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英語を特別視しない人が増えれば見える世界が変わる

英語は誰でも使える言語。私がオーストラリアで9年以上滞在して、出した結論だ。

日本人は英語を特別視しすぎている。そうも思っている。

英語という言語は、明確で簡単な言語だから世界中で使われている言語。今や、欧米だけのものではない。アメリカ人、イギリス人だけが使っている訳ではない言語であるというのは当然な事実。忘れていやしないかと思う。

「あの人の発音はクセがある。」

日本人は良くこんな事を言う。自分達も同じなのにすぐにこうやって指摘したがる人の多さ。それは何故だろうか。。

しかし、これは日本人だけがいう台詞ではない。英国人もやけにこう言う事を言う人が多い。日本人と似通っている。オーストラリアという国は、英国領である為に良くこんな言葉を聞いた。

英国人全員がこうではないが、発音のクセをやけに気にする人は英語圏の人にまで文句を言う。アメリカ英語が代表的だ。聞き取れないなどと文句をいうし、修正もする。

そして、そういう人は自分以外の地域の発音は同じ英国内の音でさえ聞き取れない。信じられないかもしれないが、私はこういう人を多く見てきた。

彼らの特徴は、自分達が喋る型にハマった英語を特別視している。他のクセは許容出来ないし、そもそも慣れようともしないから拒絶する。

言語筆頭として、同じ地域同士で固まり同じ価値観しか取り入れない。ある種、村根性で田舎者である。だから、他の国の言語だけでなく他の考え方も取り入れようとしない。

同じアクセント、発音で固まる。

私は日本人がやけに細かい部分ばかり気にして殻にこもり同族で群れ、同じような発音の人達は許容する癖に、他国の人間の発音は指摘する。その姿勢を見て、彼らのような凝り固まった一部の英国人に非常に似ていると感じた。

そこで気付いた事は、発音記号をなぞり分かりやすく伝える努力は大事だが、過度に英語信仰を辞める事も一種の英語使いになるためのコツではないかとそう思っている。

英語は世界の人が使うツールなだけであり、何も特別な存在でもない。

日本語は日本で通じるから使ってるだけで、英語が通じやすい場では使うくらいの軽い気持ちが大切とも思っている。

その逆で、日本人だから日本語だけ知ってればいいも同じ事だ。視野が狭くなる。

英語が使えるには、頭の良し悪しも関係ない。

英語が出来るとか、英語で雑談できると分かると、私自身「すごいね。」とか「頭がいいね」とか言われる。そして尊敬じみた目で見る人がいる。

私はそんな事自体、とんでもないと思っている。

大バカものでも、英語を訳なく使っている様子を見てきたからだ。

気付かないうちに英語ができる事はすごいとか洗脳されていないだろうか?

意識を変え、やり方を変えれば簡単な事なのに特別視している事でおかしな事になっていやしないだろうか。。私は、本気でそう思っていてその状況を変えたいと思っている。

オーストラリアの地に渡り、最初は色んな音が飛び交い習ってきた音だけでは対応できないとすぐ知る事になった。

多民族が集まる国では思い思いにみんながツールとしての英語を使い気負いはない。そして、言葉は変化して新語が生まれる。

当たり前にそこにあるものが英語で、英語は特別でもなく憧れでもない。

伝える必要性があるから、なんとか自分なりの語彙を引き出し相手を見て伝えようとする。そこに上手い下手はあるが、思いやりがあれば通じ合えるんだ。コミュニケーションの本質である。

こう話さなければ正解でない。このように話さなければ不正解だなんて事を、なぜ考えてしまうのか?

正しい方法がこれ!常識的な方法がこれ!

そう思った時点で、心を閉ざしてはいないか。。

閉鎖的な村社会に生きているようではないかと感じる。

いくら英語を話したって、英語の型に囚われすぎている時点で何かがおかしいのではないか。。

「英語を特別視しない人が増えれば見える世界が変わる」

とそう思う。英語をそこに置いて、それを入り口とすれば世界が開けるのではないか。それ以上でも、それ以下でもない。

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