈祷させていらっしゃったは、二条帝の崩御でしたから」
 ――何? 何を言っているのだ、この男は。
「うそだ。父院様が子である二条帝の死を望むなど、あるわけがない」
「二条帝は、後白河院様を、実のお父上であらせられた後白河院様を、それはそれは疎んぜられましてね。どれほど院が譲歩なさっても、遠ざけて政からお外し奉りなさったのです。その時の院の御嘆きはいかばかりか。父帝様に疎まれ、お子の二条帝に疎まれたのです。覚山坊の加持祈祷は、霊験あらたか、見事崩御させ申し上げました。しかし、私にお命じ下さっていれば、あなたという禍根を残さずにうまくしおおせたものを……」
 泰親は不満げに薄い唇を曲げた。
「我が陰陽道で占えば、二条帝崩御の直後から三日の内に生まれ給うた後白河院の血を受けた者に、二条帝の怨念の星が宿ると出たのです。折も折、二条帝崩御の夜に生まれたのが、あなたです」
 僧たちに押さえられて抵抗していた御子の体は、ふいに力を失った。
「非常に強い凶星でした。男であれば、仏門に下すことで世は平和を保たれると。しかし、生まれながらにして往生もできぬ女が生まれた場合は、すぐさまこれをこの世から抹殺せねば、世は乱れる。そう出ました」
 雷鳴が近くでなり始めた。雨も一層激しい。
 始めて父院と九条院邸で対面した時の、父院の言葉の意味が、今、ようやく御子の腑に落ちた。
「院は、権大納言殿に、子の男女によって早急に処置すべきとお命じになり、一任なさっていました。ところが、いったい何をどう思ったのか、権大納言殿は、あなたを九条院様にお預けになった。本来なら仏門に入れるべき男皇子を京に留め置いてしまった。そのために世が乱れたのです。平家の横暴なる振る舞いに端を発し、戦乱の今に至っているのは、凶星が神仏の支配から逃れているのが原因なのです」
 御子の力は、すっかり抜けてしまった。床に張り付くように、手足を力なく放りだした。押さえつけていた男たちは、顔を見合わせつつ、しかし、手を放すことはしなかったが、御子を押さえる力は緩めた。
 本当なのだろうか。本当に父院は、二条帝の……、息子の死を願ったのだろうか。御子は、首を動かして襖を見つめた。聞こえているはずだ。なのに出て来もしない。本当に、父が子の死を願ったのか……。御位に就いた子でさえそうなら、縁の薄い自分など、当然眼中にないだろう。死のうが生きようが、あの仁の人、以仁王以上に、関心を持たれなくて当然だ。しかし、何と言うことだろう。そんな占い如きのために、私の命を左右することとなり、男として生きねばならなかったとは。
 静かに、微かに、御子の胸に炎が蠢き出した。
「あなたは……陰陽師殿は、すべてのことが見えるのか」
 御子は、ゆっくりと身を起こした。蔵人たちは再び押さえつけることはしなかった。やはり後白河院の子に、狼藉はしたくないという気持ちが働いているのだろう。
「むろんでございます。陰陽師とはこの一天四海の、一から万《よろず》を見渡す道」
「父院様が、なぜ、これほどまでに私に辛くされるのかが、よくわかった」
 御子は、陰陽師を見つめる。
「つまり、このまま私が、比叡山に行きさえすれば、世は治まるというのだな」
「さようでございます」
「女であれば、死をもって世をさるべきと、しかし私は男であるので、仏門へと」
「さようでございます」
「分かった」
 御子は立ち上がった。そして、陰陽師をじっと強い光を讃えた目つきで見降ろすと、
「陰陽師安倍泰親! きさまの偽道(ぎどう)、見破った!」
 あたりに轟く大声をあげた。皆一瞬、ひるんで御子を見た。
「私が女なるも見破れぬとは、陰陽師が聞いてあきれるわ!」
 そういうと、すばやく身を返して、近くの蔵人の太刀を抜き、父院がいるはずの襖を袈裟懸けに斬った。襖は割れてはずれ、その向こうに後白河院の姿が現れた。
 重い空が光り、雲間を稲妻が走る。地響きが起こるほどの雷鳴がとどろく。
太刀を振り切った御子の顔と後白河院の顔は、青白い光に激しく照らされた。
