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誰もが賢くて、賢くなくて

少し前に断捨離をしたとき、大学生の頃に書いていた日記を処分しました。日記をつけることは18歳から今日まで、ぼちぼち続いている私の習慣です。

本当は捨てるつもりがなかったけれど、この歳になって読み返すと内容が青すぎて。「もし自分に何かあったとき、他人にこれを読まれる可能性がある」と想像力が働き、潔く供養することにしました。笑

しかし、その処分した日記のなかに印象に残る言葉がありました。読み返してから今日まで、ふとしたときに思い出しては考えてしまいます。自分で書いた言葉なのに、それを書いた当時の気持ちは全く思い出せないのですが。

「みんな、それぞれに賢いところがあって、それぞれに賢くないところがある。その意味では、平等なのかもしれない」

最初に読み返したときは「何言ってるんだこの人」と思いました。だけどなんか心に刺さって、しばらく考えているうちに「自分が言いたかったこと」が、少しずつわかってきたような気がします。

「知識を得れば世界の解像度が上がる」というのは、私自身も強く実感していることです。そうやって自分の見える世界を、知識や経験によって充実させていくことで得られる「賢さ」は確かに存在します。

しかし、何かを知ってしまった後は、知る前の世界に戻ることができないのも事実です。知識があるからこそ見える世界、導ける答えがあるのと同じように、知識がないからこそ見えるもの、導ける答えもあるかもしれない。

「賢い」って言葉の定義は難しいです。けれどおそらく、それは単なる知識や、経験の「豊かさ」だけで判断されることではない。ときにそれらが「より賢い選択」をする上での妨げになることもあるからです。

人それぞれが、人生のなかで得た知識や経験に基づく「自分にしかできない見方」を持っている。それは他人と同じではなく、それぞれに見えないもの、見えるものがある。

「平等」は「0か100か」的な表現なので簡単に使うべきではないかもしれませんが、そういう意味では確かに平等とも言えるかもしれません。

当時の自分がなぜ、そんなことを書いたか全く思い出せないし、今の私と同じ意味で言っていたのかどうかも定かではありません。よくわからないけど、なにか思うことがあったのだろうな……

「過去の自分が言ったことを今の自分が考えさせられる」なんて不思議ですが、これこそ日記の醍醐味なのだろうと実感した出来事でした。

最後まで読んでいただきありがとうございました。これからもどうぞよろしくお願いいたします。いただきましたサポートは、自己研鑽やライター活動費として使用させていただきます。