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おばさんたちの「共助」、ポーチの中の「飴ちゃん」

私は昔、女性の友達との集まりで、ちょっとしたお土産にと、小さくて美しくて繊細な「落雁」とか「金平糖」とか「おかき」とかを持ってくる人というのがいて、そういうのがちょっと苦手だった。

その理由は、まあいろいろあって、ちょっとしたお土産のレベルが高くて気が引けるのと、自分はそういうものを用意できる気遣いもなければ、それを買う労力と時間を捻出する考えもなくて、その頃、今よりもカツカツの生活をしていたので、お金をそんなにかけられないことも大きくて、頭がまわらなかったから、ものすごく異文化のように感じていたのだと思う。

しかし、今では、友達とどこかに行ったりするときには何かしらのお菓子を小分けにして持っていったりするし、地元に帰ったときにも、小さなお土産を買うようになった。

それができるようになったのは、そのお土産がそんなに高価でもなく、負担にならないようなもので、そういう気取らないものを交換できる友達が周りに増えたことと、実際にでかけて映画館とかにいると小腹が減ったりするし、かといってわざわざ買うよりは家にあるもので済ませたい、みたいなこともある。そんなこんなで、日常的なお菓子のやりとりができるようになったのだろう。

ほかにも、去年の4月に香港に旅行にでかけたものの、悪天候で空港に着陸できず、成田に舞い戻ってしまったことがあり、10時間近いフライトの間に、スナック菓子(荷物を小さくするために豆菓子を選んだ)や飴を持っていてすごく助かったということがあったというのも大きい。あれ以来、いざというときのために、少しは何か食糧を持っておきたいと思うようになった。

それは、単にそういう出来事が重なったということもあるかもしれないが、私が「おばさん」になったということも大きい気がする。体調面なども心配なことが増えたし、何かあったとしてもあまり迷惑をかけたくないから、いろんな準備をしておきたいということもある。

「おばさん」というのは「飴ちゃん」を持っているという言い伝えがあったが、あれは、わりと本当のことなのかもしれない。阿佐ヶ谷姉妹のポーチの中には、飴が入っているというのをテレビで見たことがあるし、そういえば、実際に姉妹のおふたりに取材したときには、江里子さんから飴を(一袋お土産に)もらったこともあった!

この飴のやりとりというのは、単に食べ物をあげるとかそういう意味あい以外のものがあるように思う。飴がないからと言って死んでしまうようなことも、それでお腹いっぱいになることもないし、もらったからと言って必ずその場で食べるかといったらそうではなくても、なんとなく断るのも悪いのでもらってしまうこともあるし、もらったことで負担に感じたりすることもない。必ずお返ししないといけないものではないという気軽さがある。

この気軽さが、以前もらった、きれいな箱に入った落雁や金平糖とは違うところなのかもしれない。

こうした気軽な負担のないコミュニケーションには、私はわりと助けてもらっている気がするし、重要であると思えてきている。

それはコロナ禍でも顕著だった。私には、上京し、この仕事を始めた頃からの友達とのグループがある。アジアの仕事を通じて知り合ったので、共通の趣味もあり、もう10年以上お互いの誕生日などを祝ったりしている。

当然、LINEグループもあるのだが、台風が来たり病気になったりコロナ禍になったりしたときなどには、その不安をつぶやきあったり、実際に行き来をしたりしてきた。それ以外でも、テレビについて語らったり、アジア料理の新店があればメモ代わりに送りあったりと、常にやりとりしている。

もしかしたら、そういうものがわずらわしい人もいるのかもしれないが、自分にとっては、それがあったからこそ、なんでもない日常を続けられたのだと思う。

これを言うと、そういうコミュニティがない人が誰かに助けを求めたいときにどうすればいいのかという話にもなってしまいそうだが、人が完全に閉ざされて生きるのはハードモードすぎる。まずはその助けの質が「重くなりすぎる前」にどうにかすることも必要ではないかとも思う。それは個人に頼るときもあれば、公共に頼ることもあると思うが、今回は個人間でのことを話題にしようと思う。