「あなたは、ただただ、自分のした恐ろしいことの証である私を、遠ざけたいだけだったのだ。それに翻弄され、なんと……なんと無様な生き様を強いられたものか!」
 蔵人が後ろから斬りかかったが、簡単に太刀でいなしてさっと身を翻し、控えの間の仲影の許へ走った。
「出るぞ、仲影。長居は無用だ!」
 仲影は慌てて御子の太刀を持って、ともに御所から飛び出した。沓《くつ》を履く暇もなく、二人は裸足のままで、京の夜陰に姿を消した。

 追手はすぐについた。雷鳴の轟く中、手に手に松明を持った検非違使が京中を探し始めた。御子たちは、崩れおちた築地から空き家の一つに足を踏み入れる。そこに二人が身を潜めているとも知らず、検非違使たちは通りすぎて行く。
「もし」
 ふいに、暗い破れた邸の中から声がした。御子は太刀の柄を握った。
「お困りのご様子。我が主が、ぜひ邸にお越し下さいと申しております」
 何者が何を知ってそう言っているのか、御子は訝しんだ。が、闇の中からの声は続ける。
「我が主は右大臣藤原兼実でございます。先日の覚山坊殿の入洛の折に事情を存じまして、御子様を庇護なさりたいと」
「しかし……」
「我が主以外のどなたが、今の御子様を御隠しできるでしょう」
 たしかに、右大臣ほどになれば、絶大な力があるはずだった。とりあえず、急場をしのぐつもりで御子は声の主についていき、兼実の邸に入った。
 兼実の邸は、戦乱の中でも瀟洒であった。寝殿に通され待っていると、一人の小柄な男が入ってきた。大変落ち着いた立ち居振る舞いの男で、年の頃は三十半ばと思われた。男は、御子を上座に座らせ、恭しく額づいた。
「我は、従一位右大臣藤原兼実にございます。此度は畏れ多くも我が邸にお渡りくださいましたこと、恐悦至極にございます」
 この男は信用できるか。御子は訝りながらも、
「世話になる」
 そう言ったが、翌早朝には京を捨てて成国のもとへ戻るつもりであった。
「御子様、先ほどの陰陽師の言からして、御年二十。よくここまで忍ばれました」
「間者でも潜ませていたのか、院の御所なるぞ」
「ことがことですので、必要とあらばそういうことも致します」
 すると、兼実は、ふいに目頭を抑え、顔を真っ赤にしてはらはらと涙をこぼした。
「御子様、我が父は藤原忠道でございます。おわかりになりませぬか。九条院呈子様の養父でございます。九条院様と我は姉弟でございますよ。その御方がよもや院の御子をご養育なさっていたとは……! 私はてっきり、いずれかの貴族の子をかわいがっておられるのだとばかり……。ああ、私にお命じ下さっていれば、このような不遇を避けて差し上げられたのに……」
 そうだったのか。母院様の弟か――。
 そう思って気を許したとたん、下腹に小さな雷が走った気がした。月のものでも来たか、と御子は下腹に手を当てる。伯耆に入ってから月のものは、一年に数回しかなく、この数か月も滞っていた。
 それにしても、伯耆から連日馬を駆け、入洛したその日にこの騒動だ。さすがに疲れた。御子の腹は、ひどく痛みだす。とにかく横になりたい。
「右大臣殿、大変申し訳ないのだが、長旅で疲れておる。今夜はもう休ませてもらえぬか」
 兼実は、すぐに御子に一室を用意した。御子は横になった途端、泥に沈むように眠りにおちた。
 几帳を一枚隔てて仲影が眠っていたが、夜中不意に目が覚めた。隣から御子の唸り声が聞こえた。
「御子様?」
 仲影が几帳の切れ目から覗くと、御子は苦し気に手を伸ばしてきた。
「仲影、変だ。腹がひどく痛い」
 そう言って、言葉にならぬように唸る。仲影は、御子の腹をさすろうと、御子の横に膝をついて暗闇の中手を伸ばした。
 ぬるりとした感触が、仲影の肝を冷やす。明りがないのではっきりせぬが、仲影の手を濡らしたのは血のようであった。
「まさか、先程お怪我をなさいましたか」
「いや……」
 御子はそういうと、また唸る。
 これは手に余る一大事と、仲影は、廂に走り出て女房を起こした。
「医師《くすし》を呼んでくれ! 早く! 今すぐだ!」
