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『ある男』
この間、映画の『ある男』を見たので、ちょっと時間があるときに、オーディブルで『ある男』の小説の朗読を聞いていた。映画は映画ですごくよかったのだけれど、映画に描かれなかった部分により関心が芽生えた。
特に、映画では弁護士の城戸が、在日に対する差別に触れるシーンが少々、直接的だなと思ったんだけれど(差別は直接だろうがなんだろうがよくないことには変わりがないのだけれど、その表現の違いで、こちらが考え得ることが変わってしまうので)、小説の場合は、もうちょっと複雑なものであるということがわかった。
もうひとつは、里枝が前夫との間に生まれた次男を脳腫瘍で失ってしまう中での前夫とのすれ違いについても、細かく描かれていて、すごくいたたまれなかった。特に、次男の病気に診断がされてから、前夫が、治療をすすめようとすることに、半ば興奮しているような描写は、そんなことは見たことがないにも関わらず、どこかで見たような気がしてしまった。そして「がんばるんだよ、男の子だからな」と声をかける前夫のセリフがさりげなくこわかった。
前夫が、次男の治療に半ば興奮してるようなのって、次男がその治療を受けている間の苦しみには、目がむけられておらず、何かの目的に向かって進んでいる、その実感だけが自分にとってリアルなことなんだろうなって思われるんだけれど、それって何かすごく見たことがあるような気がしてしまった。
けっこう、友人とかと話していても、自分のことを思い返してもなんだけれど、そしてこれは決して、男女二元論で言ってるんじゃなくて、「男の子だからがんばれ」とかっていう、固定したジェンダー観の弊害という意味で言うのだけれども、人がしんどい体調であるってことに、想像が及ばないパートナーの話というのは、多いものなんだよな…と。
それとは別の部分なんだけれど、最初のほう、大祐の描いたバスセンターのを見て、自然に涙がこみあげてしまうのだけれど、その感傷を見て、大祐も目を赤く染めていたってシーンが好きだった。
なんか、突然なにかに触れて泣いてしまう、みたいなことは、けっこう最近の世の中では「情緒不安定」の一言で片づけられてしまうことは多い気がしていて。しかし、そういうことはあってもおかしいことではないはずだと思って。けっこう、それってテレビのルールだなーとも。「感情」を受け止めるのは、けっこうな負担というか、コストだろうしなあ…というのは、わかるにしても。
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