「重いコミュニケーション」は、負担が大きすぎるから、そりゃあ誰にでも簡単に受け止められるわけではない。恋愛だったら、家族間だったら受け止めてもらえるものかもしれないと昔は思われていた節があるが、今は必ずしもそうではない。だから、重くなりすぎる前に、飴をやりとりしあうようなコミュニケーションを見つけ、そこで問題が蓄積する前に少しでも軽くしてもらう(お互いに)という方法もひとつとしてはあるのではないだろうか。

しかし、飴をやりとりしあうような些細なコミュニケーションは、自分がそれを維持する気持ちがないと難しい。一方的に話を聞いてもらうだけではそのコミュニティは続かないし、飴は必ずしも返さなくてもいいが、飴をいつか返すくらいの気持ちは無意識で持っていないといけない。

自分のグループも、なんかあったときだけ頼りにするものではなくて、誰かになんかあったときには自分も頼りにしてもらう、くらいの気持ちは持って参加している。もちろん、お金を貸してあげるとかということではない。台風が来て不安なときに、LINEでうちも大変だわーと返したり、コロナ禍では、日常が続いているようななんでもない会話をしたり、仕事で理不尽なことがあったときにも、お互いに愚痴を言い合えるような、それくらいのことである。

こうしたなんでもないやりとりは、なぜか男性とは続きにくい。私が考えうる理由を思い浮かべてみると、男性の友人は、わりと会話を有益なものにしたいと考えている節がある。私もそういう会話を楽しみたいときもあるのだが、ふと女性のみの友人と同じノリで、「台風こわいわー」みたいなことを言おうもんなら、「怖いよねー」という軽い同意を返すなんてことはないのはもちろんのこと「どういう意味で?」と聞き返されてしまう。こっちからするなら「字面以上の意味などないわボケ」なのだが、あちらはあちらで、そういうコミュニケーションを知らないだけかもしれないとも思うようにはしている。

不安やなんでもない会話というものには、ケアの意味合いも含まれる。しかし、なんでもない会話に返すことには、なにかしら意味があると考えてしまう男性には、「台風怖いよねー」ということは、友情より少し深く踏み込むという意味合いが含まれているという空気にとられかねない(女性同士ならそんなこと考えないのに!)。

ではなぜ女性同士では「台風怖いよねー」が成立するかというと、女性同士の(少なくとも私の)会話やコミュニケーションには、「なんでもないことを話し合う」という「ケア」の性質が根っからしみついており、それは、どちらからどちらへという一方的なものではなく、相互なものだという前提があるからではないか。

よく「男でも女でも関係なくない?」という言葉で議論が終わってしまうことがあるが、こうした習慣が男女間で違うということを考えることは、「男でも女でも関係ない」ことではなく、なぜそうなったのかには、社会的な役割が反映であることが多い。それがジェンダーについて考えることだと思う。

だとすると、女性が男性にふる「台風怖いよねー」は、女性からすると「相互のケア」を求めているだけで、各段重いものでもないと思って発せられても、男性からすると、「これは自分が解決すべきもので女性はそう考えているのだろう」と思ってしまうため、自分にだけ何かがのしかかり、「重いもの」だととらえられてしまう。こんなに軽い些細なケアですら、返すということにものすごい意味があると考えているのだろうか。それとも些細だからこそ重いのだろうか。あれか、ネットでよくみる、性欲に関係ないコミュニケーションはとりたくないってやつか。

その男性側の「恐怖や困ったことには一方的に解決する方の性である」という思い込みが、女性に「台風怖いよねー」と言われたら、自分を一方的に頼っている、つまり好意が入っているのではないか、これに返すということは、自分がすごく重いやりとりをしているのではないかと勘違いしてしまう所以であると思う。

それと同時に、男性同士はなんでもない会話をすべきではないとか、怖がってはいけないという思い込みから、「台風怖いわー」「そうだよねー」というなんでもない会話が成立しにくいということもあるのだろう。

しかし、こうして女性たちの共助活動、もっと言えば、些細なシスターフッドのことを「よきもの」として語ると、ときどきツイッターなどで反感や批判がくる。批判というよりもあからさまにこちら側にわざとダメージを与えようとするものが来てしまうのだ。

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