 右大臣邸に医師が来て、御子を診た。人払いがされ、事情を知る右大臣と仲影、数人の女房どもだけが、隣室で芯を短く切った燭台の近くに、互いに向かいあって医師の見立てを待った。ずいぶん時間がかかり、明け方になって、やっと医師が出て来た。
「いったい何の病を得られた!?」
 右大臣は医師に迫った。医師は何とも言いにくそうに、
「大変に残念なことにございますが、お子が流れましてございます」
 右大臣は、言葉を発せられず、不思議そうな表情で医師の顔をじっと見つめた。
「お子、とは?」
「ご懐妊なさっていたのをご存じなかったのでしょう。ご自身も驚かれていらっしゃいます。随分血を失いましたので、決して動かしなさいませぬよう。いったん戻って薬を調合し、また参ります」
「では、先程、陰陽師におっしゃったのは、逃げるための口上では、なく、まことに……」
 そう言いながら、右大臣は探るように仲影を振り返った。仲影は、右大臣の目をじっと見つめた。何とも言えぬ、答えられぬという顔をして。
 右大臣は、その場に力なく腰を落とした。そして、そこにいた女房たちに、「他言無用」を命じて下がらせた。
「なんと……、なんということだ。女である身を男に窶し、生きてこられたのか。そうか、そうでしたか、女子であれば殺される。だから、権大納言殿と九条院様は、御子さまを庇護なさったのか……」
 夜が明けてから医師が薬を持ってきた。しかし、御子は正体無く眠って目を覚まさない。薬を飲まそうにも、全く起きないのだ。丸三日経っても、一度も目を覚まさない御子に、仲影は不安を覚えた。医師は、何度も見立てに訪れた。そのうち、助かるかどうかわからぬといっていた言葉を、覚悟なさるべきという言葉に変えつつあった。
 ふと、御子の生みの母が、お産の出血でなくなったことを思いだした。仲影は、このままではいけないと思い、伯耆の覚山坊と成国にことの仔細を述べた文を、そして藤原資隆には、御子が危篤であるという文を書いた。
 資隆と尼君はすぐに右大臣邸を訪れた。資隆は入道姿になっていた。
「御子は? 御子はいかがなさった」
 四年もの間音沙汰のなかった曾孫の顔を、尼君はしわしわの手で撫でまわした。
「何故このように冷たいのです。それに、昔は美しい白い肌で貴族然となさっていたのに、日に焼けてまるで以前の御子ではないような。目を覚まさぬのは何故です」
 資隆は、横で黙ってみているだけで、言葉も発さない。ただ戸惑っている様子であった。そこへ、右大臣兼実がやってきた。ひとしきり、資隆が挨拶を述べたあと、右大臣は「隠し立てしても仕方がない」と言って、後白河院との対面、その際の陰陽師の言、右大臣邸に入ってからのことを資隆と尼君に告げた。
「女! それも、赤子が流れたとは!」
 尼君はあまりのことにその場に卒倒し、資隆は扇を握る手に力を込めて、声を震わせた。
「ま、まさか、このようなことがあるとは。後白河院が、いかに思われるか。悪くすると、我が家まで罪を問われるやもしれませぬ。今は、この姫の叔母である八条院女房も秋の扇。我が家には栄誉も何もございませぬ。助命を請おうにもいかがすれば……」
 資隆が、頭を抱えた。
 この言葉を、仲影は歯を食いしばって聞いていた。血のつながった祖父であるのに、御子の命よりも、家の命運を気にする資隆が憎かった。

 遡ること数日。御子が後白河院と対面した頃、御子の帰りを待つ暇なく、平家からの再三の通達により、村尾海六成盛、日野郡司義行は、反目する小鴨基康とともに、軍勢を率いて一の谷に参戦せねばならなくなった。出雲、石見、備後の領主たちも同様であった。一地方領主たちと十万余騎に膨れ上がった平家の軍勢とは、比べようもなく、従うよりほかなかった。
 六日、福原で清盛の法要を営む平家に、後白河院から停戦を勧める使者が立てられ、その報を受けた一の谷の平家たちは、戦は起こらぬと踏んで油断していた。しかし、これは、源氏と後白河院の謀であり、その時すでに、義経率いる源氏の軍は、鵯越に向かっていた。七日早朝に、後白河院の使者の言に反して、矢合せが始まった。平家にすれば策に陥ったということになる。義経は一ノ谷口を責め、別れて進んだ味方の軍は生田口、鵯越口を攻めた。戦はないと信じていた平家は、総崩れとなった。
