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英語警察を分析してみる

英語を学習して使いこなせるようになりたければ、声に出して慣れる必要があります。

けれど、最初から誰でも流暢にお喋りできる訳ではない。しかも、慣れて使えるようになったとしても永遠に間違いゼロで話し続けることは不可能でしょう。ネーティブスピーカーでさえ、たまには言い間違えます。

そんな時に、あちこちの英語警察の存在が立ちはだかります。
しかし、これは日本人だけが遭遇している訳ではない。

英語圏に行けば、第2外国語として英語を話す全ての人が多かれ少なかれ英語警察に遭遇している。

けれど、日本人の傾向として多く注意されがちになっています。しかも、何故かネーティブスピーカーレベルでさえない自国民からも指摘される有様。

それに加えて、長年の教育の減点方式の影響から、異様に出来ない部分を気にします。

どこへ行こうとも、出来ない部分を気にしすぎて萎縮する。そして声に出せなくなる。もっと出来るようになってから声出ししようと机に戻る。

けれど、声出しに慣れないのに声は出せません。
悪循環のループにハマっています。どれだけ覚えようが、柔軟性はつかないです。

海外に行けば英語が出来るようになると思って、英語圏に行く人がいる。

しかし結局は、自国民そして意地が悪いネーティブスピーカーの英語警察に遭遇し日本国内よりも萎縮し引き篭もる日本人さえいます。
現地にいるのに使わない。

間違えを気にしないのは良くないです。無視してたら、改善されませんよね。

けれど、過剰に気にして落ち込む必要はないんです。そんな事してても、意味はない。

英語警察は、いなくなることはありません。

だったら、なるべく会わないようにする。

又は会っても良い先生と思い、活かせば良いのではと思います。

なんでも物は捉えようなんです。

ここで言っておきたい。

相手のことを思って言っている人は、悪くない。意地悪な気持ちで言ってる人と見分けなければいけない。

あまりにも今まで悪意を持って他人の粗探しをする人にあってきたせいで、親切心で言ってる人にさえ拒否反応を示す。そんな人も見受けられる。

それは正直に言って認知の歪みである。そういう人も多い。

実際にいる以上の英語警察が見えている人さえいて、これは心の病である。

酷い人だと、語学学校の先生さえ英語警察に見えている人さえいた。もう本当に重症だ…。

褒めている部分も沢山あるのに、指摘された部分だけ異常に固執して衝撃を受けている。

変すぎる行動だ。

その根底には、激しい英語コンプが潜んでいると思う。

そんなに、英語自体に大きな価値を頭の中で持たせているのはどうしてなんだろうか?

英語が出来るだけで、そんなに偉いのだろうか?

明らかに偉くない人でも、英語圏にいれば自然と英語を使う。それに、英語は日本語よりもアルファベットだけで簡単で便利な言語だからツールとして世界中で使われている。それだけの話。

言葉には順位なんてそもそもない。日本語にも英語にもだ。人と同じように、語学如きで判断できないはずだ。

まずは、こういう根底を見直して正しく人の反応を識別できた方が良い。
特に英語圏では、そんなに多くの人が悪意を持って英語について指摘してはいない。ただのツールだから、、

よほどの理由がなければ、日本にいる外国人にいちいち日本語の小さい誤りを指摘する人はそんなにいないのと同じこと。

なぜ、日本にいる外国人が美しい英語を話していなくても指摘したり笑ったりしないのだろうか?

私から見れば、そんな人はゴロゴロいるのだが誰もしないよね。そんな事……。

それに気づくべきだと思う。全くおかしな事だ。

(日本人は英語が話せない。この人は日本人だ。だから、上手く出来るはずがない。上手く出来させてたまるものか!こっちが下に見えるじゃないか!)

という歪んだ気持ちが根底にあるはずだ。おそらく自分自身もさほど英語はできないと思っているのだろう。

だから異様に指摘している。英語コンプだ。

(日本人は英語が話せない。この人は日本人だ。だから、上手く出来るはずがない。一方、私は優れた英語を話せる国出身者だ。出来させてたまるか!)

と悪意を持って英語を指摘する、いじめっ子外人と似たような思考をしている。

英語警察を分析してみた。

英語が人生の中で大きな位置付けになっているのだろう。そして、人の優劣をそれで決めているのだろうか…なんかとても謎な思考だ……。

変すぎるお笑いではないか。。。

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