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「これがいい」と生きていく

「妥協せんでいいとよ」と、祖母から言われた。それは確か、親戚何人かと食卓を囲んでいたときだったと思う。

何気ないタイミングで気を抜いていたときに言われた言葉だから、話の文脈があまり思い出せない。多分、皆で何かを選んでいたときに私が「いいよ、私はこれで」的なこと言い、それに対して祖母が投げかけた言葉だったと思う。

そんな日常での「妥協せんでいいとよ」が、なんだか私の心に重たく残った。自分が集団の中で無意識にやった、とても些細なこと。それは見方を変えれば「妥協」と言えるらしい。

そのおかげで気がついたのだけれど、これを「妥協」と呼ぶなら、私は日々けっこう妥協しちゃっている。日常生活を振り返ると「これがいい」ではなく、「これでいい」と言ってしまう頻度のほうが、ずっと多いからだ。

人と一緒にいるとき、相手に合わせて「私もそれでいいよ」と言ってしまうことのほうが多い。気をつかっているつもりで「(面倒だったら)それで大丈夫だよ」と言ってしまう。意見がぶつかるなと察知したら、意思表示する前に、ぶつからないほうの答えを選ぼうとしてしまう。

「それでいい」と言えることも、協調性や柔軟性の側面から見れば大切な部分もある。でも、思考停止で「それでいいよ」と返答するのが癖になることは、もったいないような気がしてきた。だって、その都度「自分がどうしたいか」を考える機会、それを実現する機会をどんどん逃しているのと同じだから。

生きていると些細なものから大きなものまで、多くの意思決定の機会がある。なのに普段から「自分で決めること」「希望を叶えるために考えること」「誰かとぶつかること」から逃げすぎていると、大事な場面でも意思を持った決断ができなくなる気がする。

よく考えなくとも、人生一回きりなのだ。そう思うと、一つ一つ「私はこれがいい」と言える生き方のほうが良いように思える。それは「我を通すため」ではなく、自分の意思と向き合うためだ。そんなわけで最近、私はどんなに些細な場面でも、なるべく「これがいい」と言えるように努めてみることにした。

「これがいい」と生きていくためには、考えることが増える。自分の意思を探ること、どうやったら実現できるかなと試行錯誤してみること。人といるときは尚更、それを相手に伝える勇気と話し合う姿勢、相手の意思も同じように受け入れる姿勢を持たないといけない。そう考えると、やっぱり「これでいい」と言うほうが楽な気がしてくる。でも、今の私に必要なのは「これがいい」の姿勢なんだと思う。

そんなことを考えたのは、何気ない夕食の場面で祖母があえて「妥協せんでいいとよ」と、口に出して言ってくれたからだ。ちなみに祖母は簡単に妥協しないので、家族とたびたび衝突し「頑固者」と言われている。そんな祖母の生き方は不器用かもしれないけれど、私は密かに尊敬している。

最後まで読んでいただきありがとうございました。これからもどうぞよろしくお願いいたします。いただきましたサポートは、自己研鑽やライター活動費として使用させていただきます。