 義経は、これまで幾度となく死闘を繰り広げていた。権謀術策を駆使し、意表をつき、勝戦を推し進めてきた。ところが、戦果を挙げれば挙げるほど、兄頼朝に疎んぜられ、話も聞いてくれぬようになっていた。父の弔い合戦のつもりで、兄とともに正義を行うという気持ちの行きどころを失い、日々、悩みつつ戦に臨んでいた。一ノ谷の勝利を、兄は、また喜ばないのだろうか。そんな気もしていた。
 一方平家の方は、さんざんに討ち破られ、敗走を余儀なくされる。名を惜しむ者は源氏方と戦って討ち死にし、そうでない者は、海に入っておぼれ死んだり、山に入って身を隠したりした。その中に、南都を焼いた重衡がいた。彼は愛馬と共に海に入って死のうとした。ところが、愛馬はすでに疲弊し、先に進めなくなった。仕方なく重衡は馬から降り、自刃しようと試みた。が、そこを生け捕りにされた。
 平家の軍に組み込まれていた伯耆の面々は、命からがら自軍を率いて身を隠し、源氏方が引くのを待った。全くの骨折り戦で大事な兵の数を減らし、命の危険にさらされただけの戦だった。伯耆の者たちは力を合わせて国へ帰ろうと、水に飢え空腹を覚えながら山道を歩いていた。とくに村尾兵は一ノ谷口付近を守っていたために、兵のほとんどを失っていた。成盛は、既に老齢の域である。重い甲冑を身につけたままの山道は堪えた。
「源氏の残党狩りが来るぞ」
 そんな声が聞こえ、皆一斉に鳴りを潜める。しばらく経って何も聞こえぬようになると、またそっと歩き始める。
「まさかこのような仕儀に会うとは思いませなんだ」
 小鴨基康が、足元をふらつかせながら成盛に近づいて言った。
「全くじゃ、平家に与する事を、初めから拒むべきであった」
 成盛がそう言って、足を滑らせ、尻もちをついた。
 敵であるはずの小鴨が、成盛を後ろから支え、腕を持って立ちあがらせた。
「かたじけないのぅ」
「気をつけなされ。これからまだまだ悪路が続きます。前をしっかり見れおかれよ」
 そう言って、ふいに成盛の鎧の脇に、太刀を差し込んだ。
 ううう!
 声にならぬ唸り声を上げると、成盛はその場に崩れ落ちた。太刀は、右脇から左の胸にまで貫いていた。他の兵たちはぎょっとしてそれを見た。が、小鴨は、その場に崩れ落ちた成盛を後ろから蹴り、崖から突き落とした。
「本当の勝者は機を見て逃しはしないのだ」
 成盛が落ちていった崖下を憎々し気に見降ろすと、にやりと笑った。

 岸本の村尾邸に、仲影からの文が届いたのは、その数日後であった。御子の命が危ないことを知り、成国はすぐに旅支度を始めた。當子と覚山坊も共に準備を始める。しかし、覚山坊は、少々気が重かった。御子が二条帝崩御の際の忌まわしい占いを知ってしまった。いや、それ以上に、自分が御子の兄である二条帝の崩御を祈祷したと知れたのだ。御子に合わせる顔がないように思った。
 當子にそう告げると、當子は、覚山坊の髭面をきっとにらんだ。
「なにをお言いです。御子が身罷られるかもしれぬというのに、会いに行かぬつもりですか! 会って詫びなければ、悔やまれるでしょうに!」
 覚山坊は、はっと目が覚めたように、急いで旅支度を始めた。
 仲影の文を受け取った一刻の後には、三人は供数人を連れて門の前に立った。いざ、京へ。そう一歩踏み出した時、一ノ谷に参戦した村尾兵たちが、たった数人で帰ってきたのだ。
「成国様! 成国様!」
 兵たちは、言葉にならぬ様子で成国に取りすがって泣き叫ぶ。
「どうした、平家が負けたのか。村尾の軍は壊滅したのか?」
 兵の負った傷を気にしながら、成国がそう聞くと、
「お館様が、小鴨に、殺されましてございます!」
「何!?」
 成国の顔色が変わった。
「平家が破れ、我ら伯耆方はみな、徒歩で山を歩いて逃げていました。すると、小鴨基康が、お館様の背後から近付いて、鎧の脇から太刀を差し込んだのでございます!」
「お館様は、貫かれたのじゃ!」
「その後、崖に蹴落とされなさった!」
 兵たちは口々に成国に訴えた。
「こうなったら、お館様の弔い合戦じゃ!」
「そうじゃ、そうじゃ!」
 傷だらけの兵たちは、皆口々に怒りをあらわにした。
 成国は窮した。今すぐに京に行きたい。国子の傍に行ってやりたい。自分を蔑んできた父の死など、どうでもよいはずだ。そう自分に言い聞かせた。
「わしは火急の用があって、京へ行かねばならぬ」
「何をおっしゃる! 明日にでも勢いづいた小鴨が、村尾を攻めてくるかもしれませぬぞ!」
 邸から出てきた村尾の家臣の一人が、言った。
「成国様は、もはや村尾のお館様なのです! 村尾と民を守らねばならぬのですぞ」
「いったい何をしに京へ上らねばならぬとおっしゃるのか」
「村尾を御見捨てなさる気か!」
「院の御子も京からお戻りではない。小鴨は攻めてくるかもしれぬ。このような危うい時に、国を空けるなどありえませぬ!」
「村尾をお守りください!」
 家臣や兵たちに囲まれ嘆願され、成国は苦しそうに息を吐いた。気持ちが昂り、体が勝手に門の外へと進む。すると、家臣や兵たちが成国を捕まえ、押さえつけようとした。
「すまぬ! すまぬ、皆、すぐにもどってくる。行かせてくれ!」
「嫌でございます!」
「なりませぬ!」
 成国は、幾人もに引っ張られ捕まえられても、その人々を引きずって歩き出した。その様子を見兼ねて、當子は頭を下げた。
「成国様、わが御子のことをここまで思って下さって、この當子、有り難くも申し訳なく思います。御子様は、あのようなお方です。分かってくださいます。大義を大事になさいませ。このような状況で上洛しても、御子様は御喜びになりません。京についたらすぐに文を差し上げます。どうか、もう少し落ち着いてからお越しください」
「しかし、しかし……!」
 成国の目から涙がこぼれるのを、人々は初めて見た。
 歯を食いしばってそこから息をもらし、堪えがたい涙を流す。が、成国は立ち止まった。門の内に、自身の体を引きずるようにして戻っていた。
 當子と覚山坊は、二人だけで京を目指して出立した。

 成国と手を繋いで三徳山の山の上に、御子は立っている。新緑の清々しい山々の重なりを二人で眺めているうちに、ふわりと足が軽くなり、山の崖の上から一歩空へ歩き出す。しかし、成国は首を必死に横に振って、御子の腕を引っ張る。成国は何かを言っているが、口ばかりが動いて声が聞こえない。
「どうしたの? 成国は飛べないの?」
 御子は、成国を引っ張り上げようとする。しかし、成国の足はまるで根が生えたようで、崖の岩肌からピクリとも動かない。成国は、御子以上に強い力で、必死に引っ張り下ろす。
「空を飛んで行きたいの、私。父様も母院様もいらっしゃる。兄宮様も……」
 成国が握って放そうとしない自分の手が、とても小さな手であることに気づいた。いつの間にか自分は、十かそこらの少女にもどっていた。すると、またグッと山の方へ引き寄せられた。今度は、成国だけでなく、仲影や當子、それに牛若も御子の手をつかんで、ぐいぐいと引っ張り下ろした。御子は地面に引かれながら、空を見上げる。平和な美しい空。優しい青色の……。
「御子様! 御子様!」
 當子の声に、御子ははっと息をした。まるで今まで水の中に沈んでいたかのような息苦しさに、御子は大きく口を開けて何度も息をした。目に入ったのは、邸の天井だった。
 當子が、御子に抱き付いて泣き上げる。仲影も御子の手を握って男泣きに泣いている。覚山坊は横に座って顔を歪ませている。祖父資隆、曾祖母の尼君。あの人は、そうだ、右大臣兼実殿……。みなここに集って……しかし、一番会いたい人が、いない。
「成国は……」
 自分の声を聞いた途端、御子の両眼から涙があふれ出てきた。
 ああ、そうだ。私は成国の子を流してしまったのだ。
 御子の胸に、どうあがいても償いきれない苦しみの波がどっと押し寄せてきた